a 長文 1.1週 yube2
 思想を持てば、思考の力はその分おとろえる。ものを考え続けるためには、すでに考えられてしまったことを、そのつど打ち捨てていかなくてはならない。でも、ひとりでそれをやるのはとてもむずかしい。だから、自分にかわってそれをやってくれるひとだけが、つまり有効な批判をしてくれる人だけが、哲学てつがく上の友人(=協力者)なのだ。だから、真の友人を求めるかぎり、批判者を批判しつづけなければならない。
 では、批判が有効であることの基準は何か。それは有効な批判が出てきた時点ではじめてわかることだ。有効な批判の成立そのものが批判の有効さの基準をはじめて作りだす。これは哲学てつがく的議論のひとつの特徴とくちょうであり、弁証法という奇妙きみょうな訳語で知られるディアレクティークという語のもっとも深い意味だ。それはいわば、闘争とうそうの勝敗を決める基準そのものが、その闘争とうそうの中で生み出されるような特殊とくしゅ闘争とうそうなのだ。それでもそれが闘争とうそうでないのは、その未知の基準を生み出すために、お互い たが が協力しあうからである。
 たいていのひとは、議論するということを相手の考えを論破して自分の考えを弁護することだと思っている。政治的議論のようなものなら、もちろんそうだろう。たとえば原発とか消費税といった問題についてなら、どのような思考過程をへてであれ、いま自分と同じ結論に達しているひとこそが自分の友人であろう。そして、自分と同じ主張を別の論拠ろんきょから擁護ようごしてくれるひとは、最もたのもしい協力者だろう。だが、哲学てつがくにおいては、論拠ろんきょがちがう同じ主張なんてものはそもそも存在しない。たまたま字面のうえで同じ結論を主張するひとがいても、かれは友でも敵でもない(もちろん原発や消費税についても哲学てつがく的に考察することはできるが、それは結論を得るということに本質的な興味をもたない場合にかぎられる)。
 哲学てつがくの議論は、思想を持つ者どうしの通常の討論とは逆に、自分では気づかない自説の難点や弱点を相手に指摘してきしてもらうことだけをめざしておこなわれる。ぼくの経験した範囲はんいでは、大森荘蔵さんと議論したとき、かれ完璧かんぺき哲学てつがく的であると感じた。大森さんは現在の自説が有効に論駁ろんばくされることにしか興味を持っておられないようであった。こういう純粋じゅんすい哲学てつがく的な態度は、議論における公
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正な態度と誤解されがちだが、そうではない。実は、単に利己的なだけなのだ。哲学てつがくとはまったく利己的なものなのだが、幸いにしてその利は、だれも他に欲しがるひとがいない自分だけの利であるため、あたかも公正な態度のように見えるのである。
 だから、哲学てつがくの場合、友人と論敵はぴったり一致いっちする。同じ問いを共有し、協力してそれを徹底的てっていてきに解明し尽くしつ  たいと思う友人としか、そもそも敵対することができないからだ。それ以外の場面では、哲学てつがくはひとと論じあうべき理由はないし、そもそもほんとうは公表すべき理由さえないのだと思う。哲学てつがくというものは本来、黙っだま て墓場へ携えたずさ ていき、持ち主の死とともに消滅しょうめつしてよいものなのではないだろうか。思想は公表されなければ意味がないが、哲学てつがくはちがう。賛同者がふえることは、思想にとっては最も望ましいことであろうが、哲学てつがくにとっては本質的な意味はないだろう。

(『「子ども」のための哲学てつがく永井ながい 均)
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a 長文 1.2週 yube2
完ぺき主義

 君たちは今、のびるさかりだ。
 おとながそばでみていると、その成長が目にみえるので、うれしさのあまり、つい注文をつけたくなる。
 あっちをのばせ、こっちをもうすこしひろげろ、などという。
 それが、どこそこが足りないというふうに表現される。
 数学は七〇点だ、もうすこしがんばれ。
 おとなが、そういいたくなるのは、君たちがのびる力をもっていて、のばさないでいるようにみえるのが、はがゆいからだ。
 のびる力があるのに、のばさないのでは損だ。
 だが、損得をはなれて、おりちゃっているものもいる。
 そういう、おりちゃった人にちょっといいたい。
 いまはおりてるけれど、はじめはやる気があったと思う。ところが、いざ、やってみると、完ぺきにはほど遠い。
 そこへもってきて、あれも足りないじゃないか、これも足りないじゃないかといわれると、どうしていいかわからなくなっちゃう。それで、勝手にしろということになったのじゃないかな。
 私は完ぺき主義というのはきらいだ。
 経験からそうなったのだ。高校のとき、ドイツ語のポケット字引きを一冊まるまるおぼえてやろうと思って、半分ぐらいまでカードにしたことがある。とてもつらかった。
 だけど、そんなことをしていたら、一日が三十時間あっても足りないことがわかった。
 人間は完ぺきでなくたって生きていけるんだということが、おとなになってから、やっとわかった。
 年をとった今は、完ぺきではないほうがいいんだ、と思うようになった。
 完ぺき主義がこまるのは、水泳のまえに、準備体操ばかりやっていて、つかれて泳げなくなってしまうようなことがあるからだ。
 だから、完ぺきにできないからだめだ、と思うのはまちがっている。
 完ぺき主義なんてものは、もともと実行できないか、実行したら役にたたないものなんだ。
 結果がどうあろうと、やってみることだ。
 君らしくやれば、それでいいんだ。

『人生ってなんだろ』(松田道雄みちお)より
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a 長文 1.3週 yube2
孤独こどくについて

 君は孤独こどくを感じたことがあるか。
 もし、それを感じたことがあったら、それは君が成長したしるしだ。悲しむことはない。
 いつも、まわりのおおぜいの友人といっしょになって、先生の失敗をはやしたてたり、流行歌を合唱したりして、それで毎日がたのしいというのは、自分の個性を自分でみつけていないのだ。
 あるいは、個性をそだてることがおっくうなので、おおぜいのなかにとけこんでごまかしているのだ。渡り鳥わた どりが群れをつくってとんでいるようなものだ。おおぜいのいくところについていけばいいという気持ちだ。
 ところが、自分はおおぜいにはついていけないという気持ちがおこってくる時がある。
 自分にだけ能力があるという、えらそうな気持ちからでなく、そうなる時がある。
 そして、おおぜいからすこしはずれたところにでていって、はじめて救われたようになる。
 これを、孤独こどく病という病気のように思うことはない。みんなにとけこめない自分を悲しく思うことはない。
 人間はめいめい個性をもっている。それが中学生のころになると、急に成長するので、ほかの人とあわないところがでてくる。
 それぞれちがった個性が一度に開花してくるのだから、ほんとうは中学の時代は、まとまりのわるいものだ。ところが、いまは受験勉強というもので、みんなに同じような生活が強いられている。
 みんながおなじ模擬もぎテストをうけ、おなじ宿題をやらされ、おなじように時間がたりないところにおいこまれている。みんながおなじようなことをかんがえ、おなじようにさわぐのは、受験勉強にたいする共通した反応だとかんがえていい。受験勉強のために、個性の開花はおさえられている。
 そのなかで、自分の個性の成長を感じ、自分はすこしちがうと思いはじめるのが、孤独こどくなのだ。
 自分のような孤独こどくな人間が生きていけるだろうかなどと思うのは、まちがっている。個性的であるという点で、人間はみんな孤独こどくなのだ。
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 人間は渡り鳥わた どりのような個性のないものでない。めいめい孤独こどくなのだと自覚し、孤独こどくだからこそ連帯が大事だということになって、はじめてほんとうの連帯が生まれるのだと思う。

『人生ってなんだろ』(松田道雄みちお)より
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a 長文 1.4週 yube2
 われわれを取り巻く環境かんきょうは、あっというまに人工化し、急速に自然が破壊はかいされてしまった。昭和三〇年ごろまでは、東京都の二三区内でもトンボやカエル、バッタなどの野生小動物がけっこうたくさんすんでいた。ところが、三〇年から四〇年までの間に、それらはすっかり姿を消し、農村でも農薬の大量使用によって急速に動物たちは消滅しょうめつしてしまった。戦後生まれの人たちも、しばらくの間はセミやトンボ捕りと に興じ、川あそびや木登りに夢中になって、自然とたわむれた記憶きおくをもっている。しかしそうした幼少年時代を支えていた環境かんきょうが一挙に崩壊ほうかいし、子どもたちは自然とのつきあいを断ちきられてしまうことになった。
 一昔前は、道路には子どもたちが群れていた。今は自動車が道路を占領せんりょうし、子どもたちはそこからすっかり駆逐くちくされて、家の中に閉じこめられてしまった。多くの子どもは小さな家で飼育され、学校では厳しい管理の下に画一的な教育で締めつけし   られている。そして、テレビやオーディオセット、ファミコンなどの電子器具に埋もれうず  、無機的な世界の中で密室文化に耽っふけ ている。まるでクモの巣にかかったちょうが、もがきながら体液を吸いとられていくように、子どもたちは過剰かじょうな情報の網目あみめの中で、もがきながら精神を衰弱すいじゃくさせていく。
 進歩は無欠の善なるものであり、進歩こそ人間を幸福にする呪文じゅもんであると信じられてきた。その呪文じゅもんにしたがって、文明の進歩はすさまじいほどに加速度を増して、まっしぐらに走り出しはじめている。その進歩の加速度を測定する方法もないし、文明の利器が人類を乗せてどこへ向かって走っているのか、だれも予測できない。
 この状況じょうきょうは、文明を乗せている乗物を思い浮べれうか  ば、ある程度理解できるだろう。人類は肉体の能力を超えこ た速度をわがものにし、自由に操作できることに憧れあこが てきた。乗馬はある程度それを満たしてくれたが、やはり生物的限界がある。機械だったらその限界を突破とっぱしうるだろう。自転車が発明されたが、それはまだ人力によって動く機械だった。自動車、プロペラ飛行機が発明されるに及んおよ で、乗物はしだいに人間の操作能力を超えこ た自動性をもつよう
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になった。しかし、その自動性の中で、人は多くの場合、どうすれば何が起こるか予知できるし、何が危険であるのかを知っている。自分の知覚や感覚の能力で操作が可能だからである。
 われわれは現在、音速に近い旅客機で旅をしている。機内は完全に空調され、ゆきとどいたサービスを受け、豪華ごうかな飲食を楽しんでいる。飛行機は動いているのか静止しているのか、機内では感覚的には全くわからない。何か危険なことが起こっていようと、乗客にはなんら察知することができない。しかし、ごくわずかのミスがあれば、乗員の意志とは無関係に、全員が一挙に死亡する事態が発生することは確実だ。
 われわれが乗っている、文明という高度に技術化された乗物も、ジャンボ機と同じような運命を担って走り続けていると、私には思われてならない。このまま加速度が増していけば、いつかカタストロフが待ちかまえているだろう。その兆しはあちこちにもう見えはじめている。

(『子どもと自然』河合雅雄まさお 岩波新書)
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a 長文 2.1週 yube2
お正月

 元日はおかしな日だ。きのうまでいそがしく動きまわっていたおとなたちが、映写機の故障でフィルムがとまったように、おちついて笑顔をみせている。
 お正月なんか、ちっともおめでたくないや、おとなが勝手にきめて、酒をのむ口実をつくってるだけじゃないか、と思っている人もあると思う。
 お正月に、そういう感じをもつ人は、昔からいた。一休和尚おしょうという坊さんぼう  がそうだった。室町時代のおわりちかく、京都の大徳寺の住職をしていた。この人は正月に、
  正月は冥途めいどの旅の一里塚いちりづか
     めでたくもありめでたくもなし
 という歌をつくって、おめでたい、おめでたいといっている人をからかった。
 人間は年をとって死ぬのが当然だから、正月は死に一歩ちかづく里程標だというわけだ。
 人間の世界は何ごとにも、喜ぶべきことと、悲しむべきことが、両方ふくまれている。
 どうせ死ねばだれでも無になってしまうのだ。それだからこそ、めでたいほうに賭けるか  べきではないか。正月は、そういう賭けか の季節だ。
 自分は才能があるのかも知れぬ、ないのかも知れぬ。それだったら正月は、才能のあるほうに賭けるか  ときだ。
 去年、仲たがいした友人があるとしよう。人間は一〇〇パーセント意地悪ということはない。意地悪をしたとしても、その人間のなかにある善良なものが、ゼロになったということではなかろう。そうなら、仲たがいした相手のなかの善良なものに賭けるか  べきだ。
 去年は、何かで親と争って、親をばかにしている人があるとしよう。いちど、ぐあいがわるくなると、親子のあいだは、非常にばつのわるいものだ。わるうございましたなどとあやまるのは、最高にてれくさい。だが、正月は、親も子も、去年のことを忘れるほうに賭けか ていいときなのだ。
 正月は人間のつくりあげたフィクションであることは、まちがいない。
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 だが、そのフィクションによって、いいこともするが、わるいこともする人間、つよいときもあるが、よわくもなる人間が、世界中一ぺんに軌道きどう修正をするというのだったら、正月というフィクションも、人間の知恵ちえといっていいではないか。

『人生ってなんだろ』(松田道雄みちお)より
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a 長文 2.2週 yube2
内村鑑三かんぞうのこと

 君は内村鑑三かんぞうという人を知っているかい。
「少年よ、大志をいだけ」
 といったクラーク先生の開拓かいたく精神を校風とする札幌さっぽろ農学校(今の北大の前身)の第二回卒業生だ。のちアメリカにわたって、キリスト教を勉強し、日本にかえり、どの教会にもぞくしないキリスト教をひろめた。学者でもあり、文学者でもあった。
 アメリカでは、精はく施設しせつの看護人もしたくらいで、生活は楽でなかった。
 あるとき、いよいよ金にこまって、以前に、こまったときは来なさいといってくれた米人のことを思いだし、雪の降る夜、ぬかるみに足をとられながら、たずねていった。
 その家のまえまできて、その人のいる書斎しょさいの窓の灯をみつめて、かれはかんがえた。
 待てよ、もし、ここで金をめぐんでもらったら、日本へかえってキリスト教をひろめるとき、
「あの福音には金のにおいがするぞ」
 といわれるだろう。
 信仰しんこうを生活のたよりにしてはならない。そう思ったかれは、むしろ飢えう をがまんしたほうがいいと、きびすをめぐらして、雪の道をひきかえした。
 かれ選択せんたくは正しかった。日本にかえってから、かれの人間としての清潔さが、おおくの人の信用をえて、たくさんの信者がかれのまわりにあつまった。
 日戦争のとき、内村鑑三かんぞうは平和主義の立場から非戦論をとなえて、戦争に反対した。反戦牧師だったわけだ。そのころ、国民のほとんどが軍国主義者だったから、戦争に反対するのは、たいへんなことだった。けれどもかれは平和主義をまもりとおした。
 自分の信念をまもろうとしたら、かんたんに人から援助えんじょをうけてはいけない。
 人間が人間を信じるのは、そのいっていることが本心からでているときだけだ。
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 どんなに、りっぱなことをいっても、どんなにえらそうな口をきいても、それが本人の心の底からの声でなく、他人から金をもらったり、いい役につけてもらったりしているからだったら、信用してもらえない。世間から提灯持ちだとか、「男めかけ」だとか、いわれるだろう。
 人間は、自主独立ということが、いちばん大切だ。

『人生ってなんだろ』(松田道雄みちお)より
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a 長文 2.3週 yube2
尊敬する人物

 君はいままでに、
「あなたはどんな人物を尊敬していますか」
 などという質問をうけたことはないか。
 私は小学校や中学校のとき、よくそういう質問をだされた。そして、いつもこまったことをおぼえている。尊敬するということが、あまりはっきりしたことばでないからだ。
 ところが、先生のほうは、この生徒はどういう人物になりたがっているかが、それでわかるように思っているらしかった。
 えらいなあと思うことと、そういう人に自分もなりたいと思うこととは別だ。
 野口英世がよく勉強したことは、えらいにはちがいないが、自分も野口英世みたいにがんばって勉強できるかどうかわからない。また、勉強したとしても、おなじように有名になるとは思えない。
 野口英世の伝記を読んで感心したことは、野口英世を尊敬することではない。伝記をかいた人が、読者を感動させるように、うまく書いたこともあるからだ。
 それでも「わが尊敬する人物」を中学生にかかせた統計は、いまでもある。たいてい、きまっている。トップは、男の子は、むかしはリンカーンだったのが、いまはケネディだ。女の子は、ヘレン・ケラーかナイチンゲールだ。
 生徒のほうで先生の読心術をやって、こうかいておけば、先生は安心するだろうと思って、あんなふうに書くのだろう。
 人間は、めいめいが天分をもち、それを生かして生きるしかないのだから、他人の天分にそんなに感心することはない。だから、尊敬する人物はいなくてもいいが、理解する人物はいないといけない。
 まず第一に、自分の両親を理解することだ。
 人間を理解するのは、やさしいようで、むずかしい。有名な哲学てつがく者のへーゲル(一七七〇〜一八三一)は「従者にとって英雄えいゆうはない」といったが、どんなえらい人物もその日常に密着してみていたら、ふつうの人間とかわらないという意味だ。
 あまり近くにいると、その人物のいいところがわからない点で、親子は損だ。
 人間は、欠点をもちながらも、けっこうたのしく、平和に生きていけるものだ。それがわからないと、人間を理解できぬことを忘れてはならぬ。
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『人生ってなんだろ』(松田道雄みちお)より
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a 長文 2.4週 yube2
 言葉というものは、具体から抽象ちゅうしょうへと発達するものだと私はいったが、それはそのまま思考の成長の過程でもある。その成長過程は言葉や思考の「乳離れちばな 」といってもいい。
 そもそも言葉とは命名から出発した。子供が生まれると名前をつけるように、人間は自分とかかわりのあるものに片っ端かた ぱしから名を与えあた 、こうして言葉はつぎつぎにふえていった。したがって、当初、言葉はかならず現実の具体的な事物に対応していた。けれども、もし言葉がそれをあらわす現実の個々の事物と一対一の対応関係をつづけていったなら、言葉は無限にふえつづけねばならない。ひとたび、そうした一般いっぱん化に気付けば、言葉はすくすくと成長する。一般いっぱん化したものをさらにまとめて一般いっぱん化し、それをもっと広い類概念るいがいねんにくくってゆくというふうに。そして、この一般いっぱん化によって言葉も思考もものばなれし、現実の個々の事物から独立して、言葉独自の世界をつくりだすことに成功したのである。
 具体的な動作、あるいは事物の状況じょうきょうや性格についても同様であった。たとえば、考えるという動詞は「考え」という名詞に抽象ちゅうしょうされることで実際の動作から離れはな てひとつの概念がいねんになり、美しいという性状は「美しさ」というふうに一般いっぱん化されることによって具体的な対象から抜けぬ だして独立の観念へと成長した。「考える」から「考え」への変質は、言葉のうえではきわめてかんたんのように思えるであろう。「美しい」から「美しさ」への一歩前進はいとも容易にみえるかもしれない。けれども、その一歩こそ、千鈞せんきんの重みを持っていたのである。それは新しい概念がいねん獲得かくとくであり、高度な観念の誕生であった。
 どのような民族にあっても、言葉はこのような形で育ち、思考はそれとともに発展した。つかむという動作はドイツ語でベグライフェンbegreifenという。何か物をつかむというその具体的な動作から、やがてベグリフBegriffという抽象ちゅうしょう名詞が生まれた。ベグリフというのは「概念がいねん」のことであり、つまり、手で物をつかむように、頭で事物をつかむ、それこそが「概念がいねん」なのである。
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 もしわが国が他国の言葉の影響えいきょうをこうむることなく、日本語を独自に育てあげることができたとしたならば、日本語にはもっとやさしい形で多くの抽象ちゅうしょう名詞がつくりだされたことであろう。つかむという動詞は手づかみなどというように、つかみという名詞を生みだし、それがドイツ語の場合とおなじように「概念がいねん」という抽象ちゅうしょう名詞になったかもしれない。ところが、幸か不幸か、日本語はいわば初期の発展段階で、いってみれば幼児期に、すでに高度な文化を持っていた中国語に深く影響えいきょうされた。それは日本語もまだ充分じゅうぶんに使いこなせない幼稚園ようちえんの段階で、いきなりむずかしい外国語を教えこまれたようなものである。中国から文物を受け入れた奈良なら時代の日本人が、漢語をどのように扱っあつか てよいのか、それにどんな和語をあてはめたらいいのか、途方とほうにくれたであろうことは察するに難くない。
 おなじとまどいは明治になって西欧せいおうの文化を輸入したときの日本人の対応においても見られる。英語やドイツ語やフランス語を明治の知識人たちは漢字の造語力を利用して苦心惨憺さんたんのすえ独特の和製漢語におきかえた。そして、第二次世界大戦後、日本人は三たびおびただしい外国語の海にただよう破目になった。この国を浸しひた たアメリカ語の氾濫はんらんである。しかし、このときには日本人はもはや漢字の造語力によってそれを和製漢語に置きかえる努力を払わはら なかった。アメリカ語をそのままカタカナに表記してすませたのだ。その結果、日本語はおびただしいカタカナ語をかかえこむことになった。このようにして、日本語は、三たびにわたる外国語の流入のなかで悪戦苦闘あくせんくとうしてきたのである。

(森本哲郎てつろうの文章による)
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a 長文 3.1週 yube2
規格はずれ

 君は電機メーカーの工場の流れ作業をみたことがあるかい。
 ベルトの上に部分品がのっかってはこばれてくる。ベルトのまえにすわっている人が、そこから部分品をとって、組み立てている電気器具にはめこんでいく。
 部分品は、寸法がきちっと統一されていて、組み立てている器具の、きめられた部分にぴったりあう。
 こういうふうに、部分品の規格が統一されているので、大量生産ができるのだ。
 君の学校にも、いろいろ規則があるだろう。学校のどこそこの場所には勝手に立ち入ってはいけないとか、服装は、こういうのに違反いはんしてはならないとか、いろんなきまりがあるだろう。
 何百人もの生徒を、毎年、きまった日に卒業させようと思うと、そういう規格の統一が必要になるのだ。
 しかし、それは、学校という限られた場所で、何百人もの卒業生を、きまった年限でつくりだす必要上できている約束だ。
 人間は鋼鉄製の部分品でないから、そうきちっと寸法がきまらない。あっちがとびだしたり、こっちがへこんだりする。
 じっさい社会にでてから役に立つのは、その人間に特有なとびだしたところだの、へこんだところなのである。
 学校を卒業して社会にでてくる人間が、どれもこれも、寸法がおなじ規格品だったら、社会はぜんぜんおもしろくなくなる。
 テレビのコマーシャルでもいろいろちがうからおもしろいんで、あれがすべて、君のんでますか、君つかってますか、と商品をつきだされるんだったら、やりきれない。
 それだから、君が学校できめられた規格にあわないところがあっても、気にしないことだ。
 学校の図書室に大人物の伝記があるだろう。読んでみたまえ、みんな規格はずれだ。
 だが、伝記をかく人間は、中学の図書室にならべてもらいたいので、規格はずれではあるが、いまの学校の規格にあうようなところに力をいれてかいている。
 だから、どうも自分は規格はずれだと思っているんだったら、学校の図書室にない、かわった人物の伝記も読んでみるんだな。
 規格からはずれるのは、人間としてのエネルギーのあふれている人におおい。

『人生ってなんだろ』(松田道雄みちお)より
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a 長文 3.2週 yube2
伝統について

 君は伝統ということばをきかされたことがあるだろう。とくにスポーツの部員になっている人は、
「わが○×中学の野球部の伝統をけがしてはいけない」
 などと先輩せんぱいからいわれただろう。
 以前から代々うけついできた生活の様式とか、芸術の手法とか、ものの考え方とかを伝統というのだが、先輩せんぱいがハッパをかけるときにいう伝統は、まえの人がやってきた、名誉めいよになることを意味していた。
 いいことばかりを、その気になってうけついできたものが、目のまえにあるような感じで、先輩せんぱいはハッパをかける。
 私も中学のとき、テニス部の部員として先輩せんぱいから、また野球の応援おうえん団として応援おうえん団長から、伝統ということばを、そういう意味でなんどもきかされた。
 だが年をとって、家のなかにひっこんで、つきあいらしいつきあいもなしに暮らしていると、伝統ということばの感じがちがってきた。
 伝統をなにかいいもの、その気になってうけつがないといけないもののようにいうのは特別な集団に他人をしばりつけようとする有力者の手だてなのだ。
 野球部の先輩せんぱいは、自分がコーチをしている野球部から選手がにげださないように、伝統をもちだしてくるのだ。
 うっかりさそわれてスポーツの部員になったが、やってみると、からだはつかれる、好きな本はよめない、いつも監視かんしされる、これではたまらない、もっと自由に生きたいと思う人だってある。そういう人が、自分が野球部にはいっていることにはたして意味があるだろうかと疑うことは、わるいことではない。
 それにたいして伝統をもちだす先輩せんぱいは、野球部の伝統は、いいもの、名誉めいよあるもので、自分個人をかんがえることは、わるいもの、不名誉ふめいよなものという調子でたたみかける。
 先輩せんぱいが伝統をふりまわすのは、かれのほうが有力者だからだ。
 集団にはたいてい有力者がいて、そういうことをする。
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 集団からはなれて、自由に暮らしていると有力者にであわない。もう伝統をまもれとは、いわれない。そうなると伝統は、いいものばかりでないことがわかってくる。すすんでまもるべきものどころか、いやでもしばられる、へんなものだっておおい。

『人生ってなんだろ』(松田道雄みちお)より
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a 長文 3.3週 yube2
整とんということ

 身のまわりをきちんと片づけておくことを整とんという。小学校、中学校と、ずいぶんやかましく整とんをするようにいわれた。
 いちばんやかましくいわれたのは、兵隊にとられて、兵舎で生活したときだ。
 軍隊では、兵隊は所持品の数がきまっていた。全部「官給品」といって、一時貸してもらってつかうのだ。シャツが二枚、ズボン下が二本、クツ下が三組というように、だれにもおなじ数だ。
 それを、寝るね ときにはたなの上の物入れのどこに、どんなふうにたたんで入れるかが、ちゃんときまっていた。
 兵舎の中を、週番士官がみてまわるから、練兵場に訓練にいったるすに、整とんがわるいと、あとでひどくしかられた。
 寝るね まえも、朝起きたときも、整とんをしらべられた。
 そんなにやかましく整とんをしつけられたのだから、さだめし整とんをうまくやっているだろうと思うかもしれないが、まったく逆だ。
 私の、本をよんだり、ものをかいたりする部屋はいつもちらかっている。二か月に一度ぐらい大整理をやるが、すぐちらかってしまう。
 自分の部屋で、自分の好きなことをすると、整とんはできないのだと思うようになった。
 会社とか学校とか、よその建物をかりて、みんなで使っているときは、整とんも必要だろうが、自分の部屋は、自分のはたらきいいようにしておけばよい。
 本だって、いちいちしまいこんでおいては、すぐによめない。自分以外の人がみれば乱雑かもしれないが、自分では、何がどこにおいてあるか、ちゃんとおぼえている。うっかり整とんされてしまうと、てんてこまいしなければならない。
 いろんなものが、自分の行動にしたがって、あちこち自然に配置されていることが、自分の部屋にいるという安定感をあたえる。
 もっとも、性分ということもあって、使ったら何でも、もとのところにかえさないと気がすまない人もある。だが、そんなのは少数派だ。
 人間は、自分の部屋で仕事をすればするほどちらかるのだ。だから、中学生や小学生が、
「せっかく勉強室をたててやったのに、整とんがわるい」
 といわれるのをきくと、まったく同情する。
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『人生ってなんだろ』(松田道雄みちお)より
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 祝う言葉という依頼いらいなのだが、いきなり「バンザイ」とくると下品だろうか。たしかに最近では、選挙に勝った場面とか、とにかく多勢で酔っぱらっよ    て両手をあげている姿しか浮かばう  ない。
 しかしこれはもともと中国の正月の習慣で、五岳ごがく(注・中国で古来から崇拝すうはいされている五つの名山)の一つである泰山たいざん皇帝こうていが登り、「万歳
 すなわち悠久ゆうきゅうの平和を祈るいの 儀式ぎしきに由来している。今の平和に感謝しつつ、それが一万年も続きますようにという祈りいの の言葉なのである。 ところで私が祝いの言葉として「バンザイ」を挙げたのは、これが心底思いを込めこ て使われた場面に接したからである。
 気仙沼けせんぬまのお寺の和尚おしょうが住職になる儀式ぎしきだったが、修行時代の師匠ししょうである老師が本山から招かれ、「祝辞」という段になった。その際、老師はしばし沈黙ちんもくし、ぴったりとくちびるを閉じて虚空こくうをにらみ、それから大声で「バンザーイ」と大声をあげた。それだけである。
 長々とした祝辞が多いなかで、それは鮮やかあざ  な場面として今も脳裏によみがえる。伝わるものは言葉にしなくても伝わる。いや、へたに言葉にする以上のものが伝わることがある。何人かの涙ぐむなみだ  人々を見ながら、私はそう思ったものだった。
 しかしこれは極めてまれな例である。おそらく何度か見てしまえば、感慨かんがい薄れるうす  のかもしれない。通常は、祝う心を丁寧ていねいに表現しないとそれは伝わらないし、それどころか、表現することで無意識だった気持ちまで引きだされたりもする。
 「愛でたい」という気持ちを、わざわざ言葉に出して表現することを、日本では古来「ことほぐ(言祝ぐ)」と言う。寿ことぶき」は、その名詞形である「ことほぎ」がさらに訛っなま たものだ。
 ぜんではこの「言祝ぎ」が重視される。なによりもまず自分の生まれた場所や親は選べなかったわけだから、そこから言祝いでしまうのである。この町に生まれて佳かっよ  た。この両親のもとに生まれて佳かっよ  た、そこから始まって「今日は佳いよ 台風だ」「今の私は素敵な年齢ねんれいだ」「歯が痛いのもしみじみして味わい深い」などと、自
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分の立っている足許の状況じょうきょうをすべて肯定こうていしていくのである。
 むろん文句をいえば状況じょうきょうが変わるというなら、言ったらいい。しかし大抵たいてい状況じょうきょうは、文句を言うと更にさら その不満が強く意識されるだけで、あまり意味がない。だから言っても仕方がない文句は言わず、言祝ぐことで「今」を安定させる。それがぜん的な意味での「足るを知る」ということだ。

(中略)

 バンザイと叫んさけ だところで、その事態が「万歳」続くとはだれも思っちゃいない。しかし志さえ揺らがゆ  なければ、人生はさまざまな「ゆらぎ」さえ風流と味わえる。その人間の知恵ちえに、私はバンザイを言いたいのである。

玄侑げんゆう 宗久そうきゅう釈迦しゃかに説法』による)
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