a 読解マラソン集 5番 さっきの女の子は hi3
 さっきの女の子はまだ描いえが ていた。それも、もうそろそろ彩色さいしょくが終わってもいいところなのに、画用紙を裏返しうらがえ て、また初めから描いえが ているのだ。あいかわらずたどたどしい線でまだ建物の輪郭りんかくもとれていなかった。あと半時間たらずで仕上げなければならないというのに、そのようすでは夜になっても出来上がりそうになかった。
 洋が近づくと、女の子はおびえた目つきになった。洋はできるだけ優しいやさ  声でたずねてやった。
―どうしてさっきのに塗っぬ ていかへンかったンや。
女の子はふりむいてくちびるをかんだ。なにかを懸命けんめいにこらえている顔だった。
―きみの好きないろで自由にぬっていってたら、もう仕上げられたのに……。
洋が言っても女の子は口をきかなかった。さっきよりもっと強くくちびるをかんだ。両目になみだがあふれたまった。こぼれ落ちるのをなんとかこらえていたが、一つぶぽろんと落ちたのをきっかけに、画用紙の上になみだの小雨がふった。洋はあわてた。そのときになって、自分がでしゃばりすぎたことをしたのにようやく気がついたのだ。この子はこの子のテンポとやりかたで描いえが ていた。それを洋はぶちこわしてしまったのだ。女の子は、小さな、けれどきつい声で、さっきの絵は先生の絵だで――わたしやっぱり自分の絵をきたかったで……と、言ったのだ。洋はむねをつかれ、困惑こんわくした。いったいどうすればよいのか。もうしばらくすると、自分は学校へもどり、全校生徒集合のあと、本日の写生大会の終了しゅうりょう宣言せんげんしなければならなかった。しかし、この子の絵はそのときまでにとてもとても仕上がるはずがなかった。女の子はそんな洋を無視むしして、また線を引いては消しゴムを使う――作業をくり返していた。洋は男の子になって立ちすくんでいた。
 すると、さっきみたいに、また背中せなかをちゃんとつつく者がいた。ふりむくと、根元少年がすぐ後ろにきていた。
―まだ仕上がらん生徒がふたりおるで、先生がおしまいまで見とる――と、学校まで言いにいったるでよ。
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(そうや、終了しゅうりょう宣言せんげんなんか誰かだれ にかわってもらえばええわ。それよりこの子や。この子とおしまいまでつきあうことの方がだいじや)
―たのむわ。
と、言ってから、ふたり――いうたらだれのことや、もうひとりは?ときいた。根元少年はにっと笑って自分の顔を指さし、すぐもどるで……。言い残してもうかけだしていた。
(負うた子に教えられ――か)
心の中ではぼやきながら、洋は女の子にていねいにあやまった。仕上がるまでここにおるさかい、ゆっくりき。さっきの子もまだやから、ふたりでゆっくりいたらええ……。
 女の子はほおからかたい線がすっと消え、安心したのか、手の動きが少し早くなった。

今江いまえ祥智よしとも 「牧歌」)
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a 読解マラソン集 6番 私は、小学校の頃 hi3
「お母さん、ごめんね。ぼく丈夫じょうぶになるよ。そして大きくなったら、きっと幸せにしてあげるからね」
 という、ちょっと泣かせるような言葉で結んだ。題名は『母との約束』とした。
 一ヶ月かげつぐらいたった後、わたしは職員室に呼ばよ れた。当時の学校の先生というのは、謹厳きんげん実直、聖人せいじん君子であり、先生の言うことは、絶対に間違いまちが なかった。わたし担任たんにんは、若いわか 男の先生だったが、ニコニコしながら、 
「関口君、君が書いた『母との約束』という作文ね……、あれ、横浜よこはま市の作文コンクールで入賞したよ。君、うまいんだね、作文が。これからも頑張りがんば な……それから、これ賞品」
 と言って、先生がちょっと変わった事をする時のくせである、メガネをひょいと持ちあげて、「賞」と入った大学ノートを渡しわた てくれた。
「ただね、この作文はこれから県の大会とか、いろんな所に回すんだ。だから、この事はご両親にも、だれにもいっちゃいけないよ。先生と君だけの秘密ひみつだ」
 と言われた。わたしはちょっとおかしいなと思ったが、「賞」と入ったノートがうれしくて、
「はい」
 と答え、自分の席に戻っもど た。
 わたしはそのノートの隠し場所かく ばしょに苦労した。両親にも言ってはいけないという。そのためあれこれ考えたすえ、結局、自宅じたくの自分のつくえのいちばんおくにしまっておく事にした。余程、母だけには言おうと思ったが、先生の言うことは絶対だと思い黙っだま ていた。
 ただ、毎日のように、わたしはそのノートに触りさわ 感触かんしょくを楽しんだ。不思議なことに、そのノートにふれると文章がうまく書けるようなきがした。そのためだれもいない時だしてみると、しょっちゅう触るさわ ため、一行も書かれていないノートではあるが、表紙だけは真っ黒になっていた。
 そのノートは少なくとも小学校を卒業するまではあった。が、家の引っ越しひ こ のドサクサかなにかに紛れまぎ たのか、いつのまにかなく
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なってしまった。
 しかし、この作文の「入賞」は、何も取り柄と えがなかったわたしにとって大きな自信になったし、また先生との秘密ひみつを守れたということが、いつもわたしの心の支えとなっていた。
 中学に入るころから、わたし丈夫じょうぶになり、体も大きくなって運動も人並みひとな に出来るようになった。また、すべてに積極的になり、受験 勉強などしているうちに、書く時間もなくなり、いつの間にか書くという特技はなくなってしまった。
 しかし、このころになると、例の作文の「入賞」はおかしいなと思うようになった。表彰状ひょうしょうじょうもないし、第一あのノートも、「賞」とは記してあるものの、運動会か何かの賞品の残り物のように思えてならなかった。しかし、それはそれでよいと割り切っわ き ていた。
 先生との秘密ひみつの約束はいつになってもわたしの心の支えであり、今の自分があるのは先生のお陰 かげだと感謝していた。そして、先生とお会い出来る機会でもあったら、その時にでも事実をお聞きしようと軽く考えていた。
 あるパーティの席で、わたしは例の先生にお会いするチャンスに恵まれめぐ  た。
 先生は六十をとうに超えこ られていたが、わたしのことは覚えておられた。わたしは今日こそ、例の件を確かめる絶好の機会だと思ったが、先生の方から声をかけられた。
うわさで聞いたよ、銀行の支店長になったんだってね。……いや立派りっぱ立派りっぱ。そういえば、君は子供こどもころから、人の言うことを信じて疑わうたが ない素直なところがあったな……。良かった、良かった。まあ一杯いっぱいどうだ」
 わたしは、
「有りがとうございます」
 と、深々と頭を下げ、それから一気に飲み干しの ほ た。
 目頭が熱くなるような、ツーンとするビールだった。
 (関口清「先生」)
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a 読解マラソン集 7番 バスにのっても hi3
 バスにのっても、ぼくはずっとバス代のことを考えていた。おかげで吐き気は けを感じるひまがなかったけど、気分は吐き気は けをもよおすのとおなじくらいすっきりしなかった。病院のバス停に到着とうちゃくするまでに、なんとかもっともらしいうそをでっちあげた。
 病院のあるバス停についたのは、夕焼けも色あせた、夜も間近の遅いおそ 時間になってからだった。ぼくと弟がバスをおりると、びっくりしたことに、母がバス停にいて出迎えでむか てくれた。母は寝間着ねまきの上に綿入りの羽織を着て、いつものやさしい笑顔でぼくたちに笑いかけた。弟が母に飛びついていった。どうして母がバス停にいるのだろう? 不思議に思いながらも、それでも母がバス停でまっていてくれたのはうれしかった。
「まあまあ、二人ともよくきたわねえ」
「うん。伸二しんじのやつが、どうしても母ちゃんにあいたいってきかなくて。そしたら、ぼくも母ちゃんにあいたくなって」
「そう、よくきたわねえ、二人だけで。さあ、病院にいきましょう。家に電話して二人が到着とうちゃくしたことをしらせなくちゃ。心配しているよ、じいちゃんと婆ちゃんばあ   。母ちゃん、二人があいにきてくれてとってもうれしいけど、じいちゃんと婆ちゃんばあ   にだまってくるのはもうだめだよ」
「うん。じいちゃんと婆ちゃんばあ   、いくっていえば、だめだっていうから……。どうしてぼくと伸二しんじがくるって知っていたの?」
 母は笑って答えなかった。ぼくのかたいて病院に向かって歩き出した。弟のやつは母の手をしっかりと握っにぎ ている。
「二人がどこにもいないので、きっと母ちゃんのところにいったと思って、それで父ちゃんが中央停留所にいってきいたら、キップ売場の人が二人のことをおぼえていたの。父ちゃんね、いまごろバスにのってこっちに向かってるよ。お腹 なかすいたでしょう? ラーメン出前してもらおうね」
 弟が歓声かんせいをあげた。ぼくもラーメンが食べられるのはうれしかったけれど、このあとがどういう展開てんかいになるのか不安で、弟のように素直に喜べなかった。母は家に電話してぼくたちが到着とうちゃくしたことを告げた。それからぼくたちは母の病室で話をした。弟のやつがは
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しゃいで一人でしゃべりつづけた。ぼくはバス代のことが気になっていつもよりは無口になっていた。母はバス代のことについてひとことも問いたださなかった。ラーメンがふたつ、病室に運ばれてきた。母は、ぼくと弟がラーメンを食べるのを笑顔でみていた。ラーメンを食べ終わり、またしばらく三人で話をしてから母が笑いながらきいた。
「バス代、どうしたの?」
「借りてきたんだ、古田の婆さんばあ  に……」ぼくは母から目をそむけてしまった。まっすぐにみることができなかった。
「だから、返さないといけないんだ」
 そういえば母も納得なっとくして、それ以上のことは問いつめないだろうとぼくは踏んふ でいた。小学三年生の知恵ちえなんてその程度のものだった。お金を盗んぬす だことの、考えうる最高のいいわけだと思ったけど、そうは簡単かんたんにことが運ぶわけはなかった。

(川上健一「つばさはいつまでも」)
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a 読解マラソン集 8番 「そう。古田の婆さん hi3
「そう。古田の婆さんばあ  、なんていったの?」
「……なんにも……」
「貸してくださいっていったんでしょう?」
「……うん……」
「でもだまってたの?」
「……うん……」
 そのあと母がなにもいわないので、ぼくは母を上目づかいにみた。母はやさしく笑ってぼくをみているだけだった。でも、母は泣いていた。ぼくに笑いかけながら、なみだほおをつたっていた。ぼくは母をなかせてしまったとせつなくなった。本当のことをいわなければ。ぼくは重い口を開いた。
「貸してって、心の中で、いったんだ……。口にだしていわなかった……」
「そう」
母はぼくの手をとった。細くて、あたたかくて、白くて、きれいな手だった。あのぬくもりはいまでもぼくの手に残っている。
「久志は自分がどういうことをしたか、わかっているわよね」
「……うん……」
「これからは絶対にそんなことをしちゃだめよ」
母はやさしくぼくを諭しさと た。
「約束してくれる?」
「……うん……」
「父ちゃんに、ちゃんとお金を返してもらおうね」
「うん」
「約束だよ。久志がやったことは人間としてやってはいけないことなの。でも、本当のことをいってくれて、母ちゃん、久志のこと、安心したよ。本当のことをいうのは、勇気がいるよね。でも母ちゃんは、久志はほんとうのことをいってくれるとしんじていたよ」
 そういうと、母は突然とつぜんベッドの上で息を詰まらつ  せたように泣き出した。ぼくの手をにぎり、ぼくをみつめたまま、ポロポロとなみだをこぼした。
「ごめんなさいね。母ちゃん……本当にごめんなさいね」そういって母は震えふる だした。
 なぜ母がぼくに謝らなければならないのだろう? ぼくはとまどい、どうしていいのかわからず、だまって母をみつめることしかできなかった。
「ごめんなさいね。本当にごめんなさいね」
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 母は声を震わせふる  ていつまでもぼくに謝るのだった。いつまでも……。

(川上健一「つばさはいつまでも」)
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