1. 【1】ある中学生は今の受験勉強をめぐって次のような作文を書いている。
2. 現在の勉強と将来の関係といっても、今の日本の現状でいうと、勉強して成績が良ければ一流といわれる高校に行き、そこでも成績が良ければ一流といわれる大学に行き、一流といわれる
企業に入ると決まっている。【2】で、一流の
企業へ入れば
一般にその人は幸せとされる。本当かどうかは知らない。この状態がいいのか悪いのかもわからない。しかしそれに従うしかない。従わなければ生活できないからである。
3. 【3】私の接する今の大学生もそうである。外部欲望説に立てば受験競争はより有名な学校に進学して大
企業に入社したいという安定した生活への功利的欲求に根ざしているということになる。【4】しかし、それは読みが逆立ちしている。というのは、自分はファッション関係に進みたいなどといっている学生が、就職シーズンになると、せっかく一流の○○大学生だから、やはり××銀行のような
手堅く伝統のある
企業に就職することにしようとするからである。(中略)
4. 【5】しかし、日本の
傾斜的
選抜システムも近年その
仕掛けの力が
揺らいできている。細かな学校ランキングによって競争に
巻き込まれることが従来よりは少なくなり始めた。【6】ノン・エリートたちがその
罠にやすやすと
陥らなくなったからである。従来であれば、
偏差値五十といわれた者はなんとか
頑張って五十五の高校や大学への進学をめざそうとした。【7】しかし、今では、それよりも、五十のランクの間の学校の中で自分に合う学校を選ぼうとする
傾向が出てきている。
選択の基準が制服や学校所在地やキャンパスの好みではあっても、細かな学校ランクによって競争に
巻き込まれることが従来よりは少なくなり始めた。
5. 【8】受験産業も試験
突破の「
傾向と対策」を伝授するだけではない。「学部・学科
徹底研究」「職業別学部選び」などを特集し始めている。
偏差値や学校ランクだけではない大学
選択の兆しを反映した記事である。【9】
微細な「記号」(
偏差値や学校ランク)に
踊らされる
愚を
悟り、「実質」(何を学び、何になるか)への回帰が始ま∵ったともいえる。
ヴィジョンなきただの競争人間がこれからの人材ではないこと。【0】自分の意見を持ち、何をしたいかのはっきりした人でなければ、これからの時代はマズイし、アブナイと人々が思い始めたからではないだろうか。
6. かつてアメリカの社会学者デビッド・リースマンは『
孤独な群衆』(一九六四)で、社会的性格つまり時代の適応人間類型を第一次産業から第二次産業へ、第二次産業から第三次産業への産業構造の変化との対応で論じたことがある。農業社会においては、「伝統」を
墨守する人間像が、初期工業社会では、新しい社会
状況に満ちているから、
剛直で個性がある「内部志向」人間が、第三次産業を中心とした時代には、物質問題ではなく他人が重要になるから、他者の動向に
敏感なレーダーを持った「他者志向型」人間が社会的性格=適応人間となる、と。
7. リースマンがこのような類型を
描いてから三十年以上たった。今やマルチメディア化などによって職場
環境や組織構造が大きく変わりつつある。それに
伴って適応人間類型も変容している。専門的技能を持たず、同じ
企業にずっと勤め、人あたりの良さを資本に生きていく時代に
陰りが見え始めている。ハイパー資本主義時代にはすべてにマイペースであっても、仕事にのめりこむような
奇人や変人も
満更捨てたものではない? これからは明るい「おたく」の時代ではなかろうか、とさえ思う。近年の受験をめぐる意識変化の兆しは小さなものではあるが、社会の構造変動に対応した人々の無意識の人材観と相関しているだけにしたたかな変化が始まったとはいえる。「
偉くなりたい」の時代や「競争のための競争」の時代を通過して「何をしたいか」の時代への変化がゆっくりではあるが確実に始まったように見える。
8. その意味でこれからは新しい立身出世の時代の開幕となってほしいと思う。というと
唐突に聞こえるかもしれない。少し説明をして結びとしたい。
9. 最近、私は授業の中で、「チップス先生さようなら」(
監督ハーバート・ロス、主演ピーター・オトウル)のビデオを学生に見せた。そのあと感想文を書かせた。チップス先生の少し意固地だが、誠実な
人柄に多くの学生が好感を持った。しかし、チップス先生が∵校長になることにこだわり、校長任命時に
一喜一憂する場面に
当惑を覚えたという感想があった。なるほど、戦後日本においては出世主義は悪である。教師や
官僚、会社員になる若者に将来、校長になりたいか、
官僚のトップになりたいか、社長になりたいかと聞くと、「そんなこと考えていません」ととりあえず答えるのが戦後日本人の正しい回答である。しかし、このような社会はどこか病んではいないだろうか。教師になる人が、あるいは
官僚になる人、会社員になる人が将来自分だったらこうしてみたいという気持があれば、校長になりこんなことをやってみたいとか、次官になってこうしてみたい、社長になってこうしてみたいと考え、胸を張っていう若者がいるのは当然であろう。戦前もそうだったように、立身出世を単なる欲望としてだけで見るべきではない。
栄耀栄華でも
脱落の
恐怖でもない、構想力という希望を背景にした新しいアンビションの時代の開幕を願うものである。
10.(竹内洋『立身出世主義』)