a 読解マラソン集 9番 男の子が生まれて ha3
 男の子が生まれて一番嬉しいうれ  と思ったのはこのプロレスごっこをはじめとした乱闘らんとうあそびができることだ、とわたしはいつかかなり真剣しんけんな顔をして妻に言ったことがある。(中略)がくが二、三さいころはまだかれはプロレスやボクシングというものをよくわからず、抗争こうそうは「ウルトラマン対怪獣かいじゅう」という図式になっていた。がくはいつも正義の使者であり、わたし宇宙うちゅう暗闇くらやみからやってきて平和な地球を滅ぼそほろ  うとする悪の怪獣かいじゅうという役回りだった。
 がくはこれを「たたかい」と呼んよ でいた。保育園から帰ってくると「おとう、たたかいしようぜ」と早くも正義の使者の顔つきになって闘争とうそう仕掛けしか てくるのだ。
 「たたかい」が「勝負」に変ったのはがくが三年生になってからだった。
 それはいつもやられ役だったわたしその頃  ころから意図的に時おりこっぴどくかれ痛めつけるいた    ようにしたからのようであった。サッカーをはじめたがくの体がしだいに強健になり、すこしぐらい手あらに投げつけても大丈夫だいじょうぶ、ということがわかってきてからわたし自身もふざけ半分ではなく本格的に力を込めこ てたたかうようにした。(中略)
 がくわたしの勝負がさらに過激かげきになっていったのはわたしがパタゴニアの旅から帰ってきてからだった。パタゴニアの旅は氷河の海を航海し、あとはパンパという大草原を動き回っているだけだったので、がくへの土産は何もなかった。そこでチリの一番南のたんにあるプンタアレナスという町でわたしがくのためのおみやげを制作したのだ。プンタアレナスは小さな港町で港湾こうわん用品や金物屋ぐらいしか店がなかった。(中略)そこで風呂ふろの流しの金物や真鍮しんちゅう製の円盤えんばん、自動車用のコンドルの飾り物かざ ものなどを買ってきて、ホテルの部屋にとじこもり、それでプロレスのチャンピオン・ベルトの飾りものかざ   を作ったのだ。(中略)
 わたしは家に帰り、そのベルトをがくに見せ、ただでやるわけにはいかないぞ、と言った。おれと闘ったたか てピンフォールで勝ったらこのベル
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トをやろう、と言ったのだ。そのばん闘いたたか わたしがく闘争とうそう史の中でも一、二を争うようなベストマッチとなった。
 二十分の死闘しとうの中で、わたしがく足腰あしこしがしばらく会わないうちにさらにまた強靭きょうじんになり、蹴りけ やパンチのひとつひとつの威力いりょくがずんずんと恐ろしいおそ   ほどに効くようになっているのを知った。そしてうしろ回し蹴りけ というすさまじい技をなかばまともにくらって倒れたお 、ピンフォールされた。まだわたしは全力ではやっていなかったが、今日は自分のもっている力の六わりぐらいをきっちり出してやつに負けたな、とたたみの上にあおむけになったまま思った。
 そしてがくその頃  ころから学校での喧嘩けんかランキングを不動の第一位にしていったようであった。五年生になると学年だけでなく全校でやつが一番強いらしい、という話をがくの仲間の何人からか耳にするようになった。
 そうだろうな、とわたしは思った。衰えおとろ つつあるとはいえ体重七十二キロ、身長一七六センチ、柔道じゅうどうだんわたしをかなり手こずらせるようになっているのである。あいつが本気で怒っおこ たらいまのひょろひょろの六年生などまずかなうまい、と思った。がくのそういう、良いか悪いかわからないけれど、まあそれはそれでひとつの「能力」のようなものを、わたしはかなり意識的にかれ幼児ようじころから「たたかい」という遊びを通してじっくり着実に育ててきたような気がするのだ。(中略)
 わたしはそんなふうに、「たたかい」の世界をがくにおしえてきたかわりに、その分だけ勉強というのを一切おしえなかった。「勉強しろ」とも言わなかった。そしてかれはそちらの方も着実にあからさまにその成果をあらわにしているのだった。「子供こどもにかまいすぎるとどっちにしても失敗するのさ」とクールに言っていた沢野さわのの顔がわたしの目の前にまたぼんやり浮かんう  できた。

椎名しいなまこと「続がく物語」)
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a 読解マラソン集 10番 二年前、私は妹をお供につけて ha3
 二年前、わたしは妹をお供 ともにつけて母に五はく六日の香港ほんこん旅行に行ってもらった。
「死んだお父さんに怒らおこ れる」とか「冥利みょうりが悪い」と抵抗ていこうしたが、もともとおいしいもの好きで、年にしては好奇こうき心も旺盛おうせいな人だから、追い出してさえしまえばあとは喜ぶと判っていたので、けんか腰   ごしの出発だった。
 空港で機内持ち込みも こ の荷物の改めがある。わたしは、母と妹が係官の前でバッグの口をあけているのをプラスチックの境越しご に見ていた。
「ナイフとか危険きけんなものは入っていませんね」
 係官が型の如くごと たずねている。わたしは当然「ハイ」という答を予期したのだが、母は、ごく当り前の声で、
「いいえ持っております」
 わたしも妹もハッとなった。
 母は、大型の裁ちた ばさみを出した。
 わたしは大声でどなってしまった。
「お母さん、なんでそんなものを持ってきたの」
 母はわたしへとも係官へともつかず、
「一週間ですからつめ伸びるの  といけないと思いまして」
 係官は笑いながら「どうぞ」といって下すったが、わたしは、中の待合室でなぜつめ切りを持ってこなかったのと叱言こごとをいった。
出掛けでか に気がついたんだけど、つめ切り探すさが のも気ぜわしいと思って」
 言いわけをしながら「お父さん生きてたら、叱らしか れてたねえ」
とさすがに母もしょんぼりしている。(中略)

 祖母が亡くなっな   たのは、戦争が激しくはげ  なるすぐ前のことだから、三十五年前だろうか。わたしが女学校二年の時だった。
 通夜のばん突然とつぜん玄関げんかんの方にざわめきが起った。
「社長がお見えになった」
という声がした。
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 祖母のかんのそばに坐っすわ ていた父が、客を散らすように玄関げんかんへ飛んでいった。式台に手をつき入ってきた初老の人にお辞儀 じぎをした。
 それはお辞儀 じぎというより平伏へいふくといった方がよかった。当時すでにガソリンは統制されており、民間人は車の使用も思うにまかせなかった。財閥ざいばつけいのかなり大きな会社で、当時父は一介いっかいの課長に過ぎなかったから、社長自ら通夜にみえることは予想していなかったのだろう。それにしても、初めて見る父の姿すがたであった。
 物心ついた時から父は威張っいば ていた。家族をどなり自分の母親にも高声を立てる人であった。地方支店長という肩書かたがきもあり、床柱とこばしらにして上座かみざ坐るすわ 父しか見たことがなかった。それが卑屈ひくつとも思えるお辞儀 じぎをしているのである。
 わたしは、父の暴君振りふ いやだなと思っていた。
 母には指ひとつ買うことをしないのに、なぜ自分だけパリッとのりの利いた白麻はくま背広せびろで会社へゆくのか。部下が訪ねたず てくると、分不相応と思えるほどもてなすのか。わたし達姉弟がはしかになろうと百日咳ひゃくにちぜきになろうとおかまいなしで、一日の遅刻ちこく欠勤けっきんもなしに出かけていくのか。
 高等小学校卒業の学力で給仕から入ってだれの引き立てもなしに会社始まって以来といわれる昇進しょうしんをした理由を見たように思った。わたし亡くなっな   た祖母とは同じ部屋に起き伏しふ た時期もあったのだが、肝心かんじん葬式そうしきの悲しみはどこかにけし飛んで、父のお辞儀 じぎ姿すがただけが目に残った。わたし達に見せないところで、父はこの姿すがたで戦ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約けいやくの成績が思うにまかせない締切しめきりの時期に、八つ当りの感じで飛んできた拳骨げんこつをも許そうと思った。わたしは今でもこの夜の父の姿すがたを思うと、むねの中でうずくものがある。

(向田邦子くにこお辞儀 じぎ」)
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a 読解マラソン集 11番 自分らしさ、っていったい ha3
 自分らしさ、っていったい何なのだろうか。その人らしさ、個性、とは、どのようにしてできあがるものなのだろう。自分らしさは自分でだんだん外側へつくりだしていくもの、という考え方や感じ方があるようだ。ちょうど、雪だるまをつくるときのように、新しいものをだんだん外側へくっつけて、自分をふくらませていくというイメージだ。
 しかしわたしは、自分らしさとか個性というものをそのようなイメージでとらえてはいない。それは、自分でつくり出すものではあるけれど、同時に自分で自分の内側を発見していくものなのだと思っている。自分の中には、はじめから自分らしさがちゃんと備わっている。その自分の声に耳を澄ます せながら、自分らしさを見つけだしてゆくことが、自分を探すさが 旅であり、自分の人生を生きるということなのではないだろうか。
 そのイメージは、雪だるまをつくるようなものではないとすれば、むしろ果物の実がふくらみ、熟れう てゆくありさまに似ている。外側へふくらみつつ、内側に備わった自分の味を実らせてゆく。りんごはりんごの、ももももの味を、たしかに見いだして、内側を充実じゅうじつさせてゆく。外側への広がりと、内側の実りが、果実の成熟せいじゅくである。
 りんごはりんごの、ももももの味、と言った。すみれはすみれの、マーガレットはマーガレットの花の色、と言ってもよい。決してひとは生まれたときは白紙ではないし、成長とともに環境かんきょうによって染めそ られるだけのものではない。
 ところが、ひとは生まれたときは白紙で、そこには何でも書きこめるし、自由に作れるという考え方がある。たとえば、ある心理学者は、「わたしにひとりの正常な赤ん坊あか ぼう与えあた てくれて、しかも環境かんきょうを自由に操作そうさすることを許してくれたなら、その子をどんな人間にもしてみせるし、どんな職業にもつかせてみせる」という意味のことを言った。人間をどのようにもつくれるという考え方をとらない心理学者もいるけれども、しかしさきにひいた言葉のように、ひとは環境かんきょうをととのえればどんなふうにも自由につくれるという考え方は、いまの世の中にかなり根づよくはびこっている。けれどもわたしは、その考え方は誤りあやま だと思っているし、むしろ危険きけんな考え方だと思っている。それとは逆に、「子どもは白紙ではなく、
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さつの本である」といった人がいる。その本を、大人は心をこめて読んでいこう、というのである。この考え方の方がわたしはずっと好きだ。そのわたしの考え方や感じ方は、わたし太郎たろう次郎じろうというふたりの子どもと長いことつきあってくる中で、しだいにはっきりとしてきたものだ。また、子どもたちについてだけでなく、自分自身というものについても、だんだん明確な考え方がもてるようになってきたといえる。
 子どもを育てながら、母親たちはいろいろなおしゃべりをする。その中にしょっちゅう登場する次のような話題がある。それは、「同じ両親から生まれて、同じように育てているつもりなのに、きょうだいでもぜんぜん違うちが わねぇ」というような言葉である。「そうね、だから子どもを育ててると面白いのねぇ」などと話は続いていく。
 あなたに、もしきょうだいがいたら、やっぱり自分ときょうだいのことをそう思うのではないだろうか。同じ親から生まれ、同じ家庭で育っても、ひとりひとりはおもしろいほど違うちが 。長子と次子のちがいだとか、ひとりっ子の性格だとか、環境かんきょうろんをとなえる人々は言う。けれど、どうもそれでは説明のつかない色あいの違いちが 、持ち味の違いちが のようなものが、ひとりひとりのかくにあるというのが、子どもとよくつきあったことのある人の実感なのだと思う。

小澤おざわ牧子「自分らしく生きる」)
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a 読解マラソン集 12番 今年の秋、ウィーンの楽友協会ホールで ha3
 今年の秋、ウィーンの楽友協会ホールで武満とおるさんの新作クラリネット・コンチェルトがウィーン・フィルハーモニーによって演奏えんそうされる。二百年前、モーツァルトのクラリネット・コンチェルトがウィーンで初演奏えんそうされたのを記念する催しもよお で、百年前には同じ趣旨しゅしでブラームスがクラリネット五重奏じゅうそうを作曲していることを考えると、これは日本の音楽界だけでなく日本にとって大きな出来事だと思う。おそらくわが国の文化芸術の分野でこれに匹敵ひってきすることはかつてなかったし、今後もそうそうあることではなかろう。(中略)
 製紙会社の会長と作曲家武満とのかかわり合いを不思議に思われる方もあると思うが、家内同士が学校時代からの親友で、武満さんが二十さいを過ぎたころから家族ぐるみのお付き合いをしてもう四十年にもなろうとする。だからといってわたしかれの音楽をいっこうに理解するものではないが、今回世界の存在そんざいとまでなった武満さんの人生の来し方を眺めなが 続けてきた者として、その人間的バックグラウンドを語ってみたい。
 何よりもまず自分の道を自分のやり方で歩いてきた人である。作曲家としても徒手空拳としゅくうけん、自ら一家をなしたので、音楽学校へいったわけでも特定の師についたのでもない。本当に才能のある人は既成きせい概念がいねんで教育など授けないほうがよほど純粋じゅんすいに成長できるという真理をかれもまたわれわれに示してくれた。大江おおえ健三郎けんざぶろうとの共著きょうちょ「オペラをつくる」の中でかれはこういっている。
「ぼく自身が音楽家としての四十年、音を表現媒体ばいたいとして、自分でしか言い表せないようなことを表す。……音楽といってもその表現のスタイル、形式は多様で、たんに慰めなぐさ 娯楽ごらくのための音楽であれば、時代の人たちが喜ぶような表現方法はあるように思います。しかし、ぼくがやっている音楽はそういうものでなくて、音というものを通して人間の実在について考える。どちらかというと、詩とか哲学てつがくとか、そうしたものに近い表現形式として音楽をやっているわけで、これがいちばんむずかしいところなんですね」
 創造そうぞう性と個性、いまの日本人にこれほど求められているものはない。
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 武満さんはまた世界人であると同時にすぐれて日本人である。かれの作風からもこのことはよくうかがえる。代表作であるノヴェンバー・ステップスには和楽器である琵琶びわ尺八しゃくはちが取り入れられ、本来西洋のものであるコンチェルトに日本の音色を植えつけたことはあまりにも有名である。前述の本の中でかれはまた、「ぼくの音は西洋音楽の音とはまったく違うちが 」とも述べている。かれの音楽は西洋の亜流ありゅうではないようだ。そこが世界の注目をひき絶賛を博しているのだと思う。(中略)
 ややしかつめらしいことを書いてきたが、多くの人々が武満さんにひかれるのは、根っからの市井しせい人である一面であろう。立派りっぱなサイレント・マジョリティの一員、卑近ひきんな言い方をすればくまさん、八つぁん的要素である。熱狂ねっきょう的な阪神タイガースはんしん     ファンでシーズンになると外出先でもラジオを離さはな 一喜一憂いっきいちゆうしている。まさに日本人の判官びいきを絵に描いえが たようなものである。
 わたしかれ背広せびろ姿すがたをほとんどみたことがない。普通ふつうはズボンにセーター、改まったときは、ネクタイなしだが独特のスタイルのジャケットを着用している。最近、だれのデザインですかと聞いたら、これは森英恵はなえさんですと答えた。これで日本はおろか世界中を通している。わたしはひそかに浴衣がけの外交と呼んよ でいる。あのとても頑丈がんじょうとはいえない肉体で年に何回となく外国に出かけるエネルギーは聡明そうめい献身けんしん的な奥さんおく  、才気煥発かんぱつお嬢さん じょう  、そしてねこひきという恵まれめぐ  た家庭のたまもので、これはかれの最大の作品かもしれない。市井しせい人の常識が申し分なく働いている。ここにもいまの日本人がともすればないがしろにしがちなものがある。
 武満とおるろんを最後に締めくくれし    ば、世界への道の前に日本の道があり、日本への道の前にわが道があったということであろうか。そして平凡へいぼんの中に非凡ひぼんがあることがなんとも魅力みりょく的である。

(河毛二郎「逆風順風」)
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