長文 12.4週
1. 【1】ある中学生は今の受験勉強をめぐって次のような作文を書いている。
2. 現在の勉強と将来の関係といっても、今の日本の現状でいうと、勉強して成績が良ければ一流といわれる高校に行き、そこでも成績が良ければ一流といわれる大学に行き、一流といわれる企業きぎょうに入ると決まっている。【2】で、一流の企業きぎょうへ入れば一般にいっぱん その人は幸せとされる。本当かどうかは知らない。この状態がいいのか悪いのかもわからない。しかしそれに従うしかない。従わなければ生活できないからである。
3. 【3】私の接する今の大学生もそうである。外部欲望説に立てば受験競争はより有名な学校に進学して大企業きぎょうに入社したいという安定した生活への功利的欲求に根ざしているということになる。【4】しかし、それは読みが逆立ちしている。というのは、自分はファッション関係に進みたいなどといっている学生が、就職シーズンになると、せっかく一流の○○大学生だから、やはり××銀行のような手堅くてがた 伝統のある企業きぎょうに就職することにしようとするからである。(中略)
4. 【5】しかし、日本の傾斜けいしゃ選抜せんばつシステムも近年その仕掛けしか の力が揺らいゆ  できている。細かな学校ランキングによって競争に巻き込まま こ れることが従来よりは少なくなり始めた。【6】ノン・エリートたちがそのわなにやすやすと陥らおちい なくなったからである。従来であれば、偏差へんさ値五十といわれた者はなんとか頑張っがんば て五十五の高校や大学への進学をめざそうとした。【7】しかし、今では、それよりも、五十のランクの間の学校の中で自分に合う学校を選ぼうとする傾向けいこうが出てきている。選択せんたくの基準が制服や学校所在地やキャンパスの好みではあっても、細かな学校ランクによって競争に巻き込まま こ れることが従来よりは少なくなり始めた。
5. 【8】受験産業も試験突破とっぱの「傾向けいこうと対策」を伝授するだけではない。「学部・学科徹底てってい研究」「職業別学部選び」などを特集し始めている。偏差へんさ値や学校ランクだけではない大学選択せんたくの兆しを反映した記事である。【9】微細びさいな「記号」(偏差へんさ値や学校ランク)に踊らおど される悟りさと 、「実質」(何を学び、何になるか)への回帰が始ま∵ったともいえる。ヴィジョンなきただの競争人間がこれからの人材ではないこと。【0】自分の意見を持ち、何をしたいかのはっきりした人でなければ、これからの時代はマズイし、アブナイと人々が思い始めたからではないだろうか。
6. かつてアメリカの社会学者デビッド・リースマンは『孤独こどくな群衆』(一九六四)で、社会的性格つまり時代の適応人間類型を第一次産業から第二次産業へ、第二次産業から第三次産業への産業構造の変化との対応で論じたことがある。農業社会においては、「伝統」を墨守ぼくしゅする人間像が、初期工業社会では、新しい社会状況じょうきょうに満ちているから、剛直ごうちょくで個性がある「内部志向」人間が、第三次産業を中心とした時代には、物質問題ではなく他人が重要になるから、他者の動向に敏感びんかんなレーダーを持った「他者志向型」人間が社会的性格=適応人間となる、と。
7. リースマンがこのような類型を描いえが てから三十年以上たった。今やマルチメディア化などによって職場環境かんきょうや組織構造が大きく変わりつつある。それに伴っともな て適応人間類型も変容している。専門的技能を持たず、同じ企業きぎょうにずっと勤め、人あたりの良さを資本に生きていく時代に陰りかげ が見え始めている。ハイパー資本主義時代にはすべてにマイペースであっても、仕事にのめりこむような奇人きじんや変人も満更まんざら捨てたものではない? これからは明るい「おたく」の時代ではなかろうか、とさえ思う。近年の受験をめぐる意識変化の兆しは小さなものではあるが、社会の構造変動に対応した人々の無意識の人材観と相関しているだけにしたたかな変化が始まったとはいえる。「偉くえら なりたい」の時代や「競争のための競争」の時代を通過して「何をしたいか」の時代への変化がゆっくりではあるが確実に始まったように見える。
8. その意味でこれからは新しい立身出世の時代の開幕となってほしいと思う。というと唐突とうとつに聞こえるかもしれない。少し説明をして結びとしたい。
9. 最近、私は授業の中で、「チップス先生さようなら」(監督かんとくハーバート・ロス、主演ピーター・オトウル)のビデオを学生に見せた。そのあと感想文を書かせた。チップス先生の少し意固地だが、誠実な人柄ひとがらに多くの学生が好感を持った。しかし、チップス先生が∵校長になることにこだわり、校長任命時に一喜一憂いっきいちゆうする場面に当惑とうわくを覚えたという感想があった。なるほど、戦後日本においては出世主義は悪である。教師や官僚かんりょう、会社員になる若者に将来、校長になりたいか、官僚かんりょうのトップになりたいか、社長になりたいかと聞くと、「そんなこと考えていません」ととりあえず答えるのが戦後日本人の正しい回答である。しかし、このような社会はどこか病んではいないだろうか。教師になる人が、あるいは官僚かんりょうになる人、会社員になる人が将来自分だったらこうしてみたいという気持があれば、校長になりこんなことをやってみたいとか、次官になってこうしてみたい、社長になってこうしてみたいと考え、胸を張っていう若者がいるのは当然であろう。戦前もそうだったように、立身出世を単なる欲望としてだけで見るべきではない。栄耀栄華えいようえいがでも脱落だつらく恐怖きょうふでもない、構想力という希望を背景にした新しいアンビションの時代の開幕を願うものである。

10.(竹内洋『立身出世主義』)