1. 【1】絵画と音楽とが二〇世紀にたどっていった道と数学の歩みとは、もしかすると重なり合うことがあるかもしれない。現代数学の
抽象性をキュービズムや無調音楽となぞらえて
捉えたくなっても不思議ではない面が確かにある。【2】数学的対象のもつある側面を取り出して強調すること、とくにひとつの対象のもつ種々の側面を現代数学の立場から説明することは、ひとつの対象をさまざまな角度から見たものをひとつのカンバスに
描くピカソの絵とどこか似かよっている。【3】また、例えば個々の関数のもつ性質を一切無視してヒルベルト空間の元と
捉えるところにしても、無調音楽に通じる無機的なものを感じることができよう。【4】さらに、長い長い
抽象的な議論を経て結論へたどり着くことの多い現代数学の議論は非人間的だと思いたくなることもあるだろう。そうした意味で、絵画や音楽に現れた時代の
影響を見て取ることができる。
2. 【5】しかしながら数学と音楽・絵画とは決定的に
違う側面がある。それは数学のもつ
普遍性である。数学の定理はひとたび証明されれば万人共通の真理となる。このことが過ぎると、カントの
哲学のように数学の真理に対する誤った
信頼さえ生じる。【6】われわれの住む空間はユークリッド
幾何学の成立する空間であると頭から信じて
哲学の
基礎としたカントの強い
影響力のもとで、非ユークリッド
幾何学をガウスは用心深く
隠す必要を感じていた。【7】数学者の無理解だけを
恐れたのではなかったようである。われわれの住む空間の
幾何学は物理の実験によって確かめることができるというリーマンの主張は、今日では当然のことと思われるが、当時は極めて勇気のいる主張でもあった。
3. 【8】こうした数学に対する
信頼は今世紀に入って数学が
抽象的になるにつれてなくなっていった。たとえばユークリッド
幾何学に対する感覚的
信頼と類似の感覚的
信頼を現代数学に対して持つためにはそれなりの訓練が必要となる。【9】ユークリッド
幾何学にしても複雑な定理は決して感覚的に自明なわけではなく、こみいった証明が必要になる。そうした意味では同じ面もあるが、
基礎的な部分では∵
間違いなく理論を感覚的に
信頼することができる。【0】もっとも、古代ギリシャ人の
偉大なところは感覚的な
信頼を論理的な
信頼に高めたところにある。ユークリッドの『原論』が長い間、学問の記述の手本とされたのもこうした点にある。しかしながら、論理的な
信頼だけで最初から最後まで議論を
押し通すことはかなりの
忍耐を必要とし、通常は感覚的な助けが必要となる。
4. 今世紀に導入された数学上の基本的
概念を最初に学ぶ際に理解しづらいのは、簡単には感覚的に
捉えることが難しいことにも一因があるように思われる。訓練することによって一種の感覚が生まれてくるのであるが、そこに至る道には個人差が大きい。時として苦行を強いられるように感じられることもある。いずれにせよ、数学を美しいと感じることができなくては本当に数学が分かったという気にはなりにくいであろう。そこに至る道が困難な道であり、少数の人しか
到達できないとすると、十二音技法の上手さに感心する作曲家や技術的な困難を
克服して演奏するようになった演奏家と数学者とは近い存在ということになる。事実、パリティ非保存の法則の発見でノーベル賞を受賞した物理学者のヤンは、
彼の学生であったミルズとともに創始したヤン―ミルズの理論が数学でのファイバー束の接続の理論と関係していると数学者に
指摘され、この数学理論を勉強したときの感想を「現代数学者の言語は、物理学者にとってはあまりに冷たく
抽象的だ。」と記している。
5. こうした感想は現代数学を勉強した多くの人たちが共有するものであろう。こうした無機的なものを現代数学がもっていることは確かである。それを
克服する道は、現代数学の基本的考え方を日常の言葉で表現する努力から始めるしかあるまい。それがどんなに困難であっても、数学が再び大きく
飛躍するためには、
避けて通れない道である。幸いにも現代数学は大きな内部運動をひとまず
終了し、いま諸科学との交流のもとで新たな発展を見せつつある。二一世紀の数学が、数学の美しさ、楽しさを身近に感じさせてくれる学問へと深まっていくことを期待したい。
6.(上野
健爾「
誰が数学
嫌いにしたのか」)