命を与えてくれた両親、そして自分を育んでくれている社会に謝意を表する気持ちを基礎として、自ら人生を切り開く意志と、決めたことに対して身を粉にするほど懸命になれる情熱があれば、自然と両方の利点をうまく活用できると私は考える。 (111字)
「あそび」は発想力や抽象的思考力、更には審美的感情など、後に生まれる人間関係に必要な要素を鍛えさせてくれる。更に、スポーツを始めとする既存の「あそび」はルールに対する捉え方を考えさせてくれる。要するに子供たちは社会に出る前にこういった経験を通して学び、沢山の教養を身につけることが可能なのだ。果たして人生に一度しかない幼少期を集団とともにあそびを経験しを過ごし教養を身につけるのか、あるいは孤独での経験を通して身につけるのか、両方を比較しつつ私なりの提案をしたい。
集団に加わることで、当地でしか味わえることのできない唯一無二の経験や知識の収集ができる。例えば表現方法が鍵となるコミュニケーション力や、情報収集、更には感情の知識の強化が挙げられる。いくら本を始めとする文学を通してそういった能力や技術の向上を試みても、やはりそれらを活用できる場所がなければ吸収した知識はすべて水の泡になってしまう。また、自分の興味のない分野の情報まで収穫できるのも人付き合いにおけるさらなる魅力であるのではないか。
更に、日本の代表作品である昔話の桃太郎は社交の魅力を伝えてくれる。ストーリーの中では主人公である桃太郎は猿やキジなど出会った動物達と一つの群を作り上げ、鬼の退治に挑む。まさにチームワーク、そして団結力により彼らは成功するのだ。一人で対戦していた場合、ハッピーエンドであったかはわからない。 周囲と自身の交友はただ自身のためだけになるだけでなく、相手にも幸福が行き渡る。他人の力を借りずには世の中を一人では歩むことができないことを改めて感じさせてくれるのだ。
一方で孤独でいることは自身の価値観を鍛え、尊重することが可能だ。周囲のペースや意見に惑わされることなく真の自分と向き合える時間を設けられる。言い換えれば、己について更に知り尽くすことができる最高の時間であるのだ。一人でいることの魅力に惹きつけられる理由はそれだけでない。孤立をした上で生活を送ることで自発的能力を強化することも可能である。優柔不断な者をはじめとした、なかなか自信を持てていない人にとっては訓練できる最適な機会なのではないか。孤独感は寂しいものと捉えられがちであるが、観点を変えてみると逆に魅了されるほどの長所が見つかるのだ。
コロナ禍で制約された自粛期間中、大半の人たちが、一人、あるいは比較的孤独と感じる時間を過ごすことが多かった。確かに在宅期間は友達や親戚、誰一人とも物理的に対面できず、虚しい日々であるかのように受け止められる。しかし、多くの者はこういった機会を活用し、セルフケアや自己分析といったかつては目を向けることのなかった行動に取り組むことができた。シェークスピアが以前「何にもまして自分に誠実であれ」といった名言を残しているが、まさに自身を大切にし、誠実であること、そして十分に丁寧に扱うことの重要性を言い表している。情報過多な現代社会を生きている中、定期的に自分への心理的な配慮をし、気持ちを整えることこそ、人が生き残るための条件なのではないか。
やはりグループの一員でいることと、一人でいること、両方に溢れんばかりの長所が積み込まれている。世を知り尽くした人でもこれらを一択に絞り、胸がすくような結論を生み難いところだ。だからこそ、ここで一度考え直してみたい。果たして私達はどのような幼少期を過ごすべきかについて二者択一で決めるべきなのか。どの昔話を読んでも、集団と孤独をオセロのコマのように白黒はっきりさせた生き方は描かれていない。むしろ、双方を行き来しながら主人公の心情が変化する。これらが示すように、人は多くの人との関わり合いと、自分自身に向き合う時間との間でバランスをとりながら生きていくのだと思う。命を与えてくれた両親、そして自分を育んでくれている社会に謝意を表する気持ちを基礎として、自ら人生を切り開く意志と、決めたことに対して身を粉にするほど懸命になれる情熱があれば、自然と両方の利点をうまく活用できると私は考える。
>>
後半1200字のみ表示にする