総合 65 点(上位1%以内)

字数 5404 字 【文体】
 ○文の流れが自然です。
 ▲読点がやや多いです。(-1点)
 ▲接続助詞の「て」がやや多いかもしれません。(-1点)
 △もう少し文章の中心をしぼっていきましょう。
 ▲文章途中(-1点)
【語彙バランス】
 説明に比べて、素材がやや多い文章です。(-2点)
 概念的な言葉よりも、描写的な言葉がやや多い文章です。(-2点)
思考力 43 点
知識力 71 点
表現力 77 点
規定の字数(1200字)よりも短い文章は低めに評価されます。小論文として採点しているため語彙間のバランスも評価に入れています。

 【本文】
正直言うと、大学受験の話は得意ではありません。思い出がいっぱいつまっていて、ついつい雑談に突っ走ってしまいがちで、いつも本質的な話はできないので。だから、タイトルと中身がかなり違ってくると思うけど、大学受験勉強のヒントがいくつか見つかるように話したいと思います。
最初に言っておきます。受験勉強は、単なる勉強ではありません。子供時代の自分が大人になるパスポートを得るための登竜門です。高校受験のように、がむしゃらに暗記していれば合格するわけでもないし、本質を理解する勉強を習得しなければその後の大学での学習や、学びや行動に対する姿勢にも支障をきたすと思います。そして何より、大学受験は、自分を大きく成長させてくれます。私にとって大学受験は大きな転機でした。人生の方向を決めたといっても過言ではないし、受験の経験が自分を大きくしてくれました。だからこそ、私の受験時代を伝えることで、皆さんが充実した大学受験を過ごすことができるヒントになればと思っています。
はじめにもうひとつだけ。いつも受験生に話すことなのですが、「気づき・考え・実行する」というサイクルを大切にしてください。きょう話すことは、皆さんの教科書ではありません。参考にするヒントでしかありません。答えはもちろん自分で出す。自分だけの勉強法、自分だけの受験生活、自分だけのとっておきの人生を作るのは皆さんです。きょうの話をいかして少しでも良い受験勉強ができることを祈っています。それでは、始めましょう。
・高校受験の収穫
最初に高校受験の話をします。高校受験での経験が、大学受験への多くの伏線となっています。回り道になるけど、聞いて下さい。僕は埼玉の北部にある熊谷市というところの、ふつうの公立中学に通っていました。全校800人あまりの県北部でもっとも大きい学校で、ここでナンバーワンなら県北でナンバーワンだと言われるぐらいに、勉強のできる子が多かったのが特徴です。市街地にあったから、どうしても塾とか通ってすごい秀才が生まれるんだよね。僕は、上位には食い込むけどなかなかトップになれない、10位から20位くらいを行き来する感じでした。
そんな中学に通いながら、6月までは塾にも通っていました。40年の歴史がある地元の名門塾で、自分の中学はもちろん、周りの3,4校のトップも集まるところでした。ここには中1の春から通っていたんだけど、中3になったとき辞めようと思ったんです。なぜか?この塾で、秀才連中と同じ勉強を繰り返していても、トップにはなれない…そう思ったからです。別にトップになる必要はないけど、けど彼らに何か勝ちたいって強く思って、そんな目標ができたんです。親を説得するのは大変でした。その塾に通っていれば、志望していた地元の公立進学校には入れるくらいちゃんと教えてもらえるのに、なんでいまさら自分で勉強するなんて言いだすんだと。しかも、父もこの塾で学生時代に講師をしていた縁があって、引き止められました。けど、「自分で勉強して1位になるから」と、思っていないことを言ってどうにか説得して、父と一緒に塾長に説明し、辞めました。それが6月、独自路線を歩み始めました。この、自分にしかない受験勉強をやろうという気構えが、大学受験でも自分らしく、自信を持って勉強する原動力になりました。
独自路線といえばかっこいいけど、結局何をすれば良いか当初はわかっていませんでした。だから、何冊かの勉強法の本を初めて読み、効率よく勉強する方法などを考えて自分なりにアレンジしていました。たとえば、20分でできるくらいの分量に参考書のページを割りふって、それを1単位として1日に何単位やるか目標を設定してクリアしていく形式…というのを作りました。1週間に1回、2時間くらいかけてやりかけの参考書を50ページくらい先までざっと見て、割りふる。そして、30時間勉強するとして、60単位は取ろうと決めて毎日こなしていきました。この方法は、ゲーム性が高いだけでなく、自分の進ちょく状況が「@@パーセント」とわかるのが良いところで、自分でも気に入って高校でも活用していました。公立校にしぼって、基本問題をすらすら解けるレベルまでブラッシュアップして、あとは応用問題の勘どころを探っていました。応用の解けないときは、基本知識のどの部分を使うのかしっかりと参考書に戻って考え直したので、1回やればかなり知識も定着したし、問題の解法も効率よく覚えることができました。
夏休みも独学。図書館に通って、塾に行っている友達に問題集をコピーさせてもらっていっしょに解いたり、私立の受験情報について聴いたりしていました。孤独でしたね。友達はいて、受験の情報とか交換できても、みんな塾に通っていて毎日7時間も8時間も特訓を受けている。逆に自分は、マイペースを貫いている。大丈夫かなと思いながらも、自分で選んだ道を正しくしなければならないと決めてがんばりました。ここで大切にしたのが、応用問題への対応力ではなく、完璧な基礎力作りです。高校受験は基本的な問題を間違えなければ合格することができます。誰もできないような応用問題で点を取るよりも、ミスを少なくすることのほうが、確実に点を上積みできると思ったからです。ですから、中学3年間の範囲をノートにまとめて自分だけの参考書を作って、要点を理解しました。
そうして迎えた秋。実力が上がっていなければ、塾を辞めた自分の判断は間違っていたことになる…不安な日々でした。実力テストと呼ばれる、学校が作った公立向けのテストで、2学期の最初は10番台だったものの、2回目に奇跡が起きました。200点満点で184点!2位の女子(いまは医者になっている)に1点差で1位!すごく喜びました。「塾に通っているみんなに、自分の力で勝てるんだ」という自信がついたのはこのときでした。その後は1位はとれなかったものの、4位から10位くらいを行ったり来たりして志望校の安全圏内にいました。3者面談は、僕の両親が地元の中学教師だったため、担任の先生が出張のついでにお茶を飲みながら話してきたといってナシ。それくらい、安全な合格圏内に入れたんだなと思いました。塾に通う生徒なら、塾の講師に頼ることもできます。確かに、僕の両親は教師だったので、勉強を教えてもらおうと思えばできたかもしれません。でも両親は、質問を持っていくたびに「そこに分厚い辞書があるでしょ?」というだけ。名門塾に通ってみんなに頼っていた状況から一転、ひとりですべてやらなければならない状況に追い込んだことで、自分に見合った勉強を構築できました。本やネットに掲載されている情報って、結局自分流にアレンジしなければならないんですよ。
さて、あとは受験日までがんばろうと思っていました年明け早々、ある先生が職員室で声をかけてきました。3学期その年に赴任してきた体育の先生で、僕のいた卓球部の顧問をしていた先生でした。「おい、早稲田の附属高校を受けろ。おまえなら合格するぞ。俺の息子だったら、しばいてでも受けさせる。チャンスだ」と。いきなりのことで、考えてもいなかったのでびっくりしました。早稲田の附属は本庄市という2つ隣の街にあって、うちの学校からも2人か3人しか入れない超難関校です。けど、「俺の息子だったら」と言われて、これはほんとうにそうした方が良いのかもしれないと悩みました。帰宅して母にそのことを言うと、「別に受けたかったら受けても良いよ。入ったら3年後は早稲田の学生だもんね」と言っているし、父も「学費なら心配するな」と言う。ついきのうまで「私立は金がかかるし、すばらしい公立校がチャリで5分ととこにあるんだから余計なこと考えるな」と言っていたとは思えない2人の言動。しかも2人とも地元の教師で受験には精通していたから、まんざら合格できないわけでもないんだなと思いました。
さて、どうする。願書の提出まであと1週間。受験日までは1か月。どうしようどうしようと悩みながら、早稲田の附属を受けるという周りの友達に過去問を見せてもらいました。応用問題も半分以上は解けそうだし、何となく行けるかもと見えていました。ウーン…。そして出願1日前、決めました。「受けない」、両親にきっぱり言いました。「なんで?」母が言うと、僕は「早稲田の附属は学費が年間120万かかる。公立なら年15万だ。公立に3年間通って受験すれば、合格できれば300万も浮く!しかも、慶應だって東大だって目指すことができる。3年後、合格を手にして、その金で海外行きたい!」いま思うとバカな発想だと思いますが、そんなことを言って公立にしぼって受験しました。正直に言えば、落ちるのが怖かったんです。落ちて、ショックを受けて、公立高校まで落ちることになったら取り返しがつかない。自信がないままに、いきなり決めた道を進むのはリスキーだ。ほんとうは、そんな思いが腹の中にはありました。
そして発表、公立高校に合格しました。しかし、ショックなことがありました。自分よりも順位の低い知り合いも含めて、5,6人が早稲田の附属に合格していたのです。「後悔」、その2文字に尽きる受験となりました。あいつらが合格するんなら受けておけば良かった。自分は頑張らずに受験することを避けていたけど、それはよかったのか…後悔しました。
・受験生になるまで
97年春。晴れて高校生になりました。埼玉県立熊谷高等学校。正門から見ると進学校にふさわしい外観。中に入ると、男子校に相応しい汚い空間です。テニス部に入ったり、文化祭実行委員会の委員長を経験したりして、受験の「じゅ」の字もない生活をおうかします。ほとんどの生徒が浪人することから「4年制高校」と言われ、予備校は、「2つめのキャンパス」なんて言ってるくらい受験意識は低い高校。自分も、現役合格率が4割を切っていた母校の雰囲気にまんまと飲まれていました。
大学受験を意識したのは2年の夏と冬です。ここからようやく大学受験の話です。
夏は、駿台が開いている東大箱根セミナーという合宿に参加しました。周りには、模試で名前が載っている生徒もいて、場違いな感じを受けました。どうやら、模試の志望校欄に「東大」と書いていたためにダイレクトメールが来たのではということでした。セミナーでは、大阪や鹿児島、それに広島の友達ができました。夜通し、「俺は医者になる」「俺は建築士になる」と熱く語っていた彼ら・彼女らを見て、俺はどうしようと焦ります。大学に入って何をするのか、強いモチベーションを持っている人は強いなという印象を受けたのです。セミナーで僕たちの面倒を見てくれた大学生も、なぜ医者になりたいと思ったか、なぜ法学部に入ったのかなど熱く語ってくれるのです。そんな姿を見て、「こんな学生になりたい!やっぱ東大でも慶應でもどこでもいいけど、こういうかっこいい学生になりたい」という、受験への動機付けができました。このセミナーで、いろんな大学生の先輩から話を聞いたり、手紙をもらったりしたことが、この後、いまの俺にも影響を与えています。筑波大の医学部の方は、「広い視野を持った、深み温かみのある人間になろう、お互いにね」と書いてくれて、受験受験と視野を狭めることなく突き進む大切さを教えてくれました。京大医学部の方は、挫折経験を語ってくれて、それでもがんばる底力の大切さを教えてくれました。いまでも、何回引っ越しても、このときの手紙は手放せないモノになってます。
そして高2冬。このころになると、大学受験も視野に入れて何かやろうという気持ちになっていました。高校受験のときの成功、つまり独自の路線を構築して合格するという作戦を繰り返そうという思いが強くなって、人がやらないことをあれこれ考えていました。冬、「現役と浪人、浪人はすごく強いぞ。なんせ、彼らはおれたちが1年でやっていることを2年やっている。」と、高校の教師から聴き、ある作戦を思いつきました。「いまの3年生の勉強している様子を見に行ってみよう」という作戦です。地元の無名な塾の冬期講習を申し込み、古文・現代文・英文法・英文読解の4講座を受講しました。レベルはそれほど高くないクラスで、自分も3年生に負けない正解率でした。けど、気迫だけは負けていました。緊張感が違う、超マジな顔して差し迫った受験を本気で見据えている顔でした。「こいつら、来年相手になるのかぁ」そんな危機感を胸に、もうひとつの決心をしました。それは、浪人生が現役時代に1回経験する大学受験を、模試を使って体験してみようというものです。2月の模試をとことん受けて、大学受験と同じようなスケジュールでやり抜く。傾向と対策もしっかりとやる。そう決めて、2月初めから3月中旬までの2年生専用模試を7つか8つ登録しました。多い週には3つもあって、毎回こなすので精いっぱいでした。でも、受験生はその期間に5校も6校も受験している(しかも人生の分かれ道に立ちながら)。だから、同等のことをやってみようと思ったのですが、「いまの俺にはできない、やばい」と内心思いました。結果もばらつきがあって、志望校でC判定が出て喜んだかと思え