本を読むことは、よいことだ。たとえ、それが住居のせまさが理由であっても、個人が自由な想像力によって、それぞれの精神の個室を持つのはのぞましいことだ。実際、そもそも「個人」というのは、そういうふうにして成長してゆくものだからである。
しかし、家庭の中の書物というのを考えてみると、これはずいぶん、ふしぎな品物のような気がする。なぜなら本は家庭の備品のひとつではありながら、結局のところ、個人に属するものであるからだ。家庭の本棚にならんでいる何十冊、あるいは何百冊の本の背表紙は、家庭のみんなが毎日ながめているのに、その中身は、家族共有のものではないのである。その点で、家庭にある他の多くの備品と書物とは、性質がちがうのだ。
それはそれでよい。ちょうど、個室をのぞきこまないことが礼儀であるように、精神の個室ものぞきこまない方がよいのかもしれない。お互い、好きな本を読んで、それぞれの世界をたのしめば、それでよい、というべきなのかもしれない。
しかし、本は一方で個人に属するものでありながら、同時に、だれもが入ることのできる個室、つまりホテルの部屋のような社会性も持っている。だれかが使用中であるかぎり、そこにふみこんではならないが、空室になったときには、だれが使ってもかまわない。主婦が買いこんだ文学全集を夫や子どもが読むことはいっこうにさしつかえないことだし、子どものマンガを親が読んだっていい。表題はまったくちんぷんかんぷんであっても、夫の読んでいた経営学の本を、妻が読もうとしてみてもかまわないはずだ。
そして、わたしは、そういう密室の交換がこれからの家庭ではたいへん大事なことであるような気がする。
人間がことばで表現できるものは、きわめてかぎられている、と哲学者はいう。それは家族の中の人間関係についても真実だ。夫婦、親子、毎日顔をつきあわせておしゃべりは果てしなく続けられているけれども、それによって、はたしてお互いがどれだけ「理解」しあっているかは、わからない。相手の心の深い部分が、どんな構造になっているのかは、本当に、見当がつかないのである。
その見当のつかない部分を知ることはできないし、また、知る必要もない。「個人」どうしのつきあいというのは、そういうものなのだ。しかし、もしも、その心の奥深い部分をつくっているもののひとつが書物であるとするならば、前にのべたような理由によって、お互いの書物を交換することが家庭の中で考えられてもよいの
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