ヤマブキ2 の山 5 月 2 週
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○自由な題名
○家、自己主張の大切さ

○A few days ago(感) 英文のみのページ(翻訳用)
A few days ago, a teacher from a Western country visited an elementary school in an Asian country. In one class, she watched sixty young children as they learned to draw a cat. The class teacher drew a big circle on the blackboard, and sixty children copied it on their papers. The teacher drew a smaller circle on top of the first and then put two triangles on top of it. The children drew in the same Way. The lesson went on until there were sixty "copy cats" in the classroom. Each student's cat looked exactly like the one on the board.
The visiting teacher watched the lesson and was surprised. The teaching methods were very different from the way of teaching in her own country. In her country, after one children's art lesson, the room always becomes full of different pictures drawn by different pupils. Why? What causes this difference in educational methods? In classrooms in any country, teachers teach more than art or history or language. They also teach culture, and each educational system is a mirror that shows the culture of the country.
In a country such as the United States or Canada, which has many national, religious, and cultural differences, people highly value the differences among people. Teachers put a lot of importance on the differences that make each student special. The educational systems in these countries show these values. Students do not memorize information. Instead, they work and find answers themselves. There is Often discussion in the classroom. At an early age, students learn to have their own ideas and act on them.
In most Asian countries, on the other hand, the people have the same language, history, and culture. Perhaps for this reason, the educational system in those Asian countries sets a higher value on the goals of a group than on each member's differences. Children in China, Japan, and Korea often work together and help one another to reach the same goal. In the classroom, the teacher speaks and the students listen. There is not much discussion. Instead, the students simply try to memorize rules or information that they have just been taught.
There are advantages and disadvantages to both of these systems of education. For example, one advantage to the system in Japan is that students there learn much more math and science by the end of high school than American students. They also study more hours each day and more days each year than North Americans. The system is hard for students, but it prepares them for a country that values discipline and self-control. There is, however, a disadvantage. Memorization is an important learning method in Japanese schools, but many students say that after an exam, they forget much of the information that they have memorized.
The advantage of the educational system in North America, on the other hand, is that students learn to think for themselves. The system prepares them for a country that values creative ideas. There is, however, a disadvantage. When students leave high school, they haven't memorized as many rules and facts as students in other countries.

★旅が面白いのは(感)
 【1】旅が面白いのは、行った先で思いがけない物事に出会って、出かけるまえの当初の目論見(もくろみ)とはまるでちがった関心をもつようになったり、かなりちがったところに足をのばして深入りするようになったりすることがあるからである。【2】だから、あらかじめあまり細かく計画を立てて予定以外に身動きできないようにしたり、よそ見をしないでただ予定どおりに歩いたりしたのでは、旅としての魅力は半減する。なにも、いたずらにきょろきょろよそ見をするのがいいというのではない。【3】そうではなくて、歩いていておのずと見えてくるものに対して目をふさがず、見えてきたものにつよく心をひかれれば、それに深入りすることもおそれるべきではない、というのである。
 おのずと見えてくるものなどというと、積極的、意識的に見ることにくらべて、受動的、消極的な態度だと思う人もいるだろう。【4】しかし、実際には、意識的にものを見ようとすると、かえって、見ようと思ったその角度だけから一義的にしかものを見ることができない。もっといえば、そのとき、見られるものは冷ややかに対象化されて、一義的でしかないものになる。【5】それに対して、おのずと見えてくるとは、私たちが心を開いて自然や外界(人間やできごとをも含めて)に接するとき、つまり視覚の独走にまかせずに五感のすべてを生かして共通感覚的に接するときに、ものが豊かな多義性をもってあらわれることなのである。
 【6】そしてこの場合、実は、私たちの身体=精神は一方的に受動的なのでは決してなく、想像力――これは昔から共通感覚に相応するものと見なされている――の働きによる自然や外界への問いかけが、すでに行われている。【7】そのような私たちの身体=精神と自然や外界との交感・対話のうちに、ものが豊かな多義性をもって、おのずと見えてくるのである。このように意識的に無理にものを見ようとせず、おのずと見えてくるようなかたちで接することなくしてはものが豊かな多義性をもって姿をあらわさないということは、なにも現実の旅についてだけいえるのではない。【8】それは「知の旅」あるいは「知の探索」においても、まったく同様にいえるのである。
 「知の探索」においてせっかく多くのものを見、たくさんの書物を読みながら、硬直した見方や概念的な見方にとらわれているために、対象のもつ豊かな問題性を貧しく平板なものにしてしまう人たちが少なくない。【9】硬直した見方、概念的な見方によって対象に接するとき、対象は豊かな多義性をもあらわさなければ、問題と∵して動き出したり躍動したりすることもない。そこでは対象=問題は、ただ単にいわばはく製として標本化され分類されているにすぎないのだ。【0】学問の名において、また科学の名においてそうした在り様がしばしば一般化した。そのために、「知の探索」が人々に、どんなに無味乾燥なものと思われるようになったことか。
 そのことは、知の探索において、ただ多くのものを見、多くの書物を読めばいいのではなく、どのようにものを見、どのように書物を読むかという、対象についての読解(知覚を含めた)の在り様にもかかわり、したがって次にここに、その在り様そのものが大きく問われることになる。硬直した見方、一定の価値判断にとらわれた見方を排して事象そのものへと迫ろうとする「現象学」をはじめ、あらゆるものやことを記号としてそれが表す意味作用を読みとろうとする「記号学」、また、すべての言説をその概念的意味だけてはなく能記(記号表現)を重視して、多義的なものとしてとらえようとする「テキスト読解の理論」などが、近年いよいよ重視されるようになったのは、そのためである。
 ところが、それらの方法や理論にしても、十分に使いこなされて対象=問題のもつ豊かな多義性への解明に役立てられず、方法のための方法、理論のための理論にとどまることがあまりにも多い。なぜだろうか。思うにそれは、誤った視覚の立場、概念の立場から自由になっていないため、脱皮していないためであろう。おのずとものが見えてくるような対象への接し方が身につけられていないためであろう。おのずとものが見えてくるという在り方は、日頃の訓練によって身につけられるけれど、それがなにかの偶然あるいはチャンスの折に力を発揮するのである。

 (中村雄二郎『知の旅への誘(いざな)い』による。表記等を改めたところがある)