ビワ2 の山 8 月 1 週 (5)
★私たちのごく日常的な経験として(感)   池新  
 【1】私たちのごく日常的な経験として、小さい子どもといっしょにいると、子どもの言うことばが非常に詩的に聞こえるという経験をおそらくだれしもが多かれ少なかれしたことがあるのではないでしょうか。【2】たとえば、子どもがサイダーを初めて飲んで、その時の印象を、「水がのどにかみついたよ。」と表現している──私たちが聞くと、何かとても詩的な感じでおもしろい。【3】あるいは、庭に落ちている木の葉が風に吹かれて舞っているとき、「木の葉が踊っているよ。」とか、風が吹いてきて本のぺージがパラパラとめくれるのを見て、「風が本を読んでいるよ。」というような言い方をする。
 【4】子どものことばが詩のことばに似てくることがあるということ──これはいったいどうしたわけなのでしょうか。おそらく、伝統的な説明の仕方ですと、子どもというのは純真ですから、そういう純真な気持ちがたくまずして出てくる、それがそのまま詩になるのである――そういう形で説明するのではないかと思います。【5】これはもちろん、まちがった説明ではありません。しかし、ここでは、その問題を少し違った方向から──つまりことばの面から考えてみたいのです。
 【6】大人の場合ですと日常的な生活に関する限りは、経験の範囲と、ことばでもって表せる範囲がだいたい一致していると考えてよいでしょう。ところが子どもの場合は、その経験の範囲を表せるだけのことばの力がまだ十分発達していない。【7】その一方では子どもにとっては毎日が新しい経験の連続です。自分がすでに身につけていることばだけではとても新しい経験を十分に表現することができない。そうしますと、どうしてもことばの枠を破るということが起こるでしょう。【8】子どものことばは常に何かきまった範囲内だけにとどまっているのではなくて、その枠を破って広がっていくという傾向を示すわけです。∵
 【9】これはちょうど詩人の場合と同じことになるのではないでしょうか。私たちが、日常的な経験を日常的なことばで表現しているのに対して「詩人」と呼ばれるような人たちは、日常的な経験を超える経験をもつでしょう。【0】そして、それを表そうとすると、もはや日常のことばの使い方では不十分なはずです。そこで、どうしても、日常のことばの枠を超えるということが必要になってくるでしょう。このように考えますと、、詩人の場合と子どもの場合はある意味で非常によく似た状況にあるということになります。
 実用的なことならば日常のことばで足りるわけですから、実用を超えたことば遣いをするということは、ある意味で「遊び」であるということになります。しかし、「遊び」というのは考えてみますと、私たちにとっては非常に必要なものでもあります。「遊び」を通じて私たちは日常生活の惰性を抜け出して、そこに活性をもたらそうとします。日本では古くから、「遊び」ということばは、しばしば芸術や美といった創造的なものと結びついてきました。たとえば、管弦を奏でるのも一つの「遊び」でした。そういった意味で、日常の中に埋没していない子どものことばは、創造面が非常に強く出てくる場であると考えることができるのです。

(池上嘉彦「ふしぎなことば ことばのふしぎ」による。)