長文集  8月4週  ○「楽」という漢字には  yabi2-08-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2010/06/14 18:50:59
 【1】「楽」という漢字には大きくいって
ふたつの意味がある。ひとつは楽しいとか快
楽とかの「楽」。もうひとつは便利とか簡単
を意味する「楽」。「楽しいこと」と「楽な
こと」。
 【2】このふたつを混同し、まるで同じこ
とを意味しているかのように思いこむのは危
険なことだ。少し考えればわかるように、楽
なことが楽しいとは限らない。便利で楽なこ
とがかえってぼくたちの楽しさをうばってし
まうこともある。【3】そして、楽しいこと
が、難しかったり、複雑だったり、面倒だっ
たり、時間がかかったりすることはよくある
。そればかりか、難しくて、複雑で、面倒 
で、時間がかかるからこそ、楽しい、という
ことも珍しくない。
 【4】だから、ぼくたちはやっぱり、「楽
しいこと」を「楽なこと」から区別しておい
たほうがいい。ファストな「楽」を手に入れ
るために、スローな楽しさや気持ちよさを犠
牲にしないようにしよう。【5】そう考える
のがアウトドアという遊びだ。それは、楽で
便利なことのかわりに不便で時間のかかるス
ローな楽しさをぼくたちに与えてくれる。
 アニメ映画の宮崎駿(はやお)監督がどこ
かで言っていたことを思い出す。【6】元気
のない今の幼い子どもたちに元気を出しても
らうためには、まず保育園や幼稚園の庭をデ
コボコにするのがい い、と。実際にそうし
た保育園があって、子どもが確かに生き生き
と元気にかけ回っているという。【7】しか
しどうやらこれは幼い子どもばかりの問題で
はなさそうだ。つまり、ぼくたちが生きる人
工の世界は、どこもかしこもまっ平らで、ぼ
くたちはみんなデコボコという楽しさをとり
あげられてしまったのではないだろうか。
 【8】デコボコはたしかに不便だし、効率
的ではない。便利さと効率性ばかりを追い求
める経済中心の社会は、デコボコが好きでは
ない。でもデコボコこそ自然界の特徴だとい
える。【9】日本は、二十五倍もの広さをも
つアメリカよりも多くのコンクリートを使っ
て、世界一のペースで自然のデコボコを人工
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
的で平らな平面に変えてきた国だ。【0】単
に一部の人々の経済的な利益のためというだ
けでは説明できない「反デコボコ」や「反自
然」の力が社会全体に強く働いていたとしか
ぼくには思えない。もちろん、それは一方で
経済成長の原動力となったわけだが、もう一
方では、いたるところで自然環境と地域の文
化を破壊して、楽しくない世の中をつくるこ
とにもなった。∵
 そんな世の中にあって、アウトドアの遊び
をとおして、ぼくたちは自然界のデコボコを
――そしてデコボコの世界だけがもつ楽しさ
を――近代的な暮らしの中に呼び戻そうとし
ているのではないだろうか。アウトドアを楽
しむときの大人たちは、「ままごと」をして
いる幼い子供たちにそっくりだ。たき火を囲
んでは、まるで、自分たちも知らない遠い昔
の人々の暮らしをなつかしむかのようでもあ
る。またそれはすっかりよそよそしくなって
しまった自然界との仲なおりのための儀式。
人間の世界だけではなく、自然界を含めた広
い世界の一員としての自分の場所を再発見し
ようとしているようでもある。
 アウトドアという遊びに参加するきみは、
日常の生活の中に流れる時間とはずいぶんち
がう時間の中に入りこむ。食事のしたくをす
るときの時間、たき火を囲む時間、釣り糸の
先の浮きを見つめる時間、カヤックで水をす
べる時間。山の尾根道を歩く時間、テントの
中の時間、星空をあおぎ見る時間。一見、静
かで地味なそれらの時間のそれぞれが、きみ
の「魂」を揺さぶる。
 しかもアウトドアは屋外にだけとどまるも
のではない。きみはあのアウトドアのデコボ
コの世界の断片や、楽しく美しく安らかな時
間の余韻を屋外から自分の家へともち帰るだ
ろう。そしてそれら は、日常の中にまぎれ
こむ。あのデコボコな空間やスローな時間が
流れ込んだきみの毎日の生活はもう、以前と
は同じものではない。忙しさやあわただしさ
の中に戻っても、きみはもう以前とはちがう
きみ。きみはたしかに前より生き生きと輝い
ているだろう。

(辻 信一「『ゆっくり』でいいんだよ」よ
り)