題名 | テスト 1779 |
名前 | 123 |
時刻 | 2012-12-28 09:49:03 |
「ああすれば、こうなる」型の社会。言い換えれば、未来が「拘束された」あるいは「漠然とした」状態である社会のことだ。真の未来とは「何が起こるかわからない」ものである。これは人間、とりわけ地位も、お金も、知識も力も、名誉ももたない子どもにとってかけがえのない、唯一無二のものだ。それが現代社会ではただちに拘束され、惜しみなく奪われている。わたしは、未来のために貯金をつくる、もしくは過去にこだわるのではなく、今この瞬間を大切に生きる考え方を大切にしたい。
第一の理由は、「今」は「今」しかないからだ。今この瞬間は、長い人生のなかで一度しか体験できない、という意味だ。普段あまり意識しないが、高校生の今という時期は今しかない。高校生の今しかできないことがたくさんある。たとえば部活帰りに友達とだらだら何時間にも及ぶ立ち話。まだ寝ないよと友達とメールや電話で励ましあいながら夜中までするテスト勉強。眠気と戦いながらの授業や寒い中のマラソン。ふらふらになりながらそれでも必死に声を張り上げ頑張る部活。その時は当たり前に楽しんだり、苦しんだりしているが、よく考えてみればあと三年もすればこんな体験は二度とできなくなるのだ。だから、しんどいことや苦しいことも全部含めて大切に、楽しんで過ごしたいと思う。一瞬一瞬を大切にすごすことはそのまま「自分を大切にする」ということにつながると思う。それはすなわち自分の未来をも大切にするということだ。刹那主義という考え方がある。過去も将来も考えず、現在の感情のままに生きようとする考え方だ。この言葉は、現在では「今さえよければ後はどうなってもいいと思うこと」という意味でも使われているが、本来は「一瞬一瞬を大切にして生きる」という意味だそうだ。本来の意味の刹那主義を大切にしていきたい。 第二の理由は、この先何が起こるかなど未来はだれにも分からないからだ。天災や人災、人生毎日何が起こるかわからない。極端に言えば自分がいつまで生きることができるか、今の生活がいつまで続くかわからないのだ。そんな中で、大切な「今」をないがしろにするのはあまりにもったいない。時には将来のため今を犠牲にしてでも頑張ることも大切だ。受験勉強などはその典型的な例だ。だが、高校受験の勉強の際、学校や塾の先生によく「いい高校に行くために勉強するのではない。自分のため、自分の将来のためだ」と言われた。受験勉強のなかでは、「テレビを観たい」「遊びに行きたい」「ゆっくり寝たい」という自分の欲望、怠けたい気持ちと戦うことを学んだ。それは私にとって、第一志望の高校に合格したことと同じくらい、もしかしたらそれ以上の価値があると思っている。目的のために自分と戦う、それは今、しんどいから学校休みたいとか、疲れたから宿題やらずに寝ちゃいたいとか、そういう自分の中の弱い部分と戦えるようになった。そういう力を養うのはやはり自分のためであって、今を犠牲にしているわけではないと思う。 たしかに計画性をもって、将来のために今を犠牲にしてでも頑張ることも大切だ。企業の広告費、第一位のパナソニックは90485百万円というデータにもそれはあらわれている。巨額の資金を投じてでもたくさんの広告をして、利益を増やす。だが広告に投じた額に比例して売り上げが増えるとは限らない。それと同じで、未来のため今を犠牲にする。だが思い描いた未来が必ずくるとは限らない。私の大好きなドラマ、ルーキーズのなかの名言に「おまえらは明日死んでも満足なくらい充実した毎日を過ごしているのか」というものがある。将来のためにせかせかと今を犠牲にする生活では、充実しているとは言えないだろう。やはり今しかない、今というこの瞬間を大切に生きていくことが大切だ。もし「明日が地球最後の日だとしたらどういうふうに過ごしたい?」と聞かれたら、わたしは迷わずこう答えたい。「普通に学校に行って、朝練して、授業受けて、休み時間は友達といっぱいしゃべって、部活して、家族とご飯を食べて、最後は『今日も楽しかった』と思いながら布団に入る。そういう普通の一日がいい。」と。そう思える毎日を過ごせているのは、今という瞬間を大切にし、楽しんでいるからだろう。 |