1. 【1】私たちのごく日常的な経験として、小さい子どもといっしょにいると、子どもの言うことばが非常に詩的に聞こえるという経験をおそらくだれしもが多かれ少なかれしたことがあるのではないでしょうか。【2】たとえば、子どもがサイダーを初めて飲んで、その時の印象を、「水がのどにかみついたよ。」と表現している──私たちが聞くと、何かとても詩的な感じでおもしろい。【3】あるいは、庭に落ちている木の葉が風に
吹かれて
舞っているとき、「木の葉が
踊っているよ。」とか、風が
吹いてきて本のぺージがパラパラとめくれるのを見て、「風が本を読んでいるよ。」というような言い方をする。
2. 【4】子どものことばが詩のことばに似てくることがあるということ──これはいったいどうしたわけなのでしょうか。おそらく、伝統的な説明の仕方ですと、子どもというのは純真ですから、そういう純真な気持ちがたくまずして出てくる、それがそのまま詩になるのである――そういう形で説明するのではないかと思います。【5】これはもちろん、まちがった説明ではありません。しかし、ここでは、その問題を少し
違った方向から──つまりことばの面から考えてみたいのです。
3. 【6】大人の場合ですと日常的な生活に関する限りは、経験の
範囲と、ことばでもって表せる
範囲がだいたい
一致していると考えてよいでしょう。ところが子どもの場合は、その経験の
範囲を表せるだけのことばの力がまだ十分発達していない。【7】その一方では子どもにとっては毎日が新しい経験の連続です。自分がすでに身につけていることばだけではとても新しい経験を十分に表現することができない。そうしますと、どうしてもことばの
枠を破るということが起こるでしょう。【8】子どものことばは常に何かきまった
範囲内だけにとどまっているのではなくて、その
枠を破って広がっていくという
傾向を示すわけです。∵
4. 【9】これはちょうど詩人の場合と同じことになるのではないでしょうか。私たちが、日常的な経験を日常的なことばで表現しているのに対して「詩人」と呼ばれるような人たちは、日常的な経験を
超える経験をもつでしょう。【0】そして、それを表そうとすると、もはや日常のことばの使い方では不十分なはずです。そこで、どうしても、日常のことばの
枠を
超えるということが必要になってくるでしょう。このように考えますと、、詩人の場合と子どもの場合はある意味で非常によく似た
状況にあるということになります。
5. 実用的なことならば日常のことばで足りるわけですから、実用を
超えたことば
遣いをするということは、ある意味で「遊び」であるということになります。しかし、「遊び」というのは考えてみますと、私たちにとっては非常に必要なものでもあります。「遊び」を通じて私たちは日常生活の
惰性を
抜け出して、そこに活性をもたらそうとします。日本では古くから、「遊び」ということばは、しばしば芸術や美といった創造的なものと結びついてきました。たとえば、
管弦を奏でるのも一つの「遊び」でした。そういった意味で、日常の中に
埋没していない子どものことばは、創造面が非常に強く出てくる場であると考えることができるのです。
6.(池上
嘉彦「ふしぎなことば ことばのふしぎ」による。)