プラタナス2 の山 11 月 1 週 (5)
★テレビゲームが(感)   池新  
 【1】テレビゲームが伝統的なおもちゃと決定的に異なっている点とは、「遊び相手」として機能することである。宇宙人のいないインベーダー、追いかけてくる敵がいないパックマンは成立しない。【2】一人プレイのゲームでも、敵キャラがいないゲームでさえ、ゲームである限り、プレイヤーの行動はルールに照らし合わせてチェックされている。直接的な「相手」がいない場合でも、コンピュータは審判のような形で遊びをサポートしている。【3】つまり、テレビゲームとは、遊びに必要な三つの要素、遊び道具と遊び場、そして遊び相手が、すべて一体となったものなのだ。
 【4】既存のおもちゃや道具の中にも、たとえばバッティングセンターのように、メカニカルな仕組みがヒトの代替として「相手をしてくれる」ものがないことはないが、対戦プレイの相手、あるいはチームの味方として「ヒトのようなふるまい」をすることはない。【5】また、テレビや本といった伝統的なマスメディアは、情報の伝達が一方向であるがゆえに、「相手をしてくれる」状態にはならない。電話のような双方向メディアは、常に実際のヒトを必要としてきた。【6】つまり、おもちゃであれメディアであれ、ヒト以外の存在が「ヒトのようにふるまい、相手をする」現象はこれまでなかった。
 【7】機械に組み込まれたソフトウェアが「遊び相手」をすること、そしてソフトウェアであるがゆえに複製、大量生産が非常に簡単だったこと。これこそが、メディアとしてのテレビゲームのユニークさなのである。
 【8】テレビゲームが既存のメディアとどう異なるのか、別の角度から明らかにするために、既存メディアの性質を比較してみたい。それぞれのメディアを、実際のヒトの行為に置き換えてみると、どのような状態といえるのだろうか。
 【9】テレビ番組や映画の多くは、目の前で「演じているヒト」をメディアに載る形式にして複製したものである。音楽CDやラジオは「演奏するヒト」のメディア化であり、本、ラジオ、テレビは「演説」のメディア化ということができる。これらはすべて、舞台の上から一方向的に演じられる形式のものだ。
 【0】テレビゲームはどうだろう。映像も音楽もテキストも含まれているため、「演じられる」部分もあるが、決定的な違いは、自分自身も舞台に立っていることだ。演じるのも演奏するのもゲームをす∵るのも、英語ではすべて「プレイ」である。しかし、既存メディアの場合、プレイするのは「彼、彼女たち」である。主語が「自分」になるのは、テレビゲームだけなのである。
 そして、ゲームをヒトに置き換えるとすれば、やはり「遊び相手」のメディア化というのがふさわしい。その「相手」は、遊び場と遊び道具を用意し、遊び方を教えてくれ、あるときは頼もしい同志、ときには極悪非道の「敵キャラ」にもなる、変幻自在の遊び相手なのである。しかも、こちらがスイッチを切らないかぎり、何時間でもつきあってくれる。
 これは、産業革命が「労働」に与えた影響と同質のものといえるのではないだろうか。産業革命の本質は、前期においてはハイパワー化、後期においては規格品の大量生産(フォーディズム)だと思われるが、ゲーム世界において、何にでも変身できるパワーを持った「遊び相手」が大量生産されたことは、遊戯に革命を起こしたといっても過言ではない。
 ここで、マクルーハンのメディア概念が有効になる。テレビや映画、ラジオ、本といった既存メディアは、受け手から考えたとき「眼と耳の拡張」である。視覚、聴覚の情報を時間と空間を超えて届けてくれる。産業革命が起こした変化は「手足の拡張」ということができる。石炭掘削機も自動車も、ヒトの手足をハイパワー化したものなのだ。そして、遊び相手のメディア化であるテレビゲームとは、「脳の拡張」といっても差し支えないだろう。もちろん、コンピュータ技術自体が、もともと「計算するヒト」の機械化であり、筋肉や骨ではなく、脳の拡張としての要素を持っていたのだが、それを最初に大衆化したのがテレビゲームであるという事実の重要性が揺らぐものではない。

(桝山寛()「テレビゲーム文化論」より)