長文集  2月4週  ○言葉というものは  yube2-02-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2010/10/20 15:33:10
 【1】言葉というものは、具体から抽象へ
と発達するものだと私はいったが、それはそ
のまま思考の成長の過程でもある。その成長
過程は言葉や思考の「乳離れ」といってもい
い。
 そもそも言葉とは命名から出発した。【2
】子供が生まれると名前をつけるように、人
間は自分とかかわりのあるものに片っ端から
名を与え、こうして言葉はつぎつぎにふえて
いった。したがって、当初、言葉はかならず
現実の具体的な事物に対応していた。【3】
けれども、もし言葉がそれをあらわす現実の
個々の事物と一対一の対応関係をつづけてい
ったなら、言葉は無限にふえつづけねばなら
ない。ひとたび、そうした一般化に気付けば
、言葉はすくすくと成長する。【4】一般化
したものをさらにまとめて一般化し、それを
もっと広い類概念にくくってゆくというふう
に。そして、この一般化によって言葉も思考
ももの離(ばな)れし、現実の個々の事物か
ら独立して、言葉独自の世界をつくりだすこ
とに成功したのであ る。
 【5】具体的な動作、あるいは事物の状況
や性格についても同様であった。たとえば、
考えるという動詞は「考え」という名詞に抽
象されることで実際の動作から離れてひとつ
の概念になり、美しいという性状は「美しさ
」というふうに一般化されることによって具
体的な対象から抜けだして独立の観念へと成
長した。【6】「考える」から「考え」への
変質は、言葉のうえではきわめてかんたんの
ように思えるであろう。「美しい」から「美
しさ」への一歩前進はいとも容易にみえるか
もしれない。けれども、その一歩こそ、千鈞
の重みを持っていたのである。【7】それは
新しい概念の獲得であり、高度な観念の誕生
であった。
 どのような民族にあっても、言葉はこのよ
うな形で育ち、思考はそれとともに発展した
。つかむという動作はドイツ語でベグライフ
ェンbegreifenという。【8】何か
物をつかむというその具体的な動作から、や
がてベグリフBegriffという抽象名詞
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が生まれた。ベグリフというのは「概念」の
ことであり、つまり、手で物をつかむように
、頭で事物をつかむ、それこそが「概念」な
のである。∵
 【9】もしわが国が他国の言葉の影響をこ
うむることなく、日本語を独自に育てあげる
ことができたとしたならば、日本語にはもっ
とやさしい形で多くの抽象名詞がつくりださ
れたことであろう。【0】つかむという動詞
は手づかみなどというように、つかみという
名詞を生みだし、それがドイツ語の場合とお
なじように「概念」という抽象名詞になった
かもしれない。ところが、幸か不幸か、日本
語はいわば初期の発展段階で、いってみれば
幼児期に、すでに高度な文化を持っていた中
国語に深く影響された。それは日本語もまだ
充分に使いこなせない幼稚園の段階で、いき
なりむずかしい外国語を教えこまれたような
ものである。中国から文物を受け入れた奈良
時代の日本人が、漢語をどのように扱ってよ
いのか、それにどんな和語をあてはめたらい
いのか、途方にくれたであろうことは察する
に難くない。
 おなじとまどいは明治になって西欧の文化
を輸入したときの日本人の対応においても見
られる。英語やドイツ語やフランス語を明治
の知識人たちは漢字の造語力を利用して苦心
惨憺のすえ独特の和製漢語におきかえた。そ
して、第二次世界大戦後、日本人は三たびお
びただしい外国語の海にただよう破目になっ
た。この国を浸したアメリカ語の氾濫である
。しかし、このときには日本人はもはや漢字
の造語力によってそれを和製漢語に置きかえ
る努力を払わなかっ た。アメリカ語をその
ままカタカナに表記してすませたのだ。その
結果、日本語はおびただしいカタカナ語をか
かえこむことになっ た。このようにして、
日本語は、三たびにわたる外国語の流入のな
かで悪戦苦闘してきたのである。

(森本哲郎の文章による)