総合 95 点(上位1%以内)

字数 1943 字 【文体】
 ○文の流れが自然です。
 ○文章の中心がよくしぼられています。
【語彙バランス】
 説明に比べて、素材がやや多い文章です。(-3点)
 概念的な言葉よりも、描写的な言葉がやや多い文章です。(-3点)
思考力 65 点
知識力 65 点
表現力 71 点
規定の字数(1200字)よりも短い文章は低めに評価されます。小論文として採点しているため語彙間のバランスも評価に入れています。

 【本文】
 演劇の「hic et nunk」はテレビと演劇の関係を見ると分かりやすいのではないかと思う。
ここでは、テレビ画面越しに見る手品と実際に目の前で見る手品を比べてみる。

まず、手品を純粋なエンターテインメントとして楽しむ人の視点に立って考える。
テレビで放映される手品は、手品師も手品のネタも厳選されているため、面白いものが多い(そもそも映像の目的は後世に残すべきものを残すこと、あるいは広めることにある)。演出もしっかりしているし、カメラが接近しているおかげですぐ目の前で手品をしてくれているようにも見える。
しかし実際にはその手品は、手品そのものではなく映像である。私と手品師とは空間的・時間的に断絶している。時折入るCMによって精神的にも断絶されることもあるだろう。加えて、手品師にとって「私」は「テレビの前の視聴者」という概念でしか認識されないし、「私」もまた手品師を実際的には見ていない。だから、現時点において「私」と手品師の関係性から生まれるものは何もない。私が手品師のトランプを引くことはできない。
あるいは、手品をテレビで見る場合、視聴者が多いため、多くの人と話題が共有できるという利点も考えられる。多くのエンターテインメント視聴者は、感覚を共有したいという欲求を持っているだろう。
しかし、中にはそれを単純には良しとしない人がいる。そういう人はテレビでは広すぎると考える。テレビを見る時、人がやる行動といえば、チャンネルを選ぶくらいのことだ。あるいは選んでいなくても、偶然そのチャンネルを付きっぱなしということもある。その上、テレビはあまりにも日常的で、よく看過ごされる傾向にある。録画もできるから、一回一回の手品は希薄になる。もちろん中にはその映像をしっかと目に焼き付けた人もいるだろうが、それも大衆の中に紛れてしまう。それを「見た」という人が真の意味でその手品の映像を「見た」のか、そういう疑問をもつ人がいる。
一方、生で手品を見たいと思えば、あらかじめその手品の執り行われる日程や場所を調べ、お金を出して券を手に入れ、さらに当日その場に赴かないといけない。多くの場合、その人は積極的な鑑賞者である。探すまでもないのである。そこに手品を媒介にした閉塞的で強固なコミュニティーが出来上がる。

次に、手品を分析的に見る人、つまりタネを明かそうと考える人の視点に立って考える。彼らはテレビの手品は信憑性が欠けると言うだろう。第一に、空間的・時間的な編集が為されているかもしれないからである。彼らは手品の行われる一連性の緊張感を尊んでいる。手品師がとちれば、タネが見破れるかもしれないし、とちらずとも、その手品師の構成力・演技力がどの程度なのかを見ておける。テレビはそこを曲解している可能性をはらんでいるのだ。第二に、私達がテレビ画面上で見ている映像はあくまでカメラの視点で撮られた映像である点がある。手品を分析的に見る人にとっての最大の関心事は「手品全体からいかに要素を抽出し、タネを見つけるか」なのである。基本的に、決められた箱の中のものを「見せられる」ことには耐えられない。

他の身近な例と言うと、地上波デジタルが思い浮かぶ。高画質と並ぶうたい文句として、「双方向」というのがある。テレビ全体が、より演劇的になるともいえるかもしれない。しかし、映像と演劇にはお互い不可侵の部分があるように思う。いずれにしろ、「双方向」テレビは中途半端に終わりそうな気がする。


?言葉と身体のインターフェース
抽象的な表現になるが、言葉が「私」であるならば、身体は「生きている影」のようなものではないかと思う。
一応、影であるから、普段は自分の思い通りに動く。人はその影を見て、「私」を見ようとする。「私」もまたその人の影を見て、その人を知ろうとする。時折、「私」は私の影を見て「私」を知ろうとすることもある。
しかし、ある時、ある弾みで、影は私と別の行動をとる。それが偶発的なものか、ごく自然的なものかは分からない。さらにその影が起こす行動が「私」に対する看過か、超越か、支配か、あるいはもっと別のものかは、TPOなどによって変わることになる。今の私には分からないことである。
そして、そんなやっかいな「影」を操るのがうまい人がたまにいる。その才が全ての人に潜在するものなのか、選ばれし者の特権なのか、いずれにしろそういう人を「役者」というのだろう。しかし、役者も我々と同じ人であるから、様々なしがらみにとらわれている。いや、そういう人だからこそ、現実社会と虚構世界の狭間で葛藤するのかもしれない。だが、これはもちろん利点にもなりうる。演劇は「現実」を含意しているからだ。