1. 【1】人間には、人それぞれの基本的な行動のパターンのようなものがあるようだ。たとえば、何か新しい場面に出合うと、はしゃいでしまって、ついしなくてもよいようなことまでやってしまうとか、逆に、どうしてもひっこみ思案になってしまうとか。【2】しかし、このようなことに気がつくと、あんがいそれは変えられるもので、他人にもあまり気づかれないくらいにはなる。
2. だが、自分もだいぶ変わったかな、などと思っていても、いざという場面──
緊急のときとか思いがけないことが生じたとき──になると、知らぬ間に以前の型にかえってしまう、ということはよくある。【3】それは
突発的に起こり、自分でも気がつかないときさえあるが、
傍らで見ている人には
明瞭に見えるものだ。このような人間の行動の「回帰現象」とでも言えるようなことがあるのを知っておくと、便利であると思われる。
3. 【4】個人の行動の型だけでなく、ある程度は文化的な型もあると思われるが、ここでも同様のことが生じる。たとえば、日本人だと、すぐには自己主張をせずに、全体との関連を考えたり
雰囲気に合わせたりしながら、ゆっくりと間接的に自分の考えを表明してゆくが、
欧米では自分の意見を最初から明確に表現することが期待される。【5】あるいは、日常的な例をあげると、
贈り物をするときでも、日本人は「お気に入らないかと心配しています」というような表現をするが、
欧米だと「お気に入っていただくと
嬉しいです」という表現になる。
4. 【6】こんなことがわかってくると、私などは
欧米に行くと、必要に応じて『スイッチ』の
切り替えをして、ある程度は
欧米式でやってゆくようにしている。【7】しかし、むしろ大切なときとか何か圧力を感じるときなど、知らぬ間にスイッチが
切り替わって「回帰現象」を起こしているのに気づき
愕然とすることがある。【8】このようなことは、相当ベテランの外交官やビジネスマンでも外国人相手の
交渉のときに経験するのではないだろうか。
5. 先日マンスフィールド・センターから招かれて話をしたとき、このような「回帰現象」についても少し
触れようと思った。【9】しかし、それほど
一般的なこととして言えるかどうか心配でもあったの∵で、
栗山駐米大使の
招宴の際に、前
駐日大使のマンスフィールドさんの横に座ったので、以上のことについてどう思われるかを、お聞きしてみた。【0】「それは当然のことです」と
彼は言われ、「私自身も経験しました」と静かにつけ加えられた。
6. それ以上は言わなかったが、この短い言葉のなかにマンスフィールドさんが日米の間の
架け橋として相当に苦労されたことが、私には強く感じられて、さすがは、と感心させられた。おそらく、日本式の考え方や感じ方もよくわかり、ときにはそれに合わせてゆこうとしつつ、知らぬ間に回帰現象を起こしている自分に気づいたり、アメリカ人と同様に話し合えると思っていた日本の外交官が、いざというときにまったく「日本的」に行動するのを見て
驚いたりされたのではなかろうか。
7. 何しろ、この現象は、大切なときに生じる上に、それが生じていることを本人が気がつかない場合があるので、なかなか
厄介なのである。このようなために、取りかえしのつかない失敗が起こることもある。
8. しかし、野球の際の投手のけん制球が、不用意に
盗塁されるのを防ぐように、自分の心のなかで、「回帰現象に注意」というけん制球を投げていると、これもだいぶ防げるようである。あるいは、回帰現象を起こしても、自分で気づいて、それについて相手に説明して
了解してもらったり、自分の姿勢を立て直すなりすることによって、決定的な失敗を
免れることができるようにも思う。スポーツと同様、人間関係も訓練によって少しずつ上達するようである。
9.(河合
隼雄「おはなしおはなし」より)