ベニバナ の山 3 月 3 週
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○自由な題名
○この一年、新しい学年

○”Hello.” 英文のみのページ(翻訳用)
”Hello.” ”How are you?” ”Good morning.” ”Have you eaten yet?” ”Where are you going?” These are greetings which people use in different languages when they meet each other. But what is a greeting?
A greeting is a way of being friendly to someone. It is a way of being polite. It is also a way of starting a conversation. In many languages a question is used as a greeting: ”Where are you going?” ”How's everything?” But questions like these are not real questions. They do not require a full reply or even a true one. In English, for example, the most common greeting is a question about a person's health: ”How are you?” But we do not expect them to tell us about their health when they reply. We do not expect them to talk about their headache or their backache, if they have one. People reply to these questions with a fixed expression such as ”I'm fine, thanks” or ”OK, thanks.” In the same way, in countries where people greet each other with ”Where are you going?”, a simple reply such as ”Just walking around” is enough. It is not necessary to describe where you are actually going.
In most languages, a greeting is usually followed by ”small talk”. Small talk means the little things we talk about at the start of a conversation. In English-speaking countries people often make small talk about the weather: ”Nice day, isn't it?” ”I'm afraid it's going to rain.” But there is something special about small talk. It must be about something which both people have the same opinion about. The purpose of small talk is to let both people agree on something. This makes meeting people easier and more comfortable. People usually agree about the weather, so it is a safe topic for small talk. But people often disagree about religion or politics so these are not suitable topics for small talk in English. The topics for small talk also depend on where the conversation is taking place. At football games, people make small talk about the game they are watching: ”Great game, isn't it?” At bus-stops, people may comment about the bus service' ”The buses are very slow these days, aren't they?”
Greetings and small talk are an important part of conversation in any language. The way people greet each other and the things they talk about, however, may be different from one language to another. This shows that there is much more to be aware of when we learn a language than just the vocabulary and the grammar of the language. We also have to learn the social behavior of the people who speak it.

★妖怪の中に「もののけ」という(感)
 【1】妖怪の中に「もののけ」という種類があって、これは「もの」につく。一般には、「ものの毛」と書いて、これは「もの」に生える「毛」のことであろうと考えられているようであるが、そうではない。「ものの気」と書いて、これは「もの」が漂わせているかに見える「気配」のことである。
 【2】つまりこれは、「もの」についてそれが「もの」であることを、次第に歪曲もしくは変質させてゆくわけであり、それが我々には、どことなく得体の知れない「気配」を漂わせているように見えるのであるが、ここで言う「もったい」も、そうした「もののけ」の亜種にほかならない。【3】そしてそれがつくと、我々はその「もの」を、むしょうに捨てたくなる。
 従って逆に、それのついていないものを見ると、むしょうに拾いたくなる。【4】つまり、「もったいない」のである。我々は、定期的にごみ捨て場をうろつき、「もったいない」とつぶやきながらあれこれと拾い集める連中を見て、「あれはきっと、それらのものが拾ってくれ拾ってくれと、連中をそそのかすからに違いない」と考えるが、実はそうではない。【5】「もの」に「もったい」という「もののけ」がついている時、その「もの」が我々に「捨てろ捨てろ」とそそのかすのであり、「もったいない」と言って拾うのは、単にその反動にすぎないのである。(中略)
 【6】ところで、人類史をひもとくまでもなく我々は、かつて「狩猟採集時代」というものを経験し、今また「消費遺棄時代」というものを迎えつつあることを、よく知っている。つまり、その生活の主たる様態を、「拾う」ことから「捨てる」ことへ、大きく転換させつつあるのだ。【7】妖怪もったいは太古より存在し、それが「もの」についたり離れたりすることにより、人々にそれを捨てさせたり拾わせたりする法則性は、何ら変化していないにもかかわらず、こうした転換が行なわれたということは、明らかに奇妙なことと言えよう。
 【8】現在、もったい専門の妖怪学者が問題としているのは、この点にほかならない。言うまでもなく、考えられることはひとつである。つまり「狩猟採集時代」から「消費遺棄時代」に至る期間∵の、どこかの時点で文明が、もったいを人為的に操作しはじめたのだ。【9】文明がもったいという妖怪の存在に気づき、それをひそかに養い育て、「もの」に自由につけたり離したりすることができれば、人々に「もの」を、これまた自由に捨てさせたり拾わせたりすることができるようになるのは、道理である。
 【0】もちろん文明が、人々に「もの」を捨てさせなければならなくなった理由は、誰もが知っている。あらためてここで歴史の復習をする余裕はないが、この間に人類は「産業革命」を経て「大量生産時代」を迎えたのであり、当然ながらその大量に生産された「もの」は、大量に消費されなければならなくなったのである。しかし、生産力というものはやみくもに向上させることができるが、消費の方はそうはいかない。そこで、どうするべきか。
 当たり前の文明ならここで消費に見合うべく生産力の方を抑えるであろう。ところが、我々の文明はそうしなかった。生産力を抑えるどころか、それをさらに向上させ、我々の消費の手に余る分を、そのまま捨てさせることにしたのである。このあたりが、我々の文明の、天才的なところと言えよう。そしてそのためにも、妖怪もったいが駆り出されるハメになったのだ。
 前述したように、「もの」に「もったい」がつくと、我々はそれをまだ消費しつくしてないにもかかわらず、むしょうに捨てたくなる。文明は――というより、現在それをしているのは流通経済の中枢を支える専門家たちであるが――ひそかにこの操作をしている。つまりこれを、専門用語で「もったいをつける」と言う。「もったい」がつくと、何となくその「もの」が、「重く」感じられたり、「わずらわしく」感じられたり、「うっとうしく」感じられたりするのである。
 もちろん、こうした専門家たちだって馬鹿ではないから、商店へ並べられた商品に「もったい」をつけるようなことはしない。そんなことをすれば我々は、消費はおろか、「購入する」ことをすらしなくなる。商品の流通が円滑に行なわれるためには、我々がそれを買って帰り、包装紙を開いたとたん、それがつくようにしなければならない。ということから考えれば、シャーロック・ホームズを∵一冊でも読んだことのあるものには、どこにカラクリがあるか、すでに推理できたことであろう。そうなのだ。包装紙である。化粧箱である。そして、それを結ぶリボンである。そこにもったいが仕掛けられ、それらを解き放ったとたん、それは中の商品につくことになっているのである。包装紙や、化粧箱やリボンを、もったいないと言ってしまっておきたくなるのは、そこにそれまでついていたもったいが、中の商品に移り住んでいるからにほかならない。
 かくて、流通経済は円滑に機能し、生活は潤い、我々は満足している。「もったい」である。妖怪もったいの養育と、専門家たちによるその見事な操作によって我々は「捨てるために手に入れる」という、生物学的には希有(けう)の性向を身につけ、「消費を上回る生産」という、あり得べからざる事態を楽々とこなしているのだ。

(別役実『当世もののけ生態学』より)