ユーカリ2 の山 11 月 4 週
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◎自由な題名

★清書(せいしょ)

○地球上に未踏の地が(感)
 【1】地球上に未踏の地がなくなったといわれて久しい。地図をひらくと、すべての土地は線によって区切られ、あらゆる場所に名前が記載されている。大陸があり、国があり、街があり、村がある。その外も内も、まるで既知の存在であるかのようにふるまわれている。【2】衛星写真によって世界の隅々まで見渡せるようになった現在、未知の場所はどこにもないのだろうか。
 ぼくはこれまで北極や南極、チョモランマといったいわゆる「辺境」を多く歩いてきた。【3】近年は特に地球温暖化の影響が著しい極北を中心に、アラスカやグリーンランドの小村を訪ね歩いている。果てしない氷海の上をひたすらスキーで歩いていてホッキョクギツネやシロクマの足跡に出会うと、生き物の痕跡にほっとする。【4】目もあけられない吹雪の中、小高い丘の雪面を歩くカリブーのシルエットが視界に浮かび上がったとき、わけもなく涙が出そうになった。後ろを振り返ると氷の水平線がどこまでも続いており、いま自分がここにいることが奇跡のように思われた。
 【5】北極というと厳しい荒野(こうや)が広がっている印象があるかもしれないが、都市に住む人々が辺境だと思っている場所にも動物や人間の営みは細々と、しかし脈々と受け継がれている。彼(か)の地に暮らす人々にとってみれば、辺境など存在せず、生きている人の数だけ「中心」があるということにほかならない。
 【6】どんな場所のことも瞬時にいろいろ調べられるようになった現代において、一般的な観光旅行は、ガイドブックなどに紹介された場所をなぞる行為になっている。そこには実際に見たり触れたりする喜びはあるだろうが、あらかじめ知り得ていた情報を大きく逸脱することはない。
 【7】一方、そうした旅行から離れて、旅を続ける人がいることも事実である。ここでいう「旅」とは、決められたスケジュール通りに地名から地名へと移動することではなく、精神的な営みをも含んでいる。
 【8】北極であろうがヒマラヤであろうが、そこへ行って何を体験するかが重要なのではない。大切なのは心を揺さぶる何かに向かいあ∵っているか否かということではないだろうか。
 【9】例えば人を好きになること、新しい仕事を始めること、一つの研究に没頭すること、生まれ育った土地を離れること、結婚したり子育てをしたりすること、そうした営みはすべて旅の一部なのだ。多かれ少なかれ人はこうした旅を経験し、いま生きているという冒険の途上にあるといえる。
 【0】「自分探しの旅」という言葉を耳にするたびに、ぼくはむずがゆいような違和感を覚える。人はいつでも「世界と共にある」のに、この場合の目的地は外界ではなく、自分の内面へと向かっているからだ。本来の旅とは自分を変えるために行うものでも癒しのために行うものでもなく、自己と世界との関係を確かめ、身体を通して自分が生きている世界について知る方法ではなかったか。
 ナショナルな枠組みや、言語、性など、旅の中で人は自分に付いてまわるあらゆるものを意識させられる。何にもとらわれない個としての自分という存在がありえないと認識する一方で、しかしすべてを抱え込みながら「一人のわたし」として生きていけるかもしれないということを、ぼくは世界を旅する中で強く感じてきた。
 世界は自分との関係の中で存在し、自分は世界との関係の中で生きている。大切な人のことを思い、今まで過ごしてきた時間について繰り返し問い続けながら、世界と共にあること。地理的な未踏の地がなくなったとしても、自己と世界とのかかわりの中で「一人のわたし」はさまざまな境界線を飛び越え、無数の未知を発見する旅にでることはできる。旅のフィールドは、ここやあそこではなく、目の前に、今ここにあるのだ。

 (石川直樹の文章による)