長文 9.2週
1. 【1】クローン羊のドリーが誕生してしまった。これは画期的なことである。一個の受精卵を分割して、本来は一個の個体になるべきところを、一卵性十六児」や一卵性三十二児」を作る要領で作った動物はほかにもあるが、ドリーは違うちが 。【2】ドリーは、体細胞さいぼう起源のクローンであり、乳腺にゅうせん細胞さいぼうという特別な働きをする細胞さいぼうに分化してしまったあとの、おとなの羊の細胞さいぼうから作られたのだ。
2. 【3】このことは、発生学の従来の考え、つまり、いったん成熟して機能分化してしまった細胞さいぼうの遺伝子のスイッチを入れ直してまた始めからやり直させることはできない、という考えを覆すくつがえ ものである。【4】多細胞さいぼう生物のからだのすべての細胞さいぼうには、からだの全部を作る遺伝子が含まふく れているが、細胞さいぼうは、それぞれの機能に応じて、自分の役割に関する部分の遺伝子だけを活性化して使っている。
3. 【5】しかし、そもそもの始まりは卵と精子であり、ここからすべての機能分化した細胞さいぼうが出現してくる。そこで、細胞さいぼう分裂ぶんれつしてぞれぞれの細胞さいぼうができてくるとき、活性化するべき遺伝子だけに次々と時系列にそってスイッチがはいっていって、【6】機能が分化した細胞さいぼうが作られるので、そうやってできあがったものを、また、もとの未分化の状態に戻すもど ことはできないと考えられていたのである。
4. 【7】「たまごっち」という奇妙きみょうなゲームが、一時、非常にはやっていた。これは、プレイヤーが疑似生物に対してさまざまな情報を入力していき、最終産物にまで育てるゲームだそうだが、時系列にそった情報入力がうまくないと、疑似生物がうまく育たない。【8】そこで、どうも具合が悪くなると、「リセット」にして、また育て直すのだそうだ。
5. 現実の子育てには、「リセット」ボタンは存在しない。こんな子に育てるつもりはなかったのにと思っても、時間の経過は一方向だけである、【9】細胞さいぼうの機能分化の過程も、同様に時間的に一方向性だと考えられてきたのが、ドリーの誕生で覆さくつがえ れた。「リセット」は可能だったのである。
6.(中略)
7. 【0】科学という営みは、世界について知りたいという人間の好奇こうき心に基づいている。∵
8. するとここに、好奇こうき心とは別の人間の本性の一つである「欲望」が出てきて、欲望を満たす手段として科学技術が利用される。
9. ところが、この説明の体系は、どういうわけか実世界と本当に対応しているらしく、この説明原理を応用すると、さまざまなものを実際に作り出すことができる。
10. 科学が明らかにするのは、世界はどのように作られているのかという説明の体系である。
11. その結果として出現するのが、科学技術である。
12. 人間が欲望をコントロールするすべをしっかり身につけないかぎり、科学は両刃りょうばつるぎとなる。
13. ミルクが欲しければミルクが異常に出る牛を作るのがよいのか、どうしても子どもが欲しいという個人の欲求の実現は、あくまでも尊重されるべき権利であるのか、生き延びたければヒヒを殺して肝臓かんぞうをとってもよいのか。「それをすることは可能ですよ」とささやくのは科学であるが、「では、やってくれ」と欲するのは人間である。
14. 優しい顔をしたドリーはすくすくと育っているが、彼女かのじょの存在は私たちに難問を突きつけつ   ている。

15.(長谷川眞理子まりこ『科学の目 科学のこころ』による)