a 読解マラソン集 9番 本を読むことは、 me3
 本を読むことは、よいことだ。たとえ、それが住居のせまさが理由であっても、個人が自由な想像力によって、それぞれの精神の個室を持つのはのぞましいことだ。実際、そもそも「個人」というのは、そういうふうにして成長してゆくものだからである。
 しかし、家庭の中の書物というのを考えてみると、これはずいぶん、ふしぎな品物のような気がする。なぜなら本は家庭の備品のひとつではありながら、結局のところ、個人に属するものであるからだ。家庭の本棚ほんだなにならんでいる何十冊、あるいは何百冊の本の背表紙は、家庭のみんなが毎日ながめているのに、その中身は、家族共有のものではないのである。その点で、家庭にある他の多くの備品と書物とは、性質がちがうのだ。
 それはそれでよい。ちょうど、個室をのぞきこまないことが礼儀れいぎであるように、精神の個室ものぞきこまない方がよいのかもしれない。お互い たが 、好きな本を読んで、それぞれの世界をたのしめば、それでよい、というべきなのかもしれない。
 しかし、本は一方で個人に属するものでありながら、同時に、だれもが入ることのできる個室、つまりホテルの部屋のような社会性も持っている。だれかが使用中であるかぎり、そこにふみこんではならないが、空室になったときには、だれが使ってもかまわない。主婦が買いこんだ文学全集を夫や子どもが読むことはいっこうにさしつかえないことだし、子どものマンガを親が読んだっていい。表題はまったくちんぷんかんぷんであっても、夫の読んでいた経営学の本を、妻が読もうとしてみてもかまわないはずだ。
 そして、わたしは、そういう密室の交換こうかんがこれからの家庭ではたいへん大事なことであるような気がする。
 人間がことばで表現できるものは、きわめてかぎられている、と哲学てつがく者はいう。それは家族の中の人間関係についても真実だ。夫婦、親子、毎日顔をつきあわせておしゃべりは果てしなく続けられているけれども、それによって、はたしてお互い たが がどれだけ「理解」しあっているかは、わからない。相手の心の深い部分が、どんな構造になっているのかは、本当に、見当がつかないのである。
 その見当のつかない部分を知ることはできないし、また、知る必要もない。「個人」どうしのつきあいというのは、そういうものなのだ。しかし、もしも、その心の奥深いおくふか 部分をつくっているもののひとつが書物であるとするならば、前にのべたような理由によって、お互い たが の書物を交換こうかんすることが家庭の中で考えられてもよいの
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ではないか。
 書物を交換こうかんする、というのは、自分の体験した異質の世界を見せあう、ということなのである。そして、だれにでも経験のあることだろうが、自分が読んでみて、本当にいい本だ、と思った本は、ひとにも読ませたくなるものだ。読んでいる間は、完全に自分だけの世界だが、その世界に、親しい人をひきずりこんで経験を共有したくなるのである。そういう経験の交換こうかんが、家族のそれぞれの読書生活の中でおこなわれるのは、すばらしいことだ。
 ひとの日記や手紙を読むのは失礼なことだ。だが、書物は、一方で私的でありながら、他方では共有の許されるものである。夫婦の間で、あるいは親子の間で、お互い たが の本をとりかえて読むことで、家族は個人を尊重しながらも互いにたが  理解を深めることができるかもしれない。

加藤かとう秀俊ひでとし「暮しの思想」)
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a 読解マラソン集 10番 春、植木市がたつ。 me3
 春、植木市がたつ。お寺の境内へ、かなりな商品が運びこまれ、ちょっとした市なのである。父は私にガマ口を渡しわた て、むすめの好む木でも花でも買っちゃれ、という。汗ばむあせ  ような、晴れた午後だった。むすめがほしいといいだしたのは、ふじ鉢植えはちう だった。それは花物では、市のなかのお職だった。はちごとでちょうど私の身長と同じくらいの高さがあり、老木で、あすあさってには咲こさ うという、つぼみふさがどっさりついていた。子供は、てんから問題にならない高級品を、無邪気むじゃきにほしがったのである。子供だからこそ、おめずおくせずねだるが、聞かずとも知れる高値である。とてもガマ口の小銭で買えるものではない。もちろん私は買う気などなくて、子供とふじ不釣合ふつりあいいなおかしさを笑ってすませ、ふじの代わりに赤い草花をどうかとすすめた。子供はそれらの花は、以前にもう買ったことがあるからとしりぞけ、小さい山椒さんしょうの木を取った。お職のふじから一度に大下落の山椒さんしょうだった。ほしいものが買ってもらえなくて、わざと安値のものをと嫌味いやみにすねたのではない。彼女かのじょはさんしょの葉としらすぼしを、醤油しょうゆでいりつけたのをごはんにぱらぱらとまき、お菜に玉子焼をつけたお弁当が、大好きだったからなのである。ふじでなくても、山椒さんしょうでも子供は無邪気むじゃきに喜んでいた。私もそれでよい、と思ってうたがわなかった。
 ところが、夕方書斎しょさいからでてきた父が、みるみる不機嫌ふきげんになった。ふじ選択せんたくはまちがっていない、という。市で一番の花を選んだとは、花を見るたしかな目をもっていたからのこと、なぜその確かな目に応じてやらなかったのか、ふじは当然買ってやるべきものだったのに、という。そういわれてもまだ私は気づかず、それでもふじはバカ値だったから、と弁解すると父は真顔になっておこった。好む草なり木なりを買ってやれ、といいつけたのは自分だ、だからわざと自分用のガマ口を渡しわた てやった。子はふじを選んだ、だのになぜかってやらないのか、金が足りないのなら、ガマ口ごと手金にうてばそれで済むものを、おまえは親のいいつけも、子のせっかくの選択せんたく
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も無にして、平気でいる。なんと浅はかな心か、しかも、ふじがたかいのバカ値のというが、いったい何を物差にして、価値をきめているのか、多少値の張る買物であったにせよ、そのふじを子の心の養いにしてやろうと、なぜ思わないのか、そのふじをきっかけに、どの花をもいとおしむことを教えてやれば、それはこの子一生の心のうるおい、女一代の目の楽しみにもなろう、もしまたもっと深い機縁きえんがあれば、子供はふじからつたへ、つたからもみじへ、松からすぎへと関心の芽を伸ばさの  ないとはかぎらない。そうなればそれはもう、その子が財産をもったも同じこと、これ以上の価値はない、子育ての最中にいる親がだれしも思うことは、どうしたら子のからだに、心に、いい養いをつけることができるか、とそればかり思うものだ、金銭を先に云々うんぬんして、子の心の栄養を考えない処置には、あきれてものもいえない――さんざんにきめつけられた。
 ふじの代わりに買い与えか あた 山椒さんしょうが、叱らしか れたあとの感情をよけいせつなくした。一尺五寸ほどの貧弱な木だが、緑の葉は揉めも ば高い香気こうきをはなち、噛めか 鋭いするど 味をひろげ、とげ容赦ようしゃなく刺しさ た。だれのためにあがなった木だろうと、思わされた。だが、叱らしか れたのは身にしみたが、さればといってその後私が心を改め、縁日えんにちのたびに子に花の楽しさをコーチしたのではない。とかくルーズなのである。
 子は大きくなっていった。花を見ても、きれいだというだけ、木を見ても、大きな木ねというだけ、植物にはそれ以上は心が動かないようだった。世話をして花を咲かすさ  などは、面倒めんどうそう。庭木の枯れ枝か えだを一本切るにさえ、しぶりがちである。ほかには優しい心を持つほうなのだが、野良犬にふみ倒さたお れた小菊こぎくを、おこしてやろうともしない固さなのである。草木をいとおしまぬ女が、どんなに味気ないものか、子ながらうとましく思う時もあった。話しても説いても、心が動かないようだった。それまでも私は、あの時のふじでチャンスを失ったらしいと、後悔こうかいすることが度々あったのだが、今更いまさらながらこの責任は自分にある、とつらい思いをした。いくらつらく思っても、もうおそかった。
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読解マラソン集 10番 春、植木市がたつ。 のつづき

 年々四季はめぐる。芽立ち、花咲きさ 、みのり、枯れか おちる。そのことあるたびに心はいたんだ。が、そのままむすめは人のもとへ縁付いえんづ た。孫がうまれた時、この子は草木をいとおしむ子になれと、ひそかに祈っいの た。子に怠っおこた たことを、孫でつとめたいと思った。
 けれども、私のおもわくはがらりと外れた。いいほうに外れたのである。思いがけないことに、むすめの夫は花を好み、木を育てようとする人だった。土をいじり、種をまいて喜ぶのである。子がうまれ、結婚けっこん生活が落ち着いてから、その趣味しゅみというか心柄こころがらというかが、やっと形になって現れはじめたのである。意外な感じがしたのだが、もっとも意外だったのは、そういう夫につれてむすめもしみじみと花をみつめ、芽をいとおしむ気をもったことだった。ほっとして、私はもう孫のことも安心した。

(幸田文「ふじ」)
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a 読解マラソン集 11番 急な下り坂をおりきったところに me3
 急な下り坂をおりきったところに信号があった。交差する大きな道路があるのだから信号機があるのは当然だが、下り坂で勢いのついた車を停めるには、少々無理がある。よほど早めにブレーキを踏まふ ねばならない。もっとも、交通量は少ない道だが。
「この交差点で事故はおきないのかしら」
 運転席の夫に言い終わるか、終わらぬうちに、急ブレーキをかける音と共に、車全体に鈍いにぶ 振動しんどうが伝わった。バックミラーを見て夫はサイドブレーキを引き、直ぐに外に出た。ぶつかったのは五十CCバイク。高校生か。その子は転倒てんとうすることもなく、バイクのハンドルに固定してみるミラーのゆがみを直しながら、我々の車の左側をするすると走り抜けよはし ぬ  うとしたが、信号は赤である。
 助手席の私が窓を開け、すぐ左となりに来たその子が痛そうに股間こかんに手をやっているのを見て、「大丈夫だいじょうぶ? 痛くしたんでしょ」と言うのと、夫が「おいっ、逃げるに  のか」と声を出したのと、ほとんど同時だった。
 逃げるに  のか、と言われて男の子はむっとした表情になり、バイクにまたがったまま、両足で二輪車を押しお もどして車の後にまわり、傷はつけなかった、と言った。ブレーキをかけていなかったわけではない。かけ方があまかった程度だから五十CCバイクがバンパーにぶつかっても車体に傷がつくことはない。
 私はその子がけがをしなかったかどうかがまっ先に心配になり、夫はぶつかっておきながら挨拶あいさつもせずに行き過ぎようとした態度が面白くなかった。「すいません」の一言を言わせて再びハンドルを握っにぎ た。私は走り出した車の窓から首を出し、「本当に大丈夫だいじょうぶね。痛いところはないのね。気をつけなきゃだめよ」と車から次第に遅れおく ていく子にどなるように言った。
 夫がとっさに出した「おいっ、逃げるに  のか」という言葉に私はこだわっていた。あの子の気持ちの中に「逃げるに  」という意識はなかったと思う。「あっ、いけねぇ。ぶつけちゃった。でも傷をつけたわけじゃないからかまわないだろう」と、軽い気持ちで通りすぎようとしただけのことだろう。きつい言葉で少年をなじる夫の心がうとましく思えた。
 息子は高校二年の時、奥多摩おくたま有料道路で転倒てんとうし、反対車線のガー
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ドレールにぶつかって気を失い、病院に運ばれた。同行の友人がかけてきた電話で事故を知り、あわてて病院にかけつけた時は、夕やみが色濃くいろこ 人の顔も定かには分からぬほどだった。
 病院の門をくぐるとかけ寄ってきた人影ひとかげがあり、それが友人の安川君で、かれはとぼしい外灯の明かりを背に顔をこわばらせて、「ハンドルを握っにぎ ていたのは宮地君で、ぼくは後ろに乗っていた」とまず言った。「あなたはけがをしなかったの」の問いに、すり傷だけだと言ってズボンをまくりあげ、血のにじんだすねとすりきれたワイシャツからのぞいた右手のひじとを見せた。
 「オートバイは弁償べんしょうします」と言う安川君に、私は「とんでもない。あなたにけがまでさせてしまってごめんなさい。いずれおわびにあがります」と言って病室へ急いだ。
 固いベッドに放り出されたような格好でうずくまっていた息子は、人の気配に薄目うすめを開け、私の姿を認めて、「ごめんなさい」と言ったまま、ゲーゲーとはいた。もうずっとはき続けていたらしかった。私は、息子の背中を一晩中さすり続けた。明け方はき気が治まって眠りねむ についた息子が、目を覚ましたのは昼近くである。もう安心と思うと私はむしょうに息子を責めたくなっていた。
「お友達にけがをさせるような無茶な運転はしないでちょうだい」
 息子は驚いおどろ た顔で「運転していたのはあいつだよ。『あっ、石だ』って安川が言ったとたんに投げ出されていたんだ」と答えたまま急に口をつぐんで、あとは何をきいてももくして語らなかった。
 救急隊員に菓子かし折りを持って礼に行き、どちらが運転していたのでしょうと尋ねたず た。
「我々には分かりません。しかし、運転者があんな遠くまで放り出されることは、あまり例がありません」
 私は安川君に激しい怒りいか をおぼえた。「ひきょうね、逃げに ないでよ」ときつくとがめたい気分になっていた。翌々日、病院へ見舞いみま に来た安川君に私は自分を制しきれず、「あなたが運転していたんですってね」と言ってしまった。かれは言葉をのんで、私にチラッと視線を走らせ、「じゃ、また来る」と息子に言って部屋を出た。息子は暗い目をして私を非難した。
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読解マラソン集 11番 急な下り坂をおりきったところに のつづき

「よけいなことを言わないでよ。あいつは十分に悪いと思っているんだ。大人なんて、自分さえ気がすめば、それでいいんだね。これは僕たちぼく  のことなんだから、黙っだま ててよ」
 安川君が責任逃れのが をしようとしたのは確かだ。しかし逃げるに  人間を追及ついきゅうして何が得られるだろうか。たとえ安川君が運転者だったことがはっきりしても、私がかれを責めてかれに反省をうながすことができるだろうか。十六才。事の善悪はわきまえている。
 息子と安川君はその時を境に付き合いをやめた。親が付き合うなと言ったわけではない。彼らかれ には彼らかれ の常識があったらしい。
 「あなたが運転していたんですってね」という言葉が、どれほどあの子の心に突きつ ささったか。かれを責めた私は、あれ以来、自分を責め続けることになった。もう八年も前のことなのに、あの時から私は他人をなじる言葉に耳をおおいたくなっている。夫の「逃げるに  のか」の言葉の中に、私は冷酷れいこくとエゴしかないのを感じ、やりきれない気持ちだった。
 やがて高速道路に入るまでの半時間あまり、夫と私はたがいに相手の態度を無言で非難しあっていた。挨拶あいさつできない年齢ねんれいではない。あの子に先ず礼儀れいぎをさとすのが当然だろうというのが、夫の言い分であることは、相手が黙っだま ていても私にはよく分かる。夫の方が先に折れてきた。「今度の休みに大菩薩ぼさつへ登ろうか」。以前から私が行きたがっていたからである。しかし、私はいつものようにその言葉にすぐのる気にはなれなかった。再び二人とも黙りだま こんだ。速度制限オーバーを知らせるチャイムだけが、さっきからずっと鳴りっぱなしだった。

(宮地真美子「ずれ」)
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a 読解マラソン集 12番 人間がこの世に生きて持つ me3
 人間がこの世に生きて持ついろいろな体験は、人間の最大の教師だ。あることを目的として我々はそれを達成しようと試みる。そして失敗し、また成功する。その経験を、記憶きおくの中で整理して知恵ちえと呼ばれる理解力を得ることによって、類似した次の体験に我々は備える。その累積るいせきが何代も何代も続いて巨大きょだいなものに達したのが文化である。
 技術的な知恵ちえのうち簡単なものは、教育によって容易に伝えることができる。しかし、理論や道具や機械のようなものが複雑になると、それを授ける人受け取る人が限られ、そこに専門家が生まれる。技術的な知恵ちえは専門家にまかせておいていいことがある。
 肉体的なもの、心理的なもの、または道徳的、宗教的なものの伝授は、専門家のみで処理できない。乳の飲ませかた、子どもの育てかた、他人との交際の仕方、愛や悲しみの扱いあつか 方とその表現の仕方などは、あらゆる人間が、親や教師や先輩せんぱいから受け取って、自分の生活の実質としなければならない。それ等を体得することは赤ん坊あか ぼうから大人になることであり、言わば動物から人間になることである。
 自分と他人との触れ合いふ あ かた、自分の内部に起こる欲求や喜びや悲しみの調整の仕方は、人間であることの根本条件につながっているがゆえに、その処理を誤ることは、生存の危機となり、破滅はめつとなる。我々の存在の外側にあるものは、特に専門的な知識や技能を必要とするものでない限り、我々はそれに慣れることができる。たとえば自転車に乗ることは、人間を疲労ひろうさせるものだとしても、人間は、必要なときだけそれに乗り、不必要な時はそれを使わずにいることができる。自転車は我々から離れはな てそとにあるものであり、我々はそれを必要な時だけ利用する。
 しかし、自分の喜びや悲しみ、家族や勤務先の同僚どうりょうなどと接触せっしょくせずに生きていることはできない。そういう事柄ことがらについての生き方の技術というべきものは利口な人間も利口でない人間もが、同じように学び取り、そして毎日を、毎時間をそれの処理に当たらなければならないことである。その処理の仕方として、礼儀れいぎとか倫理りんりという一般いっぱん的なものがあり、さらにより深いところからその種のことに
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ついての真理的な安定を得る方法としての道徳、愛憎あいぞう恋愛れんあい、宗教の教理などがある。
 そして我々が「体験」という言葉を、人間の生き方との関係において使うときは、このような体験のことを言う。そして宗教家や教育家が、我々を導くのもまたこのような部分においてである。この部分について、だれでもが自分の体験について何かの判断をしているものである。私の父は、田舎の村の収入役という目立たない仕事をしている人間であったが、何度か私たちに向かって言った。「人生というのは芝居しばいをしているようなものだ。自分の当たった役割りをうまくやる外はない」と。たしか、私のおぼろげな推定では、私の父は村長になりたかったようである。その当時の村長は選挙でなく、前任者や村会議員たちの推薦すいせんによって地方の長官から任命されたものであった。父は内気な手固い人間であったので、村長に推挙される機会がなく、収入役で終わった。そのことに対しての不満とあきらめの感情がこの言葉の中に漂っただよ ていることを、二十さいぐらいのとき私は感じた。

伊藤いとう整「体験と思想」)
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問題

me-03-4 問題1
問1 読解マラソン集9番「本を読むことは」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■本は個人に属するものであるが、家族みなが交換こうかんし、共有できるのがよい。 
1 ○    2 × 

解答1

me-03-4 問題2
問2 読解マラソン集9番「本を読むことは」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■日記や手紙と同様、書物も私的なものであり、それを読むのは失礼なことだ。 
1 ○    2 × 

解答2

me-03-4 問題3
問3 読解マラソン集10番「春、植木市が立つ」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■欲しい花を買ってもらえないことに拗ねす た子どもは欲しくもない山椒さんしょうを選んだ。 
1 ○    2 × 

解答3

me-03-4 問題4
問4 読解マラソン集10番「春、植木市が立つ」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■植物にさして興味がないむすめを変えたのは彼女かのじょの夫であった。 
1 ○    2 × 

解答4

me-03-4 問題5
問5 読解マラソン集11番「急な下り坂をおりきったところに」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■バイクの少年は謝ることなく逃げに たため夫になじられた。 
1 ○    2 × 

解答5

me-03-4 問題6
問6 読解マラソン集11番「急な下り坂をおりきったところに」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■私は、安川君への怒りいか を思い出し、会話をする気にもなれず黙り込んだま こ だ。 
1 ○    2 × 

解答6

me-03-4 問題7
問7 読解マラソン集12番「人間がこの世に生きて持つ」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■我々の存在の内側にあるものは、必要な時だけ利用するというわけにはいかない。 
1 ○    2 × 

解答7

me-03-4 問題8
問8 読解マラソン集12番「人間がこの世に生きて持つ」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■利口な人は、生き方の技術も持ち合わせている。 
1 ○    2 ×

解答8