ヤマブキ の山 5 月 1 週
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○自由な題名
○個性、勉強の意味
○人工と自然、自己主張の大切さ
○My students(感) 英文のみのページ(翻訳用)
My students make speeches and find that this is a good way to learn English. A good speech shows the ideas and feelings of the speaker. One of the most interesting speeches that I have ever heard was made by Miss Omoto, a junior high school student in Osaka.
She said, "What does Heaven look like? It looks like an art museum. When a child is born, God puts one large picture on the walls of Heaven for that child. But there is nothing on the picture at first.
God gives every child many abilities. Each ability is one color. For example, the ability to see is blue, the ability to hear is red and the ability to speak is yellow. God also gives a different color for different qualities. Kindness is one color, patience is another color and honesty is still another color. All the good qualities get colors and all the bad qualities get colors too.
When a person uses each ability and each quality, this color is always painted on his picture in Heaven. When a person grows up little by little and uses his abilities and qualities, God uses more colors on his picture in Heaven.
Sometimes God makes mistakes. For example, he forgot to give Helen Keller the color for seeing, hearing and speaking. So she could not see, hear or speak. But because she was very kind, very interested in studying, and wanted to work hard, her picture in Heaven is one of the most beautiful pictures on the walls of Heaven. Beethoven lost his ability to hear, so his picture slowly changed. Beethoven had to use his other abilities so much that his picture in Heaven is still very beautiful and special.
God gives every baby all the important abilities. So every picture should be the same, but it seems no two pictures are the same. Every baby has all the necessary qualities, but every person uses them in different ways and in different manners. So everyone's picture is different. Some people use their good qualities more than their bad qualities, but other people use their bad ones more than their good ones. So some people's pictures are beautiful, while other people's pictures are ugly. We all paint a different picture, so it is very important how we use our abilities and qualities."
Miss Omoto ended her speech with the wonderful question, "What your picture look like?"

★島国言語の特色のひとつは(感)
【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
 【1】住空間をきれいにするには、できるだけ空間から物をなくすことが肝要ではないだろうか。ものを所有することが豊かであると、僕らはいつの間にか考えるようになった。
 【2】高度成長の頃の三種の神器は、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、その次は自動車とルームクーラーとカラーテレビ。戦後の飢餓状態を経た日本人は、いつしか、ものを率先して所有することで豊かさや充足感を噛み締めるようになっていたのかもしれない。【3】しかし、考えてみると、快適さとは、溢れかえるほどのものに囲まれていることではない。むしろ、ものを最小限に始末した方が快適なのである。何もないという簡潔さこそ、高い精神性や豊かなイマジネーションを育む温床であると、日本人はその歴史を通して、達観したはずである。
 【4】慈照寺の同仁斎にしても、桂の離宮にしても、空っぽだから清々しいのであって、ごちゃごちゃと雑貨やら用度品やらで溢れているとしたなら、目も当てられない。【5】洗練を経た居住空間は、簡素にしつらえられ、実際にこの空間に居る時も、ものを少なくすっきりと用いていたはずである。用のないものは、どんなに立派でも蔵や納戸に収納し、実際に使うときだけ取り出してくる。それが、日本的な暮らしの作法であったはずだ。
 【6】ものにはそのひとつひとつに生産の過程があり、マーケティングのプロセスがある。石油や鉄鉱石のような資源の採掘に始まる遠大なものづくりの端緒に遡って、ものは計画され、修正され、実施されて世にかたちをなしてくる。【7】さらに広告やプロモーションが流通の後押しを受けて、それらは人々の暮らしのそれぞれの場所にたどり着く。そこにどれほどのエネルギーが消費されることだろう。その大半が、なくてもいいような、雑駁とした物品であるとしたらどうだろうか。【8】資源も、創造も、輸送も、電波も、チラシも、コマーシャルも、それらの大半が、暮らしに濁りを与えるだけの結果しかもたらしていないとするならば、これほど虚しいことはない。∵
 【9】無駄な物を捨てて暮らしを簡潔にするということは、家具や調度、生活用具を味わうための背景をつくるということである。芸術作品でなくとも、あらゆる道具には相応の美しさがある。【0】何の変哲もないグラスでも、しかるべき氷を入れてウイスキーを注げば、めくるめく琥珀色がそこに現れる。霜の付いたグラスを優雅な紙敷の上にぴしりと置ける片付いたテーブルがひとつあれば、グラスは途端に魅力を増す。逆に、漆器が艶やかな漆黒をたたえて、陰影を礼賛する準備ができていたとしても、ものが溢れかえっているダイニングではその風情を味わうことは難しい。
 持つよりもなくすこと。そこに住まいのかたちを作り直していくヒントがある。何もないテーブルの上に箸置きを配する。そこに箸がぴしりと決まったら、暮らしは既に豊かなのである。
 (原研哉「持たないという豊かさ」より)∵
 【1】島国言語の特色のひとつは、相手に対する思いやりが行き届いていることである。ヨーロッパの言語では、われとなんじ、自と他の対立関係において言語活動が考えられるが、島国言語の日本語ではそういう対立関係はあまり発達しない。【2】そのかわり第一人称にいろいろな形態ができている。「私ども」とか「手前ども」のように、第一人称の単数か複数かはっきりしないような用法があり、それが何とも言えない味わいをもって受けとられる。
 【3】ヨーロッパの言語や文法の考えになれた人たちから見ると、いかにも不明瞭である。もうすこしはっきりさせた方がいいのではないか。どうして、日本語の主語が不安定なのであろう。そういう感想がもたれ、それがやがて日本語は論理的ではないのではないかという疑いに結びついて行く。
 【4】日本語の人称をあらわす語は、きわめて多様で、第一人称など五つ六つがすぐ頭に浮かんでくる。日常使っている第一人称でも、二つや三つは使い分けている。相手との心理的距離、関係にしっくり合うような人称語を使うことが必要だという意識がつよいからであろう。【5】対人関係の微調整の感覚が発達しているのだとも言える。(ここまで、島国言語という表現を何のことわりもなしに用いてきたが、大陸言語にくらべて劣っているといった含蓄はまったくない。島国、大陸は地理的条件を示すものであって、島国的な母国根性といったものと結びつく形容詞ではないつもりである。以上、念のため。)
 【6】島国言語のもうひとつの特質は、話の通じがたいへんよいということである。ツーといえばカーとくる。お互いに野暮な人間はいない、あるいは、いないはずだという前提に立っている。通人同士のコミュニケイションだということである。【7】通人というと何か古くさい感じがするが、伝達理解に必要な情報をもっている人間はすべて通人である。したがって、われわれはだれでもある場面では通人としての言語活動をしているのである。その典型は家族間の会話である。【8】省略の多い、要点のみをおさえた言葉のやりとりをしていて、お互いに理解し合っている。通人同士だからである。
 家族の会話というのは、どんな大陸言語の性格のつよい社会でも通人的、したがって島国言語的なものである。【9】ただ、日本語は、普通は家族の間で行われるような言語活動の様式が親密な集団の範囲をこえて広く認められるのである。∵
 それでは島国言語がなぜ通人社会になるのか。家族の会話が第三者にはまるで判じもののようなやりとりをしておりながらなぜ意思の疎通ができるのか。【0】そういうことが問題になるであろう。
 言語には冗語性というものがある。ひと口にいうと言葉の中に含まれる必要な蛇足である。どんな言語でも必要にして充分なことだけしか表現していないことはあり得ない。百が必要量だとすると、表現は百五十も百八十もの情報をもっている。だから、受け手はその中から百だけを理解すればよい。残りの部分は蛇足であるが、これがないと相手の言っていることが中途でわからなくなったりする危険がある。(中略)
 このように、時と場合によって、蛇足の部分をふやしたり、減らしたりということをほとんど無意識に行っている。相手の耳に達するまでにロスが多いと思えば冗語性を高めるし、確実に伝わる自信をもっているときには、低音で話したり、省略の多い表現をとったりして冗語性をすくなくする。冗語性のすくない典型的なケースがすでにのべた家族間の話である。
 日本語は島国言語である。島国言語というのは極端な言い方をすると、家族同士の会話を社会全体でもやっているような言語のことで、当然、冗語性はすくなくてよい。島国言語の社会で冗語性がすこし普通より高くなると、すぐ、くどいとかうるさいとか理屈っぽい、野暮というような消極的反応を誘発する。通人の社会である。大人はなるべく冗語性のすくない言葉を用いるように知らず知らず傾いている。
 大陸言語の社会では冗語性をあまりすくなくすると、ごく親密な関係の人との間ならともかく、相手に誤解されたり、了解不能を訴えられたりするから、ていねいな表現をしなくてはならない。ヨーロッパ語の中でもドイツ語がいちばん冗語性が高いということであるが、われわれがドイツ語を論理的で何となく理屈っぽいと感じているのはこの冗語性の高さと無関係ではないように思われる。
(外山滋比古(とやましげひこ)「日本語の論理」より)