ユーカリ2 の山 10 月 4 週
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◎自由な題名

★清書(せいしょ)

○戦後の日本人に(感)
 【1】戦後の日本人に大いなる勇気を与えた出来事の一つとして、一九四九年に湯川秀樹博士に届いたノーベル物理学賞受賞の知らせが挙げられる。敗戦の精神的痛手から立ち直ろうと苦闘していた当時の日本人にとって、日本人初の栄誉の知らせは、大いに自信を与え、勇気づけられるニュースであったと伝え聞く。
 【2】それまで、物質を構成する最小単位である素粒子は永遠不滅のものであると考えられていたが、湯川博士が、寿命を持ち消滅してしまう「中間子」の概念を初めて提出した。【3】有限な命を持つ粒子を考えなければ、物質の相互作用は説明できないというのが彼の理論の核心である。
 湯川博士の業績は、理論物理学におけるそれである。理論物理というと、難解な数学を使うこともあり、きわめて専門的な分野という印象が強い。【4】やはり、若い時に集中的に勉強して、早めに頭角を現さなければどうしようもないというイメージを持つ人が多いだろう。
 しかし、理論物理の天才を育成するためには「鉄は熱いうちに打て」を実行するのがよいかというと、事はそんなに単純ではなさそうだ。
 【5】幼少期から数理系の専門的な訓練をするいわゆる「英才教育」を行った事例がよく知られているが、若くして大学に進むなどの成果はあるものの、その後伸び悩んでしまうことが多い。なぜ、英才教育による「早熟の天才少年・天才少女」はその後、才能を伸ばせないことが多いのか。【6】湯川博士の生涯に、この疑問に対する答えのヒントが隠されているように思う。
 湯川博士のお父さんは本が好きで、蔵書で手狭になる度に「もっと広いところに移らなければダメだ」とばかりに引っ越しを繰り返す、そんな家庭環境だったという。【7】湯川博士も、幼少期から『論語』や『史記』などの中国の古典を徹底的に素読させられた。後年、湯川博士の物理学に留まらない幅広い教養は世間に知られることになるが、その礎は子どもの頃に築かれたのである。
 【8】漢籍の素養は、理論物理学には直接関係ないよう∵に思われるかもしれない。確かに、幅広い教養だけでは、独創性を発揮できない。集中的に理論物理を勉強し、思索するということがなければ、中間子理論もノーベル賞受賞もなかったであろう。
 【9】その一方で、脳の仕組みから考えると、漢文の素読で培われたような総合的知性が、中間子理論の独創につながった可能性は高い。脳の中では、漢籍の教養と数理的な思考をそれぞれ担う部分は完全に独立しているわけではない。【0】全ての要素はお互いにつながり、関係し合っているのである。
 総合的な教養、知性という「裾野」があって、初めて鋭利な専門的能力も立ち上がる。理論物理学をやろうという場合でも、直接の関連性が高い物理や数学の知識だけが必要なのではなく、一見関係がないようにも見える『論語』の素養が役に立つ。だからこそ、人間の知性は奥深く、面白いのである。
 対象となる活動分野が、文学のように、最初から「酸いも甘いも噛み分けた」人生経験を必要とするようなものだったら、総合的知性が作品に反映されるのも当然と思われるかもしれない。総合的知性が必ずしもその業績に直結せず、場合によっては邪魔するかにさえ見える理論物理学のような分野において、様々な素養が役に立つという視点が興味深いのである。
 人間としてのトータルな力がなければ、どんな専門性においても天才という名に相応しい仕事を残すことはできない。どうやら、それが真実であるようである。

 (茂木健一郎「それでも脳はたくらむ」による)