ビワ2 の山 7 月 1 週 (5)
○交換の起源はおそらく   池新  
 【1】交換の起源はおそらく再分配にある。たとえば人類学者の山極寿一(じゅいち)は、類人猿と人間との違いは狩猟採集したものを巣に持ち帰って再分配するか否かにあると言う。【2】その場で食べたいという欲望を抑え、他者が獲得したものと合わせて、それらを分配し直すことをするか否かにあるというのだ。【3】会食は人間にとっていまもきわめて意味の濃い行為だが、会食すなわち再分配ができるようになるには、他者の気持ち、他者の欲望を理解できなければならない。というより、他者になってしまわなければならないのである。
 【4】現生人類の飛躍の鍵はここにあるように思える。クロマニヨン人はネアンデルタール人をはるかに凌駕して、他者になることができたのだ。他者に、すなわち自分自身に。
 【5】言うまでもなく、自分を意識するとは他人の目で自分を見るということである。他人の立場に立たなければ、自分というものはありえない。自分になることと他人になることとは、一つのことであって二つのことではない。【6】逆に言えば、自我とは、自分というひとりの他者を引き受けることにほかならないのである。ただ人間だけが名づけられ、その名を自己として引き受けるのだ。この授受にすでに交換が潜んでいる。
 人間とは他人になった動物である。【7】だからこそ、人間は自分が自分であるという事実に驚愕し、恐怖さえ覚えるのである。これこそ、人間が装身具に血道を上げるほかなくなった理由なのだ。装身具とは、自分が自分であることの恐怖に耐える方法にほかならなかったと言うべきだろう。【8】自分とは一つの空虚であり、この空虚こそが、名への、装身具への、交換への、所有への欲望をもたらしたものなのである。この空虚を、むろん魂と呼んでもいいが、しかし同時に、経済行為の萌芽と呼んでもいいだろう。
 【9】クロマニヨン人とともにシャーマニズムが登場する。シャーマニズムが他者になるための洗練された技術である以上、これはまさに必然というべきだろう。【0】ここでエリアーデをはじめとするシャーマニズムをめぐる煩瑣な議論を紹介するわけにはいかないが、シャーマニズムによって、どのような他者にでもなれる人間というものの仕組みが、一つの制度として目に見えるものになったのであ∵る。要するに、人間は、熊にでも、鹿にでも、木にでも、岩にでもなれる存在なのだ。自分自身になれるとはそういうことだ。同じように、王にも皇帝にもなれるし、国家そのもの、共同体そのものにもなれるのである。あるいは奴隷にも、市民にも、国民にも、国際人にも、なれる。アイデンティティを問うという病がこうして発生した。あるいは、社会という病がこうして発生したのである。
 繰り返すが、シャーマニズムは決してオーリニャック期のクロマニヨン人にのみ見られるものではない。いま現在、いたるところに見られるというべきだろう。人はいまなお、化粧によって、衣裳によって、所有物によって、社会的地位によって、自己を確認する。テレビ・ショッピングでも、インターネットによるカタログ販売でもいい。そこで売買される商品は、「黒海から七〇〇キロメートルも離れた中央ロシア平原の遺跡まで交易網を通じて運ばれていた」化石琥珀と、何ら変わるところはないのである。四万年前とまったく同じように、ここでもまたメディアが欲望を生んでいるのだ。そしてその欲望は、空虚としての自己のあらわれにほかならない。

(三浦雅士「考える身体」による)