a 読解マラソン集 1番 地球が出来上がるためには mi3
 地球が出来上がるためには雨が重要であった。三〇〇〇年にわたって降り続いた長雨・大雨である。それは、焼けて溶けと ていた地球上のマグマと闘ったたか て、ついに海を作った大雨である。したがって、その降った分量はおおむね、今の海水の分量一・四×一〇の二十一乗キログラムぐらいである。しかも、地球全体の質量に比べれば一〇〇〇分の一にも満たない。
 最近、地球の誕生を究めようとする地球物理学が、日本の学者もまじえて、急激に進んでいる。その中で、最近、諸外国、主として米・ソの学説を土台にして、日本の若い学者から提唱された地球生成の説がある。そこでは、この雨が重要に扱わあつか れ、世界の学者の注目を浴びている。
 四十六億年ぐらい前、地球は宇宙空間に浮遊ふゆうする火の玉で、その周囲にはおびただしい数の惑星わくせいちりのように漂っただよ ていた。広大な宇宙をベースにして見るからちりとは言うが、その一つぶが直径一〇キロメートルほどのものも無数にあって、形成されつつあった太陽の周囲を回転していた。太陽も、星雲が収縮して火のかたまりになりつつ、円盤えんばん状に回転し、まさにこの時生まれようとしていた。
 幸いと言おうか、地球は今日、九つの惑星わくせいとなっている星の一つとして残り、太陽のほのおの中に吸いこまれなかった。この地球に、惑星わくせいが引きつけられて衝突しょうとつし、地球はその衝突しょうとつエネルギーを蓄えたくわ つつ、次第に大きく成長していった。直径一〇キロメートルほどもある惑星わくせいは、約五〇〇〇年にわたって地球に降りそそいだ。この衝突しょうとつが、ある一定以上の圧力だと、岩石に含まふく れている水分が水蒸気となって放出され、同時に二酸化炭素も放出された。これが、地球を取り巻く最初の大気となり、無数の惑星わくせい衝突しょうとつ・合体のために、水蒸気を主とする大気の分量は膨大ぼうだいな厚さに達した。
 するとこのはかり知れないほどの厚さの大気は、温室のガラスのように、太陽から放射される熱を取り込むと こ ものの、それを逃がさに  ないように機能した。いわゆる「温泉効果」である。そうして、地球の表面の温度が上昇じょうしょうしだした。
 また同時に、相も変わらず惑星わくせい衝突しょうとつは続き、水蒸気の密度
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は異常に高まって、今、われわれの吸っている平均気圧(一気圧)の一〇〇倍、つまり一〇〇気圧ほどになり、地球の表面は一二〇〇度ぐらいの温度になってやっと止まった。それでも、一二〇〇度というのは、岩も石も金属もみんな溶かすと  温度であり、地球の表面は約五〇〇〇万年ぐらいの間、ぐつぐつと煮え立っに た ていた。
 このころになって、惑星わくせい衝突しょうとつも次第に少なくなり、地表の温度も少しずつ下がって、徐々にじょじょ 固まってきた。今、われわれの乗っている地球の骨格が出来上がってきたのである。
 地表の温度が下がってくると、雲(大気)もだんだん下りてきて、雨を落としはじめ、地表の低いところや、大きなクレーターで穴の開いた部分などに、たっぷり水を溜めた ていった。時にかみなり稲妻いなづま伴いともな 、われわれの知らないほどのものすごい勢いと分量で、三〇〇〇年間、絶え間なく大雨が降り続いた。
 減ったとはいえ、未だ激突げきとつしてくる大きな石。無数の火山の爆発ばくはつと新たなマグマの流出。広大な大地の陥没かんぼつ。マグマを固め、岩石を打ち砕きう くだ 、出来たばかりの陸を侵食しんしょくする豪雨ごうう轟きとどろ は、音と光の狂乱きょうらんする耀げんよう舞台ぶたいであった。その響きひび は、まだ空気が出来ていないから、振動しんどうは水蒸気と固まりつつあった固体の中を走り、重々しい響きひび とその反響はんきょうに鳴動する、いわば地球の産声でもあった。

(村山さだ『人はなぜ音にこだわるか』)
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a 読解マラソン集 2番 ラッコは、眠るときや mi3
 ラッコは、眠るねむ ときやあらしのときに岩かげなどに避難ひなんすることもあるが、一生のほぼすべてを海上で過ごしている。アワビ、ウニ、カニ、ハマグリ、イカなどを主食とする美食家であるが、冷たい海水にいつもつかっているため大食家でもある。体重二三キロのラッコは一日に六〇〇〇キロカロリーのエネルギーを必要とするため、体重の三分の一にあたる量の食物をとらなければならない。ちなみに、同じ体重の人間の子どもが必要とするエネルギーは、一日一八〇〇キロカロリーである。
 ラッコの潜水せんすい能力はせいぜい五〇〜六〇メートル、一分間である。そのため、海底のどろの中にいるハマグリを見つけたのに一回の潜水せんすいでは掘り出せほ だ なかったときには、二回でも三回でも同じ場所に潜っもぐ て貝掘りほ をする。貝を掘っほ たりカニやウニをつかまえるのは難なくこなすのだが、岩に固着した大きなアワビにだけは歯が立たない。そこでラッコは、両前足で手ごろな石をつかんでアワビのからのへりを打つという、驚くおどろ べき戦術を使う。一個のアワビをがすには、少なくとも三回は潜らもぐ ねばならないが、その間、ラッコは同じ石を使い続け、引きがしに成功するとその石は捨ててしまう。ここで特筆しておくべきは、採食に道具を使用する哺乳類ほにゅうるいは、人間とチンパンジーとラッコだけという事実である(もっとも、ホッキョクグマがアザラシに氷のかたまりを投げつけたという話もある)。ただしチンパンジーとは違いちが 、ラッコが自分で道具を製作することはない。
 ラッコの食事は必ず水面で、仰向けあおむ 浮いう たままで行われる。岩からがしたアワビの中身をからから取り出すのは、歯を使えば簡単にできる。ところがハマグリやイガイなどの二枚貝には、やはり歯が立たない。そこでラッコは、ここでも石を道具として使う。直径が一五センチ前後の平たい石を選び、水面に仰向けあおむ 浮いう た胸の上に置き、それに貝を打ちつけてからを割るのである。大きなウニなども、そうやって割り、中身を取り出して食べる。
 ラッコには、同じ種類の食べ物を続けてつかまえては食べるという習性がある。イガイがびっしりとくっついている岩で一頭のラッコが八六分間も採食を続け、その間に五四個のイガイを食べたとい
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う観察もある。では、貝殻かいがらを割る石は貝を採るたびに拾うのかというと、そうではない。貝採りの間、同じ石を持ち歩くのである。前足の脇の下わき したにあたる部分の皮がたるんでポケットのようになっており、そこに石をはさみ込むこ のだ。ただし、同じ石への執着しゅうちゃくはそれほど強くはないらしい。それまで使っていた石を何かの拍子ひょうしに落としたりすると、別の石を調達する。一頭のラッコが続けて四四個のイガイを採食する間に、違うちが 石を六個使ったという観察記録もある。
 では、ラッコにはなぜ、道具を使うというたぐいまれな行動ができるのだろうか。あるいは逆に、ラッコとごく近えんな他のカワウソ類はなぜ道具を使わないのだろうか。
 カワウソ類のいちばんの特長は、器用な前足を持ち、どんなものでも遊びの対象にしてしまう才気があることである。ペットのカワウソが自分で蛇口じゃぐちをひねって浴槽よくそうに水を満たし、浴室を水びたしにしたという逸話いつわもあるほどなのだ。つまりラッコの祖先は、冷たい海で大量の食物を手軽に入手するために、豊富に生息する貝類を利用するに際して石を使うくらいの能力は、はじめからそなえていたと考えられる。ラッコ以外のカワウソ類がそれをしないのは、単に貝類を食物として利用する必要がなかったからにすぎないのではないか。
 貝を打ちつける石がないと、ラッコは貝と貝を打ちつけてからを割る。このような行動の臨機応変さこそがラッコに道具使用を可能とさせているのだろう。この柔軟性じゅうなんせいを知能と呼ぶかどうかは別にしても、動物は遺伝的に固定されたもん切り型の行動を繰り返しく かえ ているにすぎないという狭量きょうりょうな考え方が鋭くするど 変更へんこう迫らせま れることはまちがいない。
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a 読解マラソン集 3番 人生八十年時代と mi3
 人生八十年時代と言われる昨今だが、八十年と言えばずいぶん長いような気もするものの、月に直して九六〇か月と言えば、それっぽちか、と思う。単位をさらに細分化すると一生は二万九〇〇〇日であり、四千週であり、七十万時間、二十五億秒ということになるが、さて、あなたはこのうちどの単位で測ったのが長くて、どれが短いとお感じになるだろうか?
 どれも同じ長さでありながら、単位によって受ける感じがひどく異なるところが不思議なところだ。よく、同じ長さの平行線の両端りょうたんに一方は外向き、他方は内向きの矢印を付けると、両者は同じ長さには見えなくなるというのがあるが、あれに似てなくもない。
 こうした時間感覚を実生活に応用するとすれば、期待に胸をふくらませて待つ刻限と、できるだけ先に延ばしたいと思っている刻限とでは、単位をちがえて待つのが幸福な処し方と言えよう。
 一方また自分の「人生経過時間」を日数で数えることもできるわけで、誕生日の他に「生まれて一万日目」とか「二万日目」とかを自分なりに数えてみれば、年数単位によってぼかされてきた一日一日の重みがどっしりと感じられるのではなかろうか? ちなみに前者は二十七さいの時、後者は五十四さいの時におとずれる。
 以上は個人の時間に関する話だが、次に「世代」の話をすると、(一世代を約三十年とすれば)たとえば「織田信長は、われわれ現代人の十三世代前の人物である」といった言い方が可能となる。十三世代と言えば、手を伸ばせの  ば届きそうな時間的距離きょりではなかろうか? 歴史の中から信長本人がヌッと顔を出しそうな、そんな実在感が感じられる数字である。
「四百年前」と言ってしまうから歴史上の人物になってしまうだけで、世代で数えればさほど昔の人ではなかったということだ。
 さらに時代をさかのぼって源頼朝みなもとのよりともを例にとってみても、この人物にしてからが二十六世代前。だいたいが、西暦せいれき制定の基準となったイエス・キリストだって六十六世代前なのである。
 歴史書などを読んでいる間は、キリストやそれと同時期の弥生やよい時代など太古の昔のような気がするが、これとても、親子孫だけですでに三つを数える「世代」を六十いくつか数えるだけで手がとどいてしまう時代なのだ。
 こうした例はいずれも、一定の単位でしか考えたことのない事柄ことがらを、それとは別の単位に置き換えお か たら新鮮しんせんに見えた例で、こうした
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ことは時間以外にも当てはまる。その一例として、体重の話をしてみよう。
 唐突とうとつ恐縮きょうしゅくだが、あなたは体重が何グラムおありだろう? 私は七万グラムだ。つまりは七十キロなのだが、グラム表示をすると私の頭には二つの連想が働く。
 一つは、新生児との体重比較ひかくである。赤ん坊あか ぼうの体重は三千七百とか二千九百とか、たいていグラム表示である。私自身は生まれたときに三千五百だったと聞いているので、その時の二十倍に成長したことになる。こうした比較ひかくは同一単位でこそ容易にできる。それにしても、子どもの体重はどのくらいからキロ表示に変わるのだろう?
 もう一つの連想は、やや陰惨いんさんでグロテスクである。
 グラム表示を聞くと私の頭には肉屋の店頭の光景が浮かびう  、自分が肉牛にでもなったような気がするのである。なぜこういう連想が働くかと言えば、もちろん、肉牛の売買がすべてグラム単位だからである。
 以上のように、単位の変換へんかんは、容易に日常性からの脱却だっきゃくを呼ぶ。最後に一つ、私からの質問。
「今度の日曜日はあなたにとって生まれて何度目の日曜日ですか?」
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a 読解マラソン集 4番 ある朝、少年は、 mi3
 ある朝、少年は、目覚めるなり、「山へ登ろうよ。」と女の子に言った。「山へ登るの。」女の子は少年に問いかえすように言ったが、少年が、「うん、山や、裏の山や。松の木に登って、港を見ようよ。」とせきこんで言うと、女の子はしばらく少年を見つめていて、やがて、「うち、山なんか登ったことあらへん。」と、許しを請うこ ように、おどおどと言った。女の子は足が悪くて山へ登ることができなかったのだ。だが、かがやいていた少年のまなざしが、みるみるくもっていくのを見ると、「ぼんは山へ登りたいの。」と言った。それから、「ぼんが登りたいんなら、うち行ってもええで。」としょんぼり言った。
 女の子は、裏木戸を出てがけはだにかかるところで、もう、右足のひざを手でかばいながら、やっと少年のあとをのろのろと追っているのであった。少年は、はじめ、そんなことに気づかなかった。女の子に少しでも早く尾根おねからの景色を見せたくて、一人で先に駆けか 登って行った。女の子も自分と同じように駆けか 登って来るように、少年は思っていたのだ。だが、二つ三つ、まがり角をまがってから、女の子の姿が見えないことに気づいた。「はようおいでよ。」大きな声でそう言って、それから不安になって、あとへ駆けか もどって行くと、女の子は、最初のまがり角をやっとまがりおえて、右足をひきずりながら懸命けんめいに登って来ていた。色のあせたメリンスの着物のひざぎりのすそから、真っ直ぐつっぱっている右足が見えた。そんなことは、毎日いっしょにいて、とっくに知っていたのだが、少年は、その時、はじめてそのことに気づいたように思った。
 少年が女の子のそばまでもどって行くと、女の子はいっそう懸命けんめいに足をひきずりながら、「うち、のろくってかんにんな。」と言った。女の子は、せいいっぱい笑いをほおにうかべようとしていた。そばかすが汗ばんあせ  でいる目のまわりにういてきていた。少年は、それが女の子の泣き出す前の表情であることを知っていた。少年には、女の子の大きな黒い目から、今にもぽたぽたとなみだがこぼれ落ちそうに思えたが、女の子はうれしそうに、にっこり笑ってみせて、「ぼん、はよ、行こ。」と言った。
 少年は、そうすれば女の子が歩きやすくなるなどということは考えてもみずに、女の子の右肩みぎかたへ自分の左肩ひだりかたをよせていって、女の
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子のからだの重みを自分で支えた。もう少年は尾根おねまで登ることはあきらめていた。だが、ついそこまで登れば、目の下に、港の黒いかわら屋根の並んだ町並や、いっぱいに汽船がうずまった港が見おろされるところがあることを思い出していた。せめて、そこまで、少年は、女の子を連れて行きたかったのだ。
 少年が、やっと女の子をその山肌やまはだまで連れて行くと、女の子は、「わっ。」とさけんで、日だまりへとびだして行った。女の子はすぐころんで、メリンスの着物には芝草しばくさがまみれたが、そんなことはどうでもいいように、女の子は、「うち、こんなとこに来たん、はじめてや。」とさけぶように少年に言った。女の子のからだいっぱいに春の日ざしがこぼれていた。

(田宮虎彦とらひこ『小さな赤い花』)
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