a 読解マラソン集 1番 旅は一人でするのが he3
 旅は一人でするのがいいだろうか。だれかと二人でするのがいいだろうか。それとも、グループでするのがいいだろうか。これは意外に答えにくい難問なんもんである。がそれでも、一度考えてみるにあたいする問題を含んふく でいるといえるだろう。なぜなら、旅を一人でするか、二人でするか、それともグループでするかによって、同じく旅とはいってもかなり性格のちがったものになるからである。 
 本当に旅の好きな人は、ふと思い立ったときに一人でぶらりと旅に出かける、といわれる。日常の人間関係のしがらみから離れはな 、足のおもむくままに旅をするには、一人の旅がいちばんいいであろう。だれと相談する必要もなく、自分一人の思うがままにどこへでも行くことができる上に、旅の仕方についてもだれ遠慮えんりょもいらないからである。旅の在り様として自由と偶然ぐうぜん性をもっともよく享受きょうじゅできるのは一人旅である。また、旅先でもっとも直接に現実と触れふ うるのも、自分をよく見つめうるのも、一人の旅であろう。 
 定住社会のなかに生きていると、ひとはしばしば、日常生活のわずらわしいしきたりや拘束こうそくをのがれて一人でふとどこか遠いところへ行ってしまいたくなる。が、実際にそれができる人はきわめて少ない。ほとんどの場合、ただそうしたいと心に思うだけで実行はできず、したがって思いだけがつのるようになる。だからこそ、人々の間で自由で奔放ほんぽうな一人旅=放浪ほうろうへの願望が根づよいのであろう。そして、放浪ほうろうという名の一人旅には、絶対的自由へのあこがれがある。 
 このように、たしかに旅は一人でするとき、本人にとってもっとも自由で解放的で冒険ぼうけんに富んだものになる。また一人旅では、ほかに相談する相手が身近にいないから、すべてにつけて自分で思案しなければならない。そのために、自分自身との間での対話を活発に行なわなければならないことになる。一人旅ではわたしたちは、そういうかたちで旅先での現実に相対するのである。けれどもこれは実際には、なかなかたいへんでほねの折れることであると、息をぬくひまがなく、心の余裕よゆうがなくなるからである。そのために緊張きんちょうの連続が強いられ、どうしてもすきができてしまう。
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 だから一人で異国いこくの旅をしていると、ほとんど不可抗力ふかこうりょくに近いかたちで、荷物の一部を置き引きされたり、スリに出会ったりするのである。かく言うわたし自身、先達せんだってもミラノの街で三人組のスリに出会って、半ば気がつきながらみすみすかなりの大金を盗らと れてしまった。相手があまりにもみごとなうで、みごとなチーム・ワークだったので――もちろん盗らと れたことは腹立たしくはらだ   、その後何日も不愉快ふゆかいでしょうがなかったけれど――実はちょっと感心さえしている。 
   (中 略) 
 られた金は、わたしにとってかなりの大金だったけれど、幸い、旅行をつづける上で支障ししょうになるほどではなかった。しかしその後しばらくの間、旅行をしていてもどうしても必要以上に他人に対して警戒けいかい心が働いてしまい、ひどく気が疲れつか た。そういうときほど、一人で旅をしていること、相棒あいぼうなしに旅をしているのがうらめしく思われることはない。相棒あいぼうあるいは道づれがあったからといって、スリに会う心配がまったくないというわけではないけれど、二人になれば注意の及ばおよ ない死角はずっと少なくなるし、行動にずっと余裕よゆうがもてるようになる。 
 それに同行者としていい相棒あいぼうが得られれば、旅をする上でなにかと好都合な相談相手になるし、話し合うことで旅での経験を確かめ合うこともできる。ただし実際には、この道づれのえらび方はたいへん難しいむずか  。不適当な道づれをえらべば、互いにたが  相手の自由な行動を牽制けんせいし合ったり、束縛そくばくし合ったりすることになるだろう。互いにたが  相手の独立性と自由をできるだけ尊重そんちょうしながら、しかも必要なとき、いざというときには力になり合い、よき相談相手になるような関係がもっとも望ましいわけだ。いや、それほど理想的な関係が成り立たなくとも構わない。旅において道づれがいることは、自分以外のもう一つの眼=他者を含みふく 、その他者との対話をもちうるという点で貴重きちょうなことなのである。 
 では次に、グループの旅はどうであろうか。一口にグループでの
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読解マラソン集 1番 旅は一人でするのが のつづき

旅といっても、気心の知れた親しい友人たちとの少人数の旅の場合と、いわゆる団体旅行、セット旅行の場合とでは、一緒いっしょには考えられない。前者の場合には、グループでの旅といっても、よき道づれとの二人での旅と本質的にはあまり異ならこと  ないものでありうる。うまくいけば、人それぞれの独立性と自由を保ちうるからである。また、自己じこと他者との関係が固定的でなく可動的だから、その関係がうまく生かされれば、旅はいっそう豊かなものになるだろう。 
 ただし人数があまり多くなると、人それぞれが旅先で現実にふれることよりも、グループ内の相互そうごのふれ合い、付き合いの方に重点がかかってくる。だからグループでの旅はしばしば移動する宴会えんかいのようなものになるのである。いわゆる団体旅行、セット旅行の場合には、あらかじめ決められたコースがあって、スケジュールもびっしりつまっているから、また、バスに乗ったままでお目あてのところに連れていってくれるから旅ならではの独立性、自由、偶然ぐうぜん性、異質いしつの現実などとの接触せっしょく著しくいちじる  弱くなる。もちろんそのようなグループ旅行も使い方によるし、そこで収穫しゅうかくにめぐまれることもあるけれど、その場合、旅のあり方も同行者のあり方もずいぶんちがってきているわけである。 

(中村雄二郎ゆうじろう「知の旅への誘いさそ 」)
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a 読解マラソン集 2番 帰国生の教育体験調査を he3
 帰国生の教育体験調査をつづけるうちに、日本と欧米おうべいの授業方法の違いちが が、だんだんにはっきりしてきました。それを、あえて一言でいえば、欧米おうべいでは獲得かくとく型授業が、日本では知識注入型授業が一般いっぱん的だということになります。 
 では獲得かくとく型授業とはどういうものなのでしょうか。もう少し詳しくくわ  考えてみましょう。獲得かくとく型授業には二つの面が含まふく れます。一つは、生徒が自主的に学んでいけるように、その学び方を訓練していくことです。生徒一人ひとりが自分でテーマを決め、ある課題にとりくんでいくなかで、内容を学ぶだけでなく、リサーチの仕方も身につけてゆくというものです。生徒が自ら学ぶという意味で、これを「自学の訓練」とよんでもよいものです。たとえば、日本の学校の提出物にはレポートという一つの言葉が使われているだけですが、アメリカではプロジェクト、レポート、エッセー、リサーチ・ペーパーなどのようにたくさんの言葉が使われています。こうしたことからも、いかに自分で学ぶ学習がさかんに行なわれているかがわかるはずです。 
 獲得かくとく型授業のもう一つの側面は、参加型の学習です。授業のなかに生徒の発言、発表、討論とうろんなどをさかんに組みこんで、生徒の授業への参加をはげますものです。よく言われることですが、欧米おうべいの授業では、先生がたえず「きみの考えはどうか」と生徒に問いかけ、意見の表明を求めます。また、講義式授業であっても、その途中とちゅうから、即興そっきょうディベートに移っていくことなどもけっして珍しいめずら  ことではありません。 
 もちろん、調べたり、書いたりする自学の訓練の側面と、発表したり、討論とうろんしたりする参加型授業の側面とは、たがいに密接みっせつに関連し合うものです。調べたり、書いたり、発表したり、討論とうろんしたりすることは、一連の学習活動となっているのです。そして、地球時代を迎えむか たいま、若者わかものに求められる資質は、こうした獲得かくとく型の学習のなかでこそ育ってくるものなのです。日本に教育方法の国際化が必要だという理由は、こうしたことにもあらわれています。 
 では一方、日本の授業として一般いっぱん的な、知識注入型授業とはどのようなものでしょうか。その基本形態は、わたしたちが日ごろよくな
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じんでいるもの、つまり一斉いっせい講義式の授業です。この授業では先生が教壇きょうだんの上から生徒に知識を注ぎこみます。まるで、花に水を注ぐように。知識は高いところから低いところへと流れていきます。生徒は懸命けんめいに板書内容をノートし、どれだけ内容を暗記できたかについて、試験でチェックを受けるという方式です。 
 この形態の授業は、たくさんの生徒に、系統的けいとうてきな知識を、限られた時間で、しかも大量に伝えるには有効な方法です。その意味では効率的な授業方法だと言ってもよいかもしれません。 
 このため、知識注入型授業は、日本と同じように一クラスあたりの生徒数が多い韓国かんこく、中国、台湾たいわん、シンガポールなどのような東アジア諸国しょこくでもごく一般いっぱん的な形態になっています。ただ、知識注入型の授業では、どうしても生徒側は受け身の姿勢しせいに終始してしまいがちです。獲得かくとく型の授業に慣れた帰国生が、知識注入型の授業に参加感がもてないという感想をもつのも、こうしたところからきています。 
 日本でもそうですが、いまあげたこれらのくにでは、授業で国定・検定教科書を使い、ほとんど同じ内容を全国一斉いっせいに教えています。またいずれの国にも激しいはげ  受験競争があり、勉強すること自体が受験のための手段しゅだんとなっている状況じょうきょうが見られます。 
 ですから、いまの知識注入型授業から獲得かくとく型の方向へむけて授業の形態を移しかえていくことは、けっして容易なことではありません。なにしろ、働いている制約条件があまりにも大きいからです。しかし、そうはいっても国際化の波がおしよせるにつれて、知識注入型授業にもとづくつめこみ教育の弊害へいがいが、いよいよはっきり見えるようになったことも事実なのです。 

渡部わたなべあつし「国際感覚ってなんだろう」)
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a 読解マラソン集 3番 いま日本の若者の多くが he3
 いま日本の若者わかものの多くが、受験競争の中で苦しんでいます。そして渦中かちゅうにいる受験生は、こんな苦しい状況じょうきょうにおかれているのは、きっと日本の生徒だけだろうと思ってしまいがちです。しかし、じつはそうではありません。近隣きんりん諸国しょこくの受験競争の激しはげ さも相当なものなのです。 
 おとなりの韓国かんこくも事情は同じです。わたしがソウル市内の高校をはじめて見学したのは一九八〇年代の前半のことでしたが、日本の学校との類似点の多さに目をみはった経験があります。とりわけ、韓国かんこくの受験競争のきびしさは、日本に勝るとも劣らおと ないものでした。 
   (中 略) 
 もう一つの隣国りんごく・中国の入学試験もたいへんな狭きせま 門です。中国の大学進学率は日本ほど高くありませんが、入学定員自体が少ないため、競争は激烈げきれつです。北京からの留学生・王立軍(ワンリージュン)さんはつぎのように語ります。 
 「中国の受験生は本当によく勉強します。ぼくの場合も、高校二年生から本格的に受験勉強をはじめ、三年生では受験一色の生活になりました。家ではもちろん、学校の休み時間にも、寸暇すんか惜しんお  で、友だちと教え合ったりしながら勉強しました。入試が終わったとたんにどっと疲れつか が出てしまい、熱を出して三か月ほど入院してしまいました。精神疲労ひろうがピークになっていたんだと思います。」 
 さいわい王さんは、北京にある文科けいの大学に合格することができました。その後、経済けいざい学を学ぶために日本に来て、いまは都内の大学の二年生に在籍ざいせきしています。 
 中国の大学はすべて国立大学で、学生は授業料を免除めんじょされています。全員が学生りょう暮らしく  ていますが、寮費りょうひや生活費も政府から支給されていました。 
 「中国の大学生は、特別に恵まれめぐ  環境かんきょうをあたえられて勉強している身分ですので、遊びほうけている学生はいません。そのかわり、大学の勉強は厳しかっきび   たですよ。定期試験の場合も、先生が範囲はんいを告げるだけ。日本のように傾向けいこう対策たいさくのようなものはいっさ
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い教えてくれません。それでできなかったら落第ですから、みんな必死なんです。」 
 授業形態は日本と同じで、講義形式がほとんどです。ただ、日本の大学に入って王さんが驚いおどろ たことがあります。 
 「日本の学生は、ほとんど先生に質問しないんですね。こんな質問をしたら周囲の学生にどう思われるかというような遠慮えんりょもあるようです。中国では、授業が一区切りすると、学生がばらばらと教壇きょうだんのまわりに集まってきて、先生に質問します。別に質問したからといって、平常点が上がるとか、評価が変わるというのではありません。ただ、やる気のある学生ほど、熱心に質問するものだという雰囲気ふんいきはありますね。その熱意をわざわざ隠すかく 必要はどこにもありませんから、いきおい質問は活発になるんです。」 
 この指摘してきに、またまた考えさせられてしまいました。じつは王さんと同じような意見を、ほかの国の留学生たちからも聞かされているからです。どうも、日本の大学生の積極性のなさは、留学生の目に奇異きいなものと映るうつ ようです。だとすれば、知識注入型の授業だから学生が受け身の姿勢しせいになっているというだけでなく、日本の場合にはもっと深い原因があるということになるはずです。 

渡部わたなべあつし「国際感覚ってなんだろう」)
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a 読解マラソン集 4番 十年ほど前、ボルドーの近くを he3
 十年ほど前、ボルドーの近くを走っていて、くるまの接触せっしょく事故をおこしたことがある。人身には何の影響えいきょうもなかったし、こちらの日本製の車体がへこんだくらいで、何と日本のくるまは弱いんだといまいましいくらいのものであったが、――それにこちらにも言い分があり、相手にも幾分いくぶんの非があったのだが――。
 それでも口をついて出たのは「すみません」ということばであった。相手は朴訥ぼくとつな農民夫婦で「はじめてパリへ行って無事故で帰ってきたのに……」と愚痴ぐちをさんざん並べなら ていた。
 しばらくして「しまった」と思った。「すみません」とは、あやまり文句である。こちらがあやまってしまえばもうそれでおしまい。非はすべて当方がかぶらねばならない。
 そのことは、フランスへ来て、くどく言われていたのだ。問題をおこしたら、ぜったいにあやまってはいけない。こちらの責任がいくら明白なときでも、まず「なんじとがガアル」(?ous avez tort.)と言うべきである。そうでないと、賠償ばいしょう責任はすべてこちらが負わねばならぬ。「すみません」とは口が裂けさ ても(――はちと大げさだが)言ってはならぬ。自動車保険の契約けいやくの注意書にさえ「事故のときにあやまってはならぬ」と書いてある。にもかかわらず、日本人であるわたしはつい「すみません」と言ってしまった。習慣はおそろしいものである。
 リリアーヌ・エルという女性は「あやまるということ」(『うしお』昭和五十三年四月号)というエッセイの中で、日仏比較ひかく文化のおもしろい観点を出している。日本人は簡単かんたんにあやまる。フランス人はなかなかあやまらない。どうしてか、という問題である。彼女かのじょの引いている例は、仲間を裏切っうらぎ たやくざが、のちに仲間にリンチを受けるというテレビドラマの場面である。彼女かのじょは同じ状況じょうきょう描いえが たドラマを日本とフランスで見た。状況じょうきょうと結果はまったく同じである。どちらも、見下げたやつとして仲間にまれ、ゆるされる。ところが、その過程の、みを乞うこ 文句がちがう。日本だと「悪かった! 許してくれ」と言い、フランスだと「おれが悪いんじゃない! 殺さないでくれ」と言う。まるで正反対である。
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 ここでわたしが言いたいのは、フランスでの「自分が悪かった」ということばの重みである。神の前で自己じこの全人格を否認ひにんするということ、それが自分の悪をみとめるということである。これは勇気ある行為こういである。もし、やくざがそんな勇気ある行為こういを示せば、人はかれ尊敬そんけいし、そして簡単かんたんに殺してしまうだろう。みを乞うこ たことにはならないのだ。みを乞うこ 場合は、状況じょうきょうが悪かったとくどくどと弁解しなければならないのだ。
 日本ではちょうど逆である。弁解すれば、みはかけてもらえぬ。弁解は理屈りくつであり、理屈りくつ卑怯ひきょうである。ただ一言、悪かったとあやまる。この頭を下げるというのが、日本社会でゆるしのえられる唯一ゆいいつ行為こういである。
 「悪かった」と言っても、日本では勇気ある行為こういとはいえない。みんな、いつでも「悪かった」とあやまる。つまり社会的定型である。人は、定型によってみを求め、定型によってみを与えるあた  。物を言っているのは、文化の型である。
(中略)
 絶対の罪というものはない。しかし、おたがいに小さな悪、小さな迷惑めいわくをかけあっている。それは無意識の領域りょういきにちらばっているので、いちいちとりたてては言えないくらいである。だから、たえず「すみません」と言う。「すみませんで済むす か」と言われればその通り、といった重大な場面では、「ではどうすれば済むす のですか、あなたの気持ちの済むす ようになさってください」という「すみません」の語源ごげん迫るせま ような科白せりふも出てくる。もっとも「どうすれば済むす のか」という反問じたい、あやまる文化の型にそむいている。これは日本では反抗はんこうであり皮肉である。
 というわけで、もっぱらわたしたちはこしを低くしている。日本文化の型になじんだ外国人のなかには、こしを――というよりをかがめて愛想笑いをふりまく人もいる。いつだったか、約束をたがえた外国人がおり、その人物、次にわたしに会ったとき、かれは「日本ふう」にを海老のようにまげ、謝罪したものである。その極端きょくたん姿勢しせい
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読解マラソン集 4番 十年ほど前、ボルドーの近くを のつづき

におどろいた。わたしたちは、外国人という鏡に映っうつ た自分たちの文化の姿すがたにおどろくのである。

 エルさんはフランス人の論理ろんり好きには、二つの種類があるという。客観的、普遍ふへん的な論理ろんりと、もう一つは、自分の立場をあくまで正当化しようとする論理ろんりへきと、である。後者の、いわばフランス人のくせのようなものが前者を形づくり、前者が逆に、後者のくせを助長するということがあるのだろう。
 とりあえずあやまるという日本文化には、人と人とのつながりをなめらかにするという普遍ふへん知恵ちえに通じるものがある。同時に、何でも「すみません」で通そうとするあつかましさもある。済むす とか済ます ないとか――そんなことを意識しないで、ともかく「すみません」と言っている。感謝でも謝罪でもない。「すみません」というのは、あやまる文化の型をつたえることばである。同時に、安直なことばでもある。後者はむしろ、伝統をなしくずしにする面がある。
 ひとつのことばをめぐって、伝統と、それをなしくずしにしようという力と、その双方そうほうがせめぎあっているようである。
 ことばはむずかしいものである。ことばの解釈かいしゃくもむずかしいものである。外国人は、あやまる文化に卑屈ひくつさを見いだして感心したりするが、事は(少なくとも今は)それほど簡単かんたんではないように思われる。

(多田道太郎みちたろう『日本語の作法』)
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問題

he-01-4 問題1
問1 読解マラソン集4番「十年ほど前、ボルドーの近くを」を読んで、○と×の組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A フランスではあやまった方が、非をすべてかぶらねばならない、ということが多い。
B リリアーヌ・エルさんは、「フランス人は自分を正当化したりしない」と言っている。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答1

he-01-4 問題2
問2 読解マラソン集4番「十年ほど前、ボルドーの近くを」を読んで、○と×の組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 日本は「ごめんなさい」とあやまることで、許しを得られるという文化を持つ社会である。
B 著者はフランスでの事故で、先にあやまってしまったことを悔いている。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答2

he-01-4 問題3
問3 読解マラソン集4番「十年ほど前、ボルドーの近くを」を読んで、○と×の組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 頭を下げてあやまるのは日本人だけである。
B 「自分が悪かった」という言葉について考えると、日本人のそれより、フランス人のほうが重みがある。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答3

he-01-4 問題4
問4 読解マラソン集4番「十年ほど前、ボルドーの近くを」を読んで、○と×の組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 日本では、言い訳をするより、潔くあやまる方が許しを得られることが多い。
B 日本通の外国人が、まず最初に習得するのは、頭を下げてあやまるという行為である。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答4

he-01-4 問題5
問5 読解マラソン集4番の「十年ほど前、ボルドーの近くを」を読んで、次の問いに答えなさい。
 本文の内容に合うものはどれでしょう。一つ選んで番号で答えなさい。
1 リリアーヌ・エルさんは、「フランス人は自分を正当化したりしない」と言っている。
2 フランスではあやまった方が、非をすべてかぶらねばならない、ということが多い。
3 著者はフランスでの事故で、先にあやまってしまったことに後悔はない。

解答5

he-01-4 問題6
問6 読解マラソン集4番の「十年ほど前、ボルドーの近くを」を読んで、次の問いに答えなさい。
 本文の内容に合うものはどれでしょう。一つ選んで番号で答えなさい。
1 日本は「ごめんなさい」とあやまることで、許しを得られるという文化を持つ社会である。
2 頭を下げてあやまるのは日本人だけである。
3 「自分が悪かった」という言葉について考えると、、フランス人のそれより、日本人のほうが重みがある。

解答6

he-01-4 問題7
問7 読解マラソン集4番の「十年ほど前、ボルドーの近くを」を読んで、次の問いに答えなさい。
 本文の内容に合わないものはどれでしょう。一つ選んで番号で答えなさい。
1 日本では、言い訳をするより、潔くあやまる方が許しを得られることが多い。
2 「悪かった」と言っても、日本では勇気ある行為とはいえない。
3 日本通の外国人が、まず最初に習得するのは、頭を下げてあやまるという行為である。

解答7

he-01-4 問題8
問8 読解マラソン集4番の「十年ほど前、ボルドーの近くを」を読んで、次の問いに答えなさい。
 「普遍的」の意味で正しいものはどれでしょう。一つ選んで番号で答えなさい。
1 普通に見えるがかたよりがあること。
2 すべてのものに共通しているさま。
3 すべてのものに共通するおかしな点。

解答8