a 読解マラソン集 5番 恐らくまだ私が hu3
 恐らくおそ  まだわたしが小学校へあがらない、小さい時分のことだったろう。丁度薄ら寒いうす さむ 曇っくも た冬の夕方だった。わたしは兄と父と三人で散歩に出たことを覚えている。父の方からわたしを散歩に誘うさそ ことなどはなかったから、おおかたこの時もわたしが「つれてって、つれてって」と無理に父の後へひっついて行ったものだろう。道はどういう道を通って行ったか、うろ覚えにさびれた淋しいさび  裏町うらまちを通りながら、わたしはいつの間にか、いろいろと見世物小屋の立ち並んた なら だ神社の境内へ入っていた。薄気味悪いうすきみわる ろくろっ首や、看板かんばんを見ただけでも怖気おじけをふるう安達ケ原の鬼婆おにばばなど、沢山たくさん並んなら だ小屋がけのうちに、当時としてはかなり珍しいめずら  軍艦ぐんかん射的しゃてき場があり、わたしの兄がその前に立ち止まってしきりと撃ちう たい、撃ちう たいとせがんでいた。恐らくおそ  わたしも同様、兄と一緒いっしょにそれを一生懸命いっしょうけんめい父にねだっていたことだろう。父はわたしに引っ張られて、むっつりと小屋の中へ入って来た。暗い小屋の内部の突当りつきあた に、電気で照らされた明るい舞台ぶたいがあり、ここかしこと遠く近く砲火ほうかを交える小さい軍艦ぐんかんを二三そう描いえが た青い油絵の大海原を背景はいけいに、伝記仕掛しかけ軍艦ぐんかんが次から次へと静々と通過していた。ガランとした小屋の中には、客が二三人いるばかりで、そのうち当の射撃しゃげき者はただ一人しかいなかった。撃っう 弾丸だんがんが命中すると、軍艦ぐんかんがぱっと赤い火焔かえん噴いふ て燃えあがりながら、それでも依然としていぜん   何の衝撃しょうげきも受けぬらしく、その軍艦ぐんかんは今まで通り静々と舞台ぶたいの上を過ぎて行く。わたしはもちろんそれが本当に燃えるものとは思わなかったが、それでもどうしてあんなに本当らしく燃えるのだろうと、子供こども心に驚異きょういの眼を見張りながら、一心不乱いっしんふらんにこの光景を眺めなが ていた。すると、
「おい?」突然とつぜん父の鋭いするど 声が頭の上に響いひび た。
純一じゅんいち撃つう なら早く撃たう ないか」
 わたしは思わず兄の顔へ眼を移した。兄はその声に怖気おじけづいたのか急に後込みしりご しながら、
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はずかしいからいやだあ」
 と、父の背後はいごにへばりつくように隠れかく てしまった。わたしは兄から父の顔へ眼を転じた。父の顔は幾分いくぶん上気をおびて、妙にみょう てらてらと赤かった。
「それじゃ伸六しんろくお前うて」
 そういわれた時、わたし咄嗟とっさに気おくれがして、
かしい……ぼくも……」
 わたしは思わず兄と同様、父の二重外套がいとう袖の下そで した隠れよかく  うとした。
馬鹿ばかっ」
 その瞬間しゅんかんわたし突然とつぜん恐ろしいおそ   父の怒号どごうを耳にした。が、はっとした時には、わたしはすでに父の一撃いちげき割れるわ  ように頭にくらって、湿っしめ た地面の上に打倒ぶったおれていた。そのわたしを、父は下駄げたばきのままで踏むふ 蹴るけ 、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶めちゃくちゃ振り回しふ まわ て、わたしの全身へ打ちおろす。兄は驚愕きょうがくのあまり、どうしたらよいのか解らないといったように、ただわくわくしながら、夢中になってこの有様を眺めなが ていた。その場に居合せた他の人達も、みな呆っ気あっけにとられて茫然ぼうぜんとこの光景を見つけていた。わたしはありったけの声を振り絞っふ しぼ て泣き喚きわめ ながら、どういうわけか、こうしたすべてを夢現のように意識していた。また自分自身地面の上を、大声あげてのたうちながら、衆人しゅうじん環視かんしの中に曝ささら れたこうした時分の惨めみじ 姿すがたを、わたし子供こどもながらにかしく思わずにいられなかった。しかし父の怒りいか がやっとおさまりかけたころには、わたしはもうかしいも何も忘れわす ていた。ただじっと両手で顔を蔽うおお たまま、思い出したように声をわして泣きじゃくるばかりだった。そしてその合間合間に、はなや、なみだ一緒くたいっしょ  にズルズル咽喉のどおく吸いこみす   ながら、わたしは先へ行ってしまった父の後からやっとの思いでトボトボついて行った。
(夏目伸六しんろく「父 夏目漱石そうせき」)
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a 読解マラソン集 6番 当時の私には、 hu3
 当時のわたしには、なぜこの時こんなひどいめにあったのか、その理由はまるで解らなかった。またそれを考える意識さえも持たなかった。しかしわたしと兄と二人の中で、なぜ自分だけが殊更ことさらあんなに打ったり蹴っけ たりされねばならなかったのか。その点についてわたし子供こども心にも淡いあわ 不満を感じていた。そしていつの間にか、わたしは父のこの行為こういを、一切理屈りくつぬきの持病の結果にしてしまった。もちろんそれは一面においてたしかに病気の結果には違いちが なかったが、しかしその反面に横たわる他の原因、すなわち病的な父の心を刺激しげきしたその直接の動機に関しては、わたしは長い間全く無関心だった。ところがつい先頃さきごろわたしは何の気なしに父の全集を拾い読みしながら、ふと次の数句に気をかれた。それには、
「……わたしの小さい子供こどもなどは非常に人の真似をする。一さいの男の兄弟があるが、兄貴あにきが何かれと云へいえば弟も何か呉れく 云ふいう。兄が小便がしたいと云へいえば弟も小便をしたいと云ふいうすべて兄の云ふいう通りをする。丁度其後そのあとから一歩々々ついて歩いて居る様である。おそるべく驚くおどろ べきかれ模倣もほう者である。」
 わたしはこれを読んだ時、ちらっともう二十数年も前に起こったあの出来事を、どういうものか咄嗟とっさの間に思い起こした。そして父のあの時の恐ろしいおそ   激昂げきこうの原因が、何かこの数語の中に含まふく れているような心地がした。恐らくおそ  父は生来の激しいはげ  オリジナルな性癖せいへきから、絶えず世間一般いっぱんのあまりに多い模倣もほう者達を――、平然と自己じこ偽りいつわ 、他人を偽るいつわ 偽善ぎぜん者達を――心の底から軽蔑けいべつもし憎悪ぞうおもしていたに違いちが ない。
 従ってしたが  父はわたし極端きょくたん模倣もほう性を見るにつけ、その都度苦々しい不快の念を禁じ得なかったとも考えられる。またその苦々しい不快の念はいつか病的な父の心に鬱積うっせきして、兄と同様はずかしいからと射撃しゃげき拒みこば 、その上なおも仕種しぐさまで同じように父の袖の下そで した隠れよかく  うとしたわたしに向って、遂につい 猛然ともうぜん その怒りいか 爆発ばくはつさせてしまった
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のではなかろうか。しかも父の真実性に対する渇きかわ きった執着しゅうちゃくと、周囲を取巻くとりま 偽善ぎぜん者への忿懣ふんまんは病気の進むにつれて必ず加速度的に異様いような方向へ進展しんてんして行くのが常だった。正常における真実性への渇仰かつごうも病気に伴うともな 極度の警戒けいかい心にゆがめられて、いつか、だまされはしまいかという不安に満ちた疑惑ぎわくに変り、その疑惑ぎわくはたちまち、人は自分をそうとしているのに違いちが ないという奇怪きかいな断定にまで到達とうたつする――たしかに父の病的な心理の推移すいいは、一面こうした経路をたどって逐次ちくじ悪化して行ったのに相違そういない。しかも、兄に倣っなら て、父の袖の下そで したにかくれようとしたわたしは、不幸にして「おそるべく驚くおどろ べき模倣もほう者」であり、自分から撃ちう たい撃ちう たいとせがみながら、いざ撃てう われればいやだという、許すべからざる偽善ぎぜん者であり、さらに意識的に父を欺いあざむ 憎むにく べき小忰こせがれだったのである。

(夏目伸六しんろく「父 夏目漱石そうせき」)
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a 読解マラソン集 7番 元気に孫の運動会を hu3
 元気に孫の運動会を見にきて、その足で自分の妹や弟夫婦と二はく三日の旅に出て、そのまま帰ってこなかった。
 父親とは九さいの時に早々死に別れたが、うかつなことに旅先の病院に駆けつけるか    まで母と別れるなんてことは考えてもいなかった。考える余裕よゆうがないほど母とは密着みっちゃくしていた。
 実は生まれて四十二年、母親と離れはな て住んだことがなかった。父がわたしという肩代わりかたが  を残してさっさと消えてしまったから、母ひとり子ひとり、りえとりえママの倍にあたる月日を常に一緒いっしょに生きてきた。
 りえママのようなたくましさがなかった母は、夫を失った不安と心細さをむすめであるわたしにグチることで、そこから立ち直ろうとした。
「まったく神も仏もないね。ウチみたいに困っこま ている家のかわらを台風に吹き飛ばさふ と  せるなんて。お前どうしたらいいと思う?」
 最後はわたしに決断を求める。小学生のわたしは、あわてて飛んだかわらを拾いに走り、それが使えないとわかると剥げは た屋根にビニールを貼るは 方法を真剣しんけんに考えたものだ。
   (中 略)
 母のような大人になりたくないと思い始めたのは、まだ中学生のころだったと思う。
 わたしが自分のしたいことをすると世間体が悪いと怒るおこ のに、わたしがアルバイトをするとすまないねと小さくなる母が何だか悲しくていやで、わたしが一番不機嫌ふきげんになるのは「お母さんに似ているね」といわれた時だった。
 母と違うちが 生き方をしたくて、ずっと母と闘ったたか てきたような気がする。それでいて、離れるはな  勇気も放す勇気もお互いに たが  なかった。
 母に似てるとだれにも言われなくなったら、母に似ていると思える部分が自分の中にたくさんあることに気がついた。わたしがずっと苦戦していたのは、母のかげではなく実は自分自身のかげだったのかもしれないなあと思う。
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 わたしの中の認めみと たくない部分を、母に映しうつ てそこを嫌悪けんおし、勝手に屈折くっせつしていたのかもしれないとも思う。母がいなくなって、いろいろなものが全部自分の中に映し出さうつ だ れ、母への感情がシンプルなむすめのものになった。
 ずいぶん前に、子供こどもは親のかげと戦いながら親と逆の生き方をするか、抵抗ていこうしつつ同じ生き方をするかどちらかだというような説を読んだ覚えがある。親のいいところだけ取るという都合のいい道はないらしい。
 自分に対してはいよいよ気が重いが、写真の母には素直になった。
 写真は笑っている。旅先から家に連れて帰り、必死で笑っている写真を捜しさが たのだ。これからも親のかげ背負っせお て生きていかなければならないだろうわたしを、せめて笑ってみていてほしかったからである。

吉永よしながみち子「母の写真」)
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a 読解マラソン集 8番 僕は一度だけ hu3
 ぼくは一度だけじゅくに通ったことがある。
 小学校の六年生から中学の一年生の春までの間で、場所は北海道の帯広だった。じゅくの名前は正式の名称めいしょうがあったはずだが、今や覚えているのはたぬきじゅくという通称つうしょうのほうだけだ。(別名ぽんぽこじゅく呼ばよ れていた)何故そのじゅくに通いだしたのかは忘れわす てしまった。多分同級生がそこへ通っていたからだろう。あのころぼくには三人の仲間がいた。
 ありもり、おのだ、まなべ、の三人である。ぼく含めふく て四人は学校が終わると毎日自転車をとばしてじゅくへ通うのだった。雨の日も風の日も僕らぼく は自転車でそこへ通っていた。競争するように競って、びゅんびゅん風を切って走っていたのである。
 そうだ、今思い出した。ぼくがそこへ彼らかれ と通うようになったのには、ちょっとした理由があったのだ。同じクラスのあやべさんという女の子がやはり通っていたからだ。ぼく彼女かのじょのことがきっと好きだったのである。どうもまだ愛とかこいとかその手の感情に鈍感どんかんな時期だったので、あれがそういう感情のものだったかどうかちょっと自信がないのだが、授業中彼女かのじょのきりりとした横顔を見るのがすきだったことは確かだった。その横顔をもっと見たくて勉強の嫌いきら ぼくじゅく通いを決心したのである。あやべさんは帯広の大きな病院の令嬢れいじょうで、ゴトウクミコにまさるともおとらない美形(いや、これは信じて頂くいただ しかないのだが)な才女だったのだ。学校では当然人気者で、ぼくなどそうやすやすと近づくことさえできなかったのである。だから、ぼく彼女かのじょと同じじゅくへ通うことにしたのだ。(中略)
 僕らぼく じゅく帰りに、途中とちゅうの国道沿いぞ の雑貨屋で肉饅にくまんを買って食べる習慣があった。季節が変わり寒くなりはじめると湯気の昇るのぼ を食べることがすごく楽しみになるのだ。北海道の夜空は星が高く、きらきらと散りばめるように灯っていて吸い込ます こ れそうだった。僕らぼく は肉を口いっぱいにほおばりながら、その神秘しんぴ的な輝きかがや を見
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つけていた。大きな星空を見ていると、自分たちの存在そんざいの小ささに気を失いそうになった。
 僕らぼく 微妙びみょう年頃としごろであった。こいを知り、物事をわきまえ始める年齢ねんれいであったのだ。
「なあ、ニック。君はだれか好きな女の子はいるのかい」
 ジョンはかんコーヒーをすすりながらそういった。
 ぼくは思わず食べていた肉のど詰まりつ  そうになって、一度咳払いせきばら をするのだった。
「なんだよジョン、いきなりそんなことききやがって」
(帯広はあまり方言らしい方言がなく、ほとんど標準語であった。それから僕らぼく 年齢ねんれい子供こどもたちはテレビの影響えいきょうもあって、東京風の言葉を使うのがかっこいいとされていたのである。ぼくは直ぐに土地の言葉や習慣になれる才能を持っていたのだ。それがないと転校生は余所よその土地では生き残ってはいけないからだ)
「お、顔が赤いぞ。さては図星君だな」
 ジョンがそういってぼくかた叩くたた ので、ぼくは思わず目を伏せふ てしまった。
「だれだよ、ニックはだれが好きなんだ」
 ロバーツがあおる。
「ひゅー、ひゅー」
 サムはポケットに手を突っ込んつ こ だままマフラーに首をすくめてぼくを冷やかした。(中略)
 ぼくは夜空を見上げた。星の瞬きまばた がキャサリンのウインクのようでむねがときめいていた。沢山たくさん初恋はつこいを経験していたが、多分あのときの感情がぼくの本当のこいの第一歩ではなかったかと思うのだ。むねがときめくということを知ったのはまず間違いまちが なく(断言はできないが)キャサリンが最初の女性であった。

つじ仁成ひとなり「キャサリンの横顔」)
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