長文集  7月1週  ○交換の起源はおそらく  yabi2-07-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/06/15 10:33:10
 【1】交換の起源はおそらく再分配にある
。たとえば人類学者の山極寿一(じゅいち)
は、類人猿と人間との違いは狩猟採集したも
のを巣に持ち帰って再分配するか否かにある
と言う。【2】その場で食べたいという欲望
を抑え、他者が獲得したものと合わせて、そ
れらを分配し直すことをするか否かにあると
いうのだ。【3】会食は人間にとっていまも
きわめて意味の濃い行為だが、会食すなわち
再分配ができるようになるには、他者の気持
ち、他者の欲望を理解できなければならない
。というより、他者になってしまわなければ
ならないのである。
 【4】現生人類の飛躍の鍵はここにあるよ
うに思える。クロマニヨン人はネアンデルタ
ール人をはるかに凌駕して、他者になること
ができたのだ。他者に、すなわち自分自身に

 【5】言うまでもなく、自分を意識すると
は他人の目で自分を見るということである。
他人の立場に立たなければ、自分というもの
はありえない。自分になることと他人になる
こととは、一つのことであって二つのことで
はない。【6】逆に言えば、自我とは、自分
というひとりの他者を引き受けることにほか
ならないのである。ただ人間だけが名づけら
れ、その名を自己として引き受けるのだ。こ
の授受にすでに交換が潜んでいる。
 人間とは他人になった動物である。【7】
だからこそ、人間は自分が自分であるという
事実に驚愕し、恐怖さえ覚えるのである。こ
れこそ、人間が装身具に血道を上げるほかな
くなった理由なのだ。装身具とは、自分が自
分であることの恐怖に耐える方法にほかなら
なかったと言うべきだろう。【8】自分とは
一つの空虚であり、この空虚こそが、名への
、装身具への、交換への、所有への欲望をも
たらしたものなのである。この空虚を、むろ
ん魂と呼んでもいい が、しかし同時に、経
済行為の萌芽と呼んでもいいだろう。
 【9】クロマニヨン人とともにシャーマニ
ズムが登場する。シャーマニズムが他者にな
るための洗練された技術である以上、これは
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まさに必然というべきだろう。【0】ここで
エリアーデをはじめとするシャーマニズムを
めぐる煩瑣な議論を紹介するわけにはいかな
いが、シャーマニズムによって、どのような
他者にでもなれる人間というものの仕組みが
、一つの制度として目に見えるものになった
のであ∵る。要するに、人間は、熊にでも、
鹿にでも、木にでも、岩にでもなれる存在な
のだ。自分自身になれるとはそういうこと 
だ。同じように、王にも皇帝にもなれるし、
国家そのもの、共同体そのものにもなれるの
である。あるいは奴隷にも、市民にも、国民
にも、国際人にも、なれる。アイデンティテ
ィを問うという病がこうして発生した。ある
いは、社会という病がこうして発生したので
ある。
 繰り返すが、シャーマニズムは決してオー
リニャック期のクロマニヨン人にのみ見られ
るものではない。いま現在、いたるところに
見られるというべきだろう。人はいまなお、
化粧によって、衣裳によって、所有物によっ
て、社会的地位によって、自己を確認する。
テレビ・ショッピングでも、インターネット
によるカタログ販売でもいい。そこで売買さ
れる商品は、「黒海から七〇〇キロメートル
も離れた中央ロシア平原の遺跡まで交易網を
通じて運ばれていた」化石琥珀と、何ら変わ
るところはないのである。四万年前とまった
く同じように、ここでもまたメディアが欲望
を生んでいるのだ。そしてその欲望は、空虚
としての自己のあらわれにほかならない。

(三浦雅士「考える身体」による)