長文集  8月2週  ★私が小学校六年生の時(感)  yabi2-08-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】私が小学校六年生の時だった。ある
日のこと、それまで外側から眺めてだけいた
隣家に入ることができた。隣の大学生のお兄
さんが遊びに来いと言って、私に家の中をく
まなく案内してくれたのである。【2】とこ
ろが、私がいつも自分の家の庭や縁側から仰
ぎ見ていた二階のお兄さんの部屋の窓から、
はじめて自分の家と庭を見下ろした時、私は
その何とも言えぬ不思議な眺めに、思わず声
を立てて笑ってしまったのである。
 【3】私の目の前にある家が、どう見ても
長い間住みなれた自分の家であることは疑い
ないのだが、それでいて、頭の中で私がこれ
こそ自分の家だと熟知している家とは、どこ
からどこまで違うの だ。【4】頭では同じ
家だと分かっていながら、目に見えている家
は、まるでおとぎの国の家のように、はじめ
て見る新鮮さと、ぞくぞくするような未知の
神秘に包まれている。この時の戸惑いと興奮
は、五十年近くたった今でも忘れられない。
 【5】また、私には次のような苦い経験も
ある。小さい時から小鳥が大好きだった私は
、暇さえあれば山野に出かけ、鳥を眺めては
楽しんでいた。【6】日本の小鳥ならば姿は
言うまでもなく、そのさえずりを聞いただけ
でも、たちどころにそれが何鳥であるかを言
い当てられる自信があった。いや、さえずり
どころか、短い地鳴きですら何鳥のものか分
かるとさえ思っていたのである。
 【7】ところが、だいぶ前から日本でも鳥
の声を録音することがはやり出し、やがて国
内の鳥はおろか、外国産の鳥の声まで、NH
Kなどが放送するようにもなってきた。【8
】私はこのような放送をたびたび聞いている
うちに、確信をもって何鳥かを言えないこと
が、ままあることに気づいたのである。それ
も、録音が不自然だとか音質が悪いためでは
ないのだから、がっかりしてしまった。
 【9】自分で野山に出かけた時は、長い経
験と知識で、ある時期に日本のどの辺には、
どのような鳥が見られるかが、私にはよく分
かっている。そのため、鳥の声を聞いた場合
に、私はこの総合的な知識を無意識のうちに
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動員して、いま鳴いた鳥が何であるかの可能
性の範囲を絞ることで、鳥の種類を決めてい
たらしい。
 【0】ところが、他人がとった録音や、放
送される鳥の声の場合には、その鳥が何であ
るかを割り出すのに必要な情報が得られない
ため、可能性の範囲を狭めることができない
。そこで、不意に、解説もなしに声だけを録
音で聞かされると、本当はよく知っているは
ず∵の鳥の声でさえ、自分でもおかしいほど
自信がなくなってしまうのだ。
 私が日本の山野で特定の鳥を声だけで認識
できるということは、実はその声をめぐる多
くの情報の脈絡の中で、対象を相対的に決定
していたのであって、常に声そのものが唯一
無二の決定的な手がかりを含んでいたわけで
はないことを悟らされたのである。
 このような話で私が示したかったことは、
私たち人間の事物や対象の理解や認識という
ものは、意外にもかなり一面的でかたよりの
あるものだということである。自分の住んで
いる家や自分の部屋でさえ、実は極めて限ら
れた角度、視点からだけ私たちはそれを把握
しているのであって、決してすべての点を網
羅的にとらえて理解しているわけではない。
 私たちは、実際問題として、いろいろな生
活上の習慣や、物理的な固定条件のゆえに、
特定の事物や対象についての視点を簡単には
変えられない。そこで、自分が見ていること
、知っている側面だけが、あたかも対象その
ものであると思い込むのである。ただ、何か
の偶然でこの習慣的な接し方がこわされる時
に、はじめて私たちは自分たちの認識の持つ
一面性に気がつくのだ。

(鈴木孝夫「ことばの社会学」から。一部省
略がある)