a 読解マラソン集 5番 わが家の遠足のお弁当は na3
 わが家の遠足のお弁当べんとうは、海苔巻のりまきであった。
 遠足の朝、お天気を気にしながら起きると、茶の間ではお弁当べんとう作りが始まっている。一抱えひとかか もある大きな瀬戸せと火鉢ひばちで、祖母そぼ海苔のりをあぶっている。黒光りのする海苔のり二枚重ねにまいがさ 丹念たんねんに火取っているそばで、母は巻きま を広げ、前のばんのうちにておいた干ぴょうかん   を入れて太目の海苔巻のりまき巻くま 。遠足にゆく子供こどもは一人でも、海苔巻のりまきは七人家族の分を作るのでひと仕事なのである。
 五、六本出来上ると、濡れぬ 布巾ふきんでしめらせた包丁で切るのだが、そうなるとわたしは朝食などそっちのけで落ちつかない。海苔巻のりまき両端りょうたんの、切れっぱしが食べたいのである。
 海苔巻のりまき端っこはじ  は、ご飯のわり干ぴょうかん   海苔のりの量が多くておいしい。ところが、これは父も大好物で、母は少しまとまると小皿に入れて朝刊ちょうかんをひろげている父の前に置く。父は待ちかまえていたように新聞のかげから手を伸ばしの  て食べながら、
「生水を飲まないように」
「知らない木のえだにさわるとカブレるから気をつけなさい」
 と教訓を垂れるた  のだが、こっちはそれどころではない。端っこはじ  が父の方にまわらぬうちにと切っている母の手許てもとに手を出して、
「あぶないでしょ。手を切ったらどうするの」
 とよく叱らしか れた。
 結局、端っこはじ  は二切れか三切れしか貰えもら ないのだが、わたしは大人は何と理不尽りふじんなものかと思った。父は何でも真中の好きな人で、かまぼこでも羊羹ようかんでもたんは母や祖母そぼが食べるのが当り前になっていた。それが、海苔巻のりまき限っかぎ 端っこはじ  がいいというのである。
 竹の皮に海苔巻のりまきを包む母の手許てもとを見ながら、早く大きくなっておよめにゆき、自分で海苔巻のりまきを作って、端っこはじ  を思い切り食べたいものだと思っていた。戦争激化げきか空襲くうしゅう中断ちゅうだんした時期もあったが、それでも小学校・女学校を通じて、遠足は十回や十五回は行ってい
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る。だが、どこへ行ってどんなことがあったか、三十数年の記憶きおく彼方かなた霞んかす ではっきりしない。目に浮かぶう  のは遠足の朝の、海苔巻のりまき作りの光景である。
 ひと頃  ころ、ドラキュラの貯金箱が流行ったことがある。お金をのせると、ジイッと思わせぶりな音がして不意に小さな青い手が伸びの て、陰険いんけんというか無慈悲むじひというか、いやな手つきでお金を引っさらって引っこむ。何かにているなと思ったら、遠足の朝、新聞のかげから手を伸ばしの  海苔巻のりまき端っこはじ  を食べる父の手を連想したのだった。
 われながらおかしくて笑ったが、不意にむねおくが白湯でも飲んだように温かくなった。親子というのは不思議なものだ。こんな他愛ない小さな恨みうら 懐かしなつ  さにつながるのである。

(向田邦子くにこ「父の詫び状わ じょう」)
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a 読解マラソン集 6番 気圧のせいで、耳がへんなんだ na3
――気圧きあつのせいで、耳がへんなんだ……。
 サトルはつばを飲みこんだり、鼻をつまんで息をむりやり吹きだしふ   てみたりする。プールに深くもぐって耳がへんになったときにも、おなじようにした。
 ガサッと音がして、まわりの音がちゃんときこえるようになった。エンジンがゴーゴーとうなっている。うるさいけれど、耳につまっていたものがとれたみたいで、気持ちがいい。
 雲のそうからでると、まどのそとに真っ暗な空がひろがった。機体が、すこしななめにかたむく。かたむきながら、すべるようにおりていく。銀色のフラップが、めくれるように上にあがった。
 宇宙うちゅうへとつながる夜空の下に、光のじゅうたんをひろげたような街の明かりが見えてきた。
 オレンジ色の光の線と、星のような緑色の光の点滅てんめつ。そのあいだをぬって動く赤い光の帯は、道を走る車たちのテールランプだろうか。
――なんて大きな街なんだ。まるでSF映画えいがの未来都市みたいだ……。
 サトルは口を半開きにしたまま、目をうばわれている。光のじゅうたんの、はしからはしまでが見わたせない。真っ暗な空の下ぜんぶがキラキラ光っている。飛行機はつばさをしならせて、星雲の中心にすいこまれるようにして高度を下げていく。
 サトルは、さっきまでサッカーのゲーム機をピコピコやっていたが、いまは、その小さなボタンを押すお こともわすれて、目の下のまぶしい世界をのぞきこんでいる。
 光の海がぐんぐん近づいてくる。明かりのついたたくさんのまどがならんだビルや、高速道路が自分の目の高さとおなじになり、オレンジや緑の光が線になって、うしろに飛んでいく。
 体がうくような感じがして、ドンッとおしりが下からつきあげられた。着陸すると、四つのエンジンがものすごい音をだしてぎゃく噴射ふんしゃした。飛行機のスピードが見るまにおそくなる。まどのそとのけしきが、ゆっくりと流れていく。
 飛行機はまだ滑走かっそう路の下をすべっているのに、となりの席のお父さんは、もうシートベルトをはずしてしまった。ほかの人たちはまだじっとすわっているのに、お父さんだけがそわそわして落ちつきがない。
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 飛行機に乗っているあいだじゅう、ずっとそうだった。分厚いぶあつ 書類のたばをめくったり、ノートパソコンのキーをカチャカチャたたいたりして、ともかくじっとしていなかった。
 サトルは、なにもしないでぼーっとしているお父さんを見たことがない。だまって遠くを見ていたり、目を閉じと てなにかを考えているようなお父さんを見たことがない。いつもなにかしていて、いつもいそいでいる。いつも「いそがしい、いそがしい。」といい、そして、ときどき「つかれた。」とため息をつく。だからサトルは、そんなお父さんとちゃんと話をしたことがない。
――だれのお父さんも、みんなおなじようにいそがしいのだろうか。それとも、ぼくのお父さんはとくべつなのだろうか……。
 サトルは、ときどきそんなことを考える。

戸井とい十月「カチーナの石」)
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a 読解マラソン集 7番 「疲れて帰ってきてみりゃ na3
疲れつか て帰ってきてみりゃ、姉妹でとっくみあいの喧嘩けんかか。どうして仲良くできないんだ。女の子同士だろ」
 事情じじょうも聞かないで頭から怒鳴るどな お父さんをわたし睨みつけにら   た。わたし反抗はんこう的な目を見て、お父さんの口もとがまたゆがむ。
 その時、花姉ちゃんがお父さんのかたにそっと手を置いた。
「お父さん、ごめんなさい。わたしが悪いの。」
 その絶妙ぜつみょうなタイミングに、わたしは口を開けて花ちゃんを見た。
「実が悪いんじゃないのよ。わたしにお客さんが来て、それでご飯を作る時間がなかったから……」
 そう呟いつぶや て、彼女かのじょ目尻めじりを指で拭っぬぐ た。なみだなんか出てやしないのに。
 お父さんはしばらくモグモグと口を動かしていた。わたしもここで
「ううん、わたしも悪いの。花ちゃん、お父さんごめんなさい」ってしおらしく謝れあやま ば、この場がおさまることぐらい分かってた。でも、わたしはそんなクサいお芝居しばいはしたくない。
 くちびる噛んか でそっぽを向くと、お父さんがわたし背中せなかにこう言った。
「実も花みたいに素直すなおになってみろ。そうすりゃ、おれだってこんなに怒らおこ ないんだ」
 それを聞いてわたしは立ちあがった。
「……今日はお寺に泊まっと  てくる」
「実お前な。自分に都合が悪いとすぐ寺へ逃げるに  けどな……」
 お父さんの言葉を最後まで聞かず、わたしくつ履いは 玄関げんかんを出た。門のところで振り返っふ かえ たけれど、お父さんもお姉ちゃんも追いかけてこなかった。
中略ちゅうりゃく
 月を見あげてわたしなみだ拭っぬぐ た。
 お姉ちゃんのうそ泣きのかげわたしは本当に泣いているのに、どうし
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てお父さんは分かってくれないんだろう。お父さんの目には、反抗はんこう的なわたしより素直すなおなふりした花ちゃんのほうがいい子に映っうつ ているに違いちが ない。
 わたしは悪くない。悪いのはお姉ちゃんだ。悪いのは、花ちゃんに簡単かんたんにだまされるお父さんだ。
 なのに、わたしはお寺への階段かいだんが登れなかった。永春えいしゅんさんのふところに泣きついて、みんながわたしに意地悪をすると訴えうった られなかったのはなぜだろう。
 わたしは街灯の下にしゃがんでひざ抱えかか た。
 でも、もしかしたら。
 お父さんの言うとおりなのかもしれないって、わたしは心の隅っこすみ  で思ってる。
 素直すなおじゃなくて、何かと言うと「でも」とか「だって」とかわたし言い訳い わけしてる。それで都合が悪くなると、こうやって永春えいしゅんさんのところへ逃げに こもうとする。悪いのはみんな他の人で、わたしはちっとも悪くないなんて思ってることが、わたしの一番悪いところなのかもしれない。

(山本文緒ふみお「チェリーブラッサム」)
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a 読解マラソン集 8番 南博人は従順な子であり na3
 南博人ひろと従順じゅうじゅんな子であり、いたずらっ子でもあった。先生に反抗はんこうらしい態度たいどに出たことは一度もなかった。しかしかれは、そのとき、先生が言った最後の言葉に疑問ぎもんを持った。ひとりで山へ入ったならば、自力で頂上ちょうじょうへ出ることは困難こんなんであるということにうそを感じた。札幌さっぽろ郊外こうがいにある藻岩山もいわやまは、かれが生まれた時から馴れな た山だった。道をそれても、上へ上へと登っていけばやがては頂上ちょうじょうへ出られるはずである。それは小学校五年生の理屈りくつであった。
「おい、南どうした」
 列が動き出しても頂上ちょうじょうの方も見詰めみつ たまま立っている南に不審ふしんをいだいてとなりの少年が話しかけた。
「おれは、山の中へ入る。先生に言うなよ、言ったら、げんこつくれてやるぞ」
 南の受持ちの先生のあだなはげんこつ先生である。悪いことをすると、げんこつをくれるからである。南はげんこつ先生の真似まねをして、となりの少年をげんこつでおどかしてやぶの中へ飛びこんだ。やぶの中を頂上ちょうじょうまで登る気はなかった。道をそれたら、頂上ちょうじょうへ出られないという先生のことばが、ほんとうかうそかたしかめたかったし、同時にかれは山の中がどんな構造こうぞうになっているかも知りたかった。かれはクラスで走るのは一番速かったから、五分や十分の道草を食っていても、直ぐ追いつける自信があった。それにげんこつを見せた以上、だれかが先生に告げ口をするということはまず考えられなかった。かれ餓鬼大将がきだいしょうだった。
 かれはやぶへ入った。木が密生みっせいしている間をかいくぐっていくと、木の芽の強い芳香ほうこうかれの鼻をくすぐった。かれ幾度いくどかくしゃみをした。くしゃみが誰かだれ に聞えはしないかと、耳を済ませす  たが、もう少年たちの足音は聞えなかった。
 かれはにっこり笑った。たいへん面白い考えが浮かんう  だからである。少年たちは六十名いた。彼等かれらが先生に引率いんそつされて頂上ちょうじょうに達するまでに、先廻りまわ をして頂上ちょうじょうに行ってやろうという野望を起した
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のである。先廻りまわ をしたつみで、げんこつ先生に一つぐらいげんこつを頂だいちょう  してもかまわないと思った。
 かれは森の中を頂上ちょうじょう目がけて登り出したが、道のないところを登ることがいかに困難こんなんであるかを知ると、かれ自身のやっていることが、かなり冒険ぼうけんであることに気がついた。
 かれはもと来た道へ引き返そうとして、そっちの方へ移動いどうしたが、道らしいものはなく、いよいよ樹木じゅもくの深みにはまりこんでいった。かれはひどくあわてた。かれ幾度いくど叫ぼさけ うとしたが、声は咽喉いんこうで止った。かれなみだをためた。先生のいうとおりだとすれば、さっきかれがたてた理屈りくつがおかしくなる。頂上ちょうじょうは一つだ、登っていけば必ず頂上ちょうじょうに行き当るはずだ。
 かれは気を取り直した。道を探すさが ことはやめて、一途いちず頂上ちょうじょうを目ざして直登ちょくとしていった。必ず頂上ちょうじょうがあると思いこんでいれば、道に迷っまよ たことも、朋輩ほうばいたちと別れたことも、先生に叱らしか れることも、少しも怖くこわ はなかった。
 高い方高い方へ登っていくと、少しずつ明るさが増しま て来ることがかれにとって希望だった。明るさが増しま て来ることは、頂上ちょうじょうに近づいていることだとは分らなかった。やがてかれは道とも踏みふ あとともつかないものに行き当った。そこを登っていくと、ややはっきりした山道に出会い、そこから頂上ちょうじょうまでは楽な登りだった。
 げんこつ先生は真青な顔をして待っていた。

(新田次郎じろう「神々の岸壁がんぺき」)
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