総合 95 点(上位1%以内)

字数 2090 字 【文体】
 ○文の流れが自然です。
 △もう少し文章の中心をしぼっていきましょう。
 △長い文と短い文が多く中間の文がやや少なめです。
 △文の長さの平均がやや長めです。
 百字を超える文1ヶ所(-1点)
 ▲113字  ちょっと話が横道にずれてしまいましたが・・・・もし私の申すように、先生というのが比較的に同質集団であり、それを打破することが正しいのだとすれば・・・・ 教員養成系学部そのものを廃止するべきかもしれない──と考えたりします。
【語彙バランス】
思考力 66 点
知識力 61 点
表現力 63 点
規定の字数(1200字)よりも短い文章は低めに評価されます。小論文として採点しているため語彙間のバランスも評価に入れています。

 【本文】
私自身は尊敬できる恩師に出会えたせいもあって、学校の先生というものには市民社会の教養の結節点というようなイメージを未だに持っています。「師範学校卒」「大卒」というだけ「教養人」と見なされた時代だったのですね。
いつの間にやら国民の50%もが大学へ行くようになって、世間的には、そんな認識がすっかりなくなってしまいました。

どの都道府県でも、教員養成系学部出身の先生が多いだろうと思います。
私の学齢時代(昭和30〜40年代)は、教員養成系学部を抱えた地方国立大学はそんなにレベルが低いという印象ではありませんでした。おそらくその在籍生たちは小中学時代まで遡ればみな優等生だったろうと思います。

けれども、そのような大学へ進む人は平均的に同じような傾向を持った人であったようにも思われます。(善い悪いとは別の議論です。)
何らかの事情で「地元」にこだわらざるを得ない人。安全な道を選択する野心に乏しい人。満遍なくどの科目もできるが突きぬけた部分はない人。善良で大人しい人。地元に根を下ろした郷土人。

・・・・もちろん、これは私が感じていたことで、根拠はあまりありません。
その薄弱な根拠を前提にして強引に想像を広げると──おそらくどこかの時点から、学校の先生というのは他の職場に比べて、かなり同質な人々の集まりになってしまったのではないかという気がします。
昔は、師範学校や大学に行く人自体が少なかったので、同じ同質でも市民から見れば違って見えたのでしょう。

「お上」の目には、教育行政に携わる公務員としてあまりに突出した在り方は好ましくなく映るのでしょう。それが教員養成教育に反映されているであろうことは想像に難くありません。
しかし、現場にいる「リアルな対人業者」としては、いろいろ異質な人がいて、侃侃諤諤やりながら最善の策を模索していく──という在り方の方が好ましいのではないかと考えたりもします。同質集団の困難さがその辺にあるのではないかと。

そして、富田さんがおっしゃるように、そういう「侃侃諤諤」自体や選択した「最善の策」については公開されるとよいのだろうと思います。
もちろん、このボードを見ても分かる通り、世の中にはいろんな意見があり、教師自身が発言をし始めるとおそらく様々な「困難」に直面することも多いでしょう。それは今以上の忙しさを抱え込むことにつながります。
そういう意味では、先生方が今やっておられる全業務を見なおし、改めてプライオリティーをはっきりさせる潮時に来ているのかもしれませんね。パソコンの導入などはそういった役に立つかもしれません。

ちょっと話が横道にずれてしまいましたが・・・・もし私の申すように、先生というのが比較的に同質集団であり、それを打破することが正しいのだとすれば・・・・
教員養成系学部そのものを廃止するべきかもしれない──と考えたりします。
教員養成のために必要な事項は、一般学部のオプションにしてしまうわけです。

それからもう一つ。
もともと私は、学校の抱える問題を解決するにはまずもって少人数クラスが必須だと考えてきましたが、政府には教育基本法の改変よりも先に、こっちの方に取り組んでもらいたいと思っています。ゼニの問題は確かにあるけれども、どう見ても真剣に取り組んでできない問題ではないと思うのですね。
まあ、1学年120万人時代の到来を待っているのだろうな。・・・・

いや、なぜ少人数クラスかと言いますと。
それ自体のメリットもさることながら、新しい教員をどんどん学校という場に入れるチャンスを得られるのではないかと(単純に)思うからです。
大学自体をじっくり改変して・・・・というのは待っていられませんから、新しい教員として「外部の血」を大量に入れられるような事態を敢えて作ってしまってはどうかと思うわけですね。


実は私には学校の先生をやっている友人が何人もいます。みんな「善い人」であり、子ども思いであり、労を厭わず職務に取り組んでいる。善き友達です。
でも、非常に逆説的ですが「労を厭う」ことも必要ではないのかと思ってしまうんですね。
なんというか・・・・うまく言えませんが、同質者同士で中でこつこつ努力しようとすることが、かえって「ドラスティックな改変」を図る妨げになっているのではないかと思うことがあります。

自動車で言えば、「排気ガスをクリーンにしたら馬力が落ちた」というのはもはや時代遅れで「排気もクリーンでなおかつ馬力もアップ」ということですね。どうやったら「楽になるか」ということが「どうやったら教育はよくなるか」につながるような思考が必要なのだろうと思う次第です。
とりあえず「過渡期の苦労」は別として。

現職の方を前に偉そうなことを書いてしまいました。
富田さんのような方がおられて、情報発信されることが、少しずつであっても事態をかえていくことにつながるというのは、ご発言を見ていると非常によく分かります。
今後もいろいろ私たちの知らないことを教えていただきたいと思います。