長文 8.1週
1. 【1】私たちのごく日常的な経験として、小さい子どもといっしょにいると、子どもの言うことばが非常に詩的に聞こえるという経験をおそらくだれしもが多かれ少なかれしたことがあるのではないでしょうか。【2】たとえば、子どもがサイダーを初めて飲んで、その時の印象を、「水がのどにかみついたよ。」と表現している──私たちが聞くと、何かとても詩的な感じでおもしろい。【3】あるいは、庭に落ちている木の葉が風に吹かふ れて舞っま ているとき、「木の葉が踊っおど ているよ。」とか、風が吹いふ てきて本のぺージがパラパラとめくれるのを見て、「風が本を読んでいるよ。」というような言い方をする。
2. 【4】子どものことばが詩のことばに似てくることがあるということ──これはいったいどうしたわけなのでしょうか。おそらく、伝統的な説明の仕方ですと、子どもというのは純真ですから、そういう純真な気持ちがたくまずして出てくる、それがそのまま詩になるのである――そういう形で説明するのではないかと思います。【5】これはもちろん、まちがった説明ではありません。しかし、ここでは、その問題を少し違っちが た方向から──つまりことばの面から考えてみたいのです。
3. 【6】大人の場合ですと日常的な生活に関する限りは、経験の範囲はんいと、ことばでもって表せる範囲はんいがだいたい一致いっちしていると考えてよいでしょう。ところが子どもの場合は、その経験の範囲はんいを表せるだけのことばの力がまだ十分発達していない。【7】その一方では子どもにとっては毎日が新しい経験の連続です。自分がすでに身につけていることばだけではとても新しい経験を十分に表現することができない。そうしますと、どうしてもことばのわくを破るということが起こるでしょう。【8】子どものことばは常に何かきまった範囲はんい内だけにとどまっているのではなくて、そのわくを破って広がっていくという傾向けいこうを示すわけです。∵
4. 【9】これはちょうど詩人の場合と同じことになるのではないでしょうか。私たちが、日常的な経験を日常的なことばで表現しているのに対して「詩人」と呼ばれるような人たちは、日常的な経験を超えるこ  経験をもつでしょう。【0】そして、それを表そうとすると、もはや日常のことばの使い方では不十分なはずです。そこで、どうしても、日常のことばのわく超えるこ  ということが必要になってくるでしょう。このように考えますと、、詩人の場合と子どもの場合はある意味で非常によく似た状況じょうきょうにあるということになります。
5. 実用的なことならば日常のことばで足りるわけですから、実用を超えこ たことば遣いづか をするということは、ある意味で「遊び」であるということになります。しかし、「遊び」というのは考えてみますと、私たちにとっては非常に必要なものでもあります。「遊び」を通じて私たちは日常生活の惰性だせい抜け出しぬ だ て、そこに活性をもたらそうとします。日本では古くから、「遊び」ということばは、しばしば芸術や美といった創造的なものと結びついてきました。たとえば、管弦かんげんを奏でるのも一つの「遊び」でした。そういった意味で、日常の中に埋没まいぼつしていない子どものことばは、創造面が非常に強く出てくる場であると考えることができるのです。

6.(池上嘉彦よしひこ「ふしぎなことば ことばのふしぎ」による。)