題名 | 文章における美的感覚 116 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
名前 | 森川林 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
時刻 | 2006-02-27 09:52:08 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ある数学者が、数学関係の会合で「数学に必要なのは美的な感覚だ」と言うと、多くの人が賛同した、という話を聞きました。
科学の世界でも、ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発表するときに、その構造があまりにも美しいので検証する前に正しさが直感できたと述べたそうです。 私も昔、プログラミングの勉強を始めた当初、簡単なループ式で一瞬にしてきれいなテーブルができるのを見て、その洗練された式に一種の美的な感慨を覚えたことがあります。 その式は、これです。↓ print "<table border=1>"; //テーブルの出だしをプリントする。 for($gyou=1;$gyou<=10;$gyou++){ //行を1から12まで作る。 print "<tr>"; for($retu=1;$retu<=12;$retu++){ //それぞれの行に対して列を作る。 print "<td>"; print $gyou * $retu; //行と列を掛けた結果をプリント。 print "</td>"; } print "</tr>"; } print "</table>"; //テーブルの閉じをプリントする。 つまり、行を1から10まで作りながら、そのそれぞれの行に対して列を1から12まで作り、できたそれぞれのマスに列×行の計算結果を入れるという式です。(いずれ中学の技術家庭の時間でやるようになると思います)
結果が同じであれば途中の過程はどうでもいいというのも一つの考えです。しかし、人間はその途中の過程でも、美的な感覚を大事にしたいと思うもののようです。料理でも、栄養が同じであれば、見た目や雰囲気はかまわないという人はあまりいません。(私はかまわない方ですが^^;)同じ結果に到達するのにも、より美しく洗練された方法を選びたいと思うものです。その方法自体が一つの作品となっているからです。 作文について、最近感じたことがあります。ある生徒の作品で、書かれている体験実例に、詩的な作品性を感じました。自分の意見の裏づけとなる体験実例ですから、具体的にわかりやすく書かれていればそれで十分なのですが、そこに作品としていいものを書きたいという感覚があると感じたのです。 こういう美的な感覚のある子は、成長し続けると思います。単に食べられればいいというのではなく、より美しく食べたいという気持ちがあれば、食べ物に対する探求は続きます。勉強についても、より美しいものを求める感覚が大事なのだと思いました。 |