長文集  10月4週  ○生命が大事だとか(感)  wapu2-10-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/09/13 15:44:32
 【1】生命が大事だとか、基本的人権は尊
重すべきだとか、平和は守らなければならな
いとか、国は保持しなければならないとか、
人類は進歩しなければならないといった様々
な価値観を君たちは抱いているだろうが、君
たちが当り前だと思っている価値判断自体 
が、すべてある種のイデオロギーであり、ま
た思想でもある。【2】けれども、君たちは
それが思想であることを意識していない。意
識せずにまるでそういう価値観を自分の頭で
考えだしたように思い込み、思い込んだ上で
信じこんでいる、のだ。【3】これは知的と
いうには程遠い状態ではないか? これまで
の思想の体系なり、その論点を知ることは、
自分が抱いてしまっている価値観を相対化す
るとともに、その価値観が成立している論理
の仕組みや、その価値が本質的にめざしてい
るのは何なのか、という事が理解できるだろ
う。
 【4】いかにも当世風な論法ではあるけれ
ど、このような具合に諭してやる事はできる
だろうし、それは現在の大学教育においても
通用する理屈ではあり、多少とも明敏な学生
はその意味を理解するだろうが、この答えを
組み立ててみても自分として納得しきれない
部分があるのもまた事実であった。【5】敏
い者は敏い者なりに理解するだろうが、それ
はそれだけの事ではないか。あるいは今私の
展開したような観点から、思想を語る事、知
る事に魅力を感じ、そうした営みをはじめる
人間もいるかもしれない。【6】けれどもそ
れははたして思想なのか。巧みに売り込まれ
た、処方箋じみたものにすぎないのではない
か。
 そのように考えたのはその二、三日前に、
若い人から送られてきた本の冒頭のエピソー
ドが気になっていたからである。【7】その
話は著作の内容とはあまり関係がないのだが
、大学で文学の研究職にある筆者が、若い官
僚に遺伝子操作なり超伝導なりといった技術
に進歩をもたらすのが「研究」ということで
あって、文学の「研 究」をいくらしても、
文学の進歩に貢献をしないのならばそれは「
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研究」という名に値しないのではないか、と
酒場で絡まれたというのである(『モダンの
近似値』阿部公彦)。【8】若い役人の発言
もまた、反知的であるという点については、
私のキャンパスの学生の発言と同様である。
と同時に学生の発言の背景にあるものを、あ
る程∵度鮮やかに見せてくれている。【9】
現在の学問なり「研 究」なりといった行為
が持っている姿、イメージ、あるいはより正
確にいえばダイナミズムというか生態といっ
たものから見て、思想なり文学なりといった
ものが、どのようなものに見えるのか、とい
うことだ。【0】特許の申請数や、論文の被
引用数、企業や財団からの資金導入の高や内
外の学会での発表回数が学問の率直な尺度と
なったのは、もう既にかなり前のことである
。こうした趨勢自体 は、無害であるとはい
えないまでも、まだ選択的なものであり、「
思想」であろうと、「文学研究」であろうと
、かくある尺度の中で競争をしてもよいし、
あるいはそこから遠く身を退きつつ孤塁を守
ることは、多少の困難はともなっても不可能
ではなかった。
 遺伝子とか、超伝導にかかわるようなこと
が研究ではないか、という小役人の言葉は、
これまでの趨勢を越えた変化を示唆してい 
る。国立・私立を問わぬ大学改革の趨勢は、
算定され得る成果を教員や大学院生により強
く求めるようになっており、超然としている
事の困難はいや増しているが、本当の厄介さ
はそんなところにはない。大学の教員でいた
いものは算定できるような成果をあげるよう
に勤めればよいし、嫌ならばやめればいいだ
けの話だ。より本質的な変化は、大学という
領域を大きく越えたところから到来してい 
る。
 成果は世に氾濫している。「成果」という
のは、学会の発表数とか、資金導入実績など
といった専門家の枠内での牧歌的な指標とは
まったく無縁の、もっと具体的であり、現実
的であり、日常的な世界における「成果」で
ある。役人の云う遺伝子とか、超伝導といっ
た目に見える、新聞の見出しになるような「
成果」が次々に現れている。現在は科学技術
の飛躍期間にあるらしく、多種多様な成果が
毎日飛び込んでくる。厄介というのは、とい
うより興味深いのは、この成果が日常生活に
還元される速度が加速されていることだ。雑
多な開発なり何なりが瞬時に製品として現れ
る、その登場∵が例えば遺伝子操作食品の是
非というような形で社会的な波紋を呼ぶ。こ
の潮流においてもっとも身近なものを挙げれ
ば携帯電話やノート・パソコンといった情報
機器になるだろう。こうした機器が、進歩し
ていく速度、いろいろな機能なり何なりを備
えていく速さと広さは尋常なものではない。
もう、これ以上の機能はいらないだろう、と
息をつく間もなく、新奇な機能が発明をされ
て、しかも浸透していくのだ。私たちの生活
自体が、この進歩というか製品開発と即応す
るような形で発展していっており、生活の展
望も、人生の設計も、日々の活計も開発のも
たらす変化とは無縁ではいられない。とする
ならばこの開発のリズム、あるいはテンポが
私たちの生活のみならず、知識、認識の基本
になっているのではないか。役人の言葉の底
流には、常に自らを追い越しつづけることを
宿命づけられてきた科学技術のますます加速
すると同時に顕在的になっていくその現れ方
が、私たちの意識を決定し、その宿命にあら
ゆる認識が奉仕するように強制されると共に
義務づけられている現実が運動しているのだ
ろう。
 思想は、何になるのか、という問いは、こ
の蠢動の上で発せられた。情報機器にしろ、
遺伝子工学にしろ、科学的な開発、研究がめ
ざましい成果を日々あげていると伝えられ、
伝えられているだけでなく実際に製品の普及
という形で進歩あるいは変化として知識なり
認識なりを体験しているその現実の中では、
思想は何ものでもないか、あるいは携帯電話
と同様の機能を備えたものになるかのどちら
かしかあるまい。

(福田和也『イデオロギーズ』による)