題名 | 教育の力(3) 79 |
名前 | 森川林 |
時刻 | 2005-08-30 09:21:59 |
教育の果たす役割には、破壊性の克服と創造性の開発があると書きました。
実は、このほかにも、いくつかの重要な役割があります。その一つは、幸福の実現です。 私は、昔、大人はみなそれぞれに幸福に生きているのだと思っていました。自分があまり幸福を感じないで生きているのは若いからで、年を取ればだれでも幸福に生きられるようになるのだと考えていました。しかし、40歳を過ぎたころから、実は多くの人は幸福に生きていないのではないかということに気がつきました。不幸というわけではありませんが、小さい子供のころ、朝になるのを待ちきれなくて飛び起きた、そういう単純な幸福感で生きている人はほとんどいないようでした。だれも、生きることや生活することに慣れて日常生活に退屈しながら、そして愚痴や取り越し苦労や漠然とした不安を繰り返しながら、そしてそれらをテレビや雑談や多忙やレジャーでまぎらわしながら生きているようだったのです。 人間にとって大事なことは、生きていることが楽しいということです。それは、英語や数学や国語の勉強ができるということよりも、ずっと大切なことです。教育の順番で言えば、幸福の実現が最初にあって、そのあとに学力の向上が来るということです。 ところが、幸福の実現のように主観的なものは、今の教育では、個人の努力に任されています。しかし、このように大きな問題こそ、個人の取り組みに任せるのではなく、社会がその取り組みをバックアップする必要があるのです。そうでなければ、宗教がその役割を果すことになり、それは今日のような宗教間の対立を助長することにしかならないでしょう。宗教のいちばんの問題は神を信じていることです(笑)。およそ人間が何かを信じるとき、その人は人間ではなくロボットになっています。ロボット同士の間には、対話も民主主義もありません。最後には、どちらの神が正しいかという実力行使に頼らざるを得ないからです。 幸福の実現についての方法論は、まだほとんどありません。私は自分なりに自己流の方法を見つけましたが、それがほかの人にも当てはまるとは限りません。幸福になることを学ぶための授業や学校は、世界のまだどこにもないと思います。しかし、私たちが、幸福の実現こそ、教育の中で優先的に学ばれるべきだという共通認識を持てば、その教育技術における進歩は早いはずです。 未来の教育は、現代の教育とは大きく異なっています。 かつての教育では、知育、徳育、体育の三つのバランスが考えられていました。しかし、現代の教育は、国語、数学、英語、理科、社会などの知識を習得する教科が中心になっています。これは、複雑な現代の社会で生きるためには知識的な面を強化しなければならないという事情もありましたが、それ以上に受験勉強からの圧力が大きかったと思います。受験の圧力に対抗するだけの明確な理念を現代教育は持っていませんでした。 未来の教育は、人間に対する根本的な洞察に基づいて立案されるべきです。人間の目的は、大きく言えば、幸福、向上、創造、貢献の四つに分けられると思います。教育の骨格もその人間の生きる目的に対応して、心身、科学、哲学、工学の四つの分野に大きく分けられるようになると思います。現代の教科との関連で言えば、国語、数学、英語、理科、社会などの知識教科の大部分は科学の分野に含まれます。知識が引き続き重要なのは言うまでもありません。しかし、それはトータルな教育の一つの面に過ぎません。心身の分野では、人間が幸福に生きるための心身の使い方を身につけます。現代の体育もここに含まれます。哲学の分野では、創造的に物事を考える力を身につけます。この分野の主要な教科は作文です。工学の分野では、技術や道具を使って世界を加工する仕方を身につけます。ここには絵画や音楽などの芸術活動も含まれます。また、コンピュータなどの先端技術の習得や、政治や経営などの社会的技術の習得もここに含まれます。 教育が知識教育に偏っているうちは、その期間も高校や大学までで十分でした。しかし、教育が人間のトータルな生き方に対応するようになると、その期間も生涯教育に限りなく近づいていきます。そうすると、社会全体もまた限りなく学校に近づいていきます。地球が人間の大きな学校になるというのが、未来の社会のイメージです。しかし、その学校にはもちろん、強制的な規則や退屈な先生や怖い先輩はいません。すべて、自分たちの自主的な運営による自由な学校なのです。 |