1. 【1】なりふりかまわず生きているとき、人間はまだ文化を持っていない。生きるなりふりに心を配り、人にも見られることを意識し始めたとき、生活は文化になる。
喫茶のなりふりを
気遣えば茶の湯が生まれ、立ち居ふるまいの形を意識すれば
舞踊が誕生する。【2】文化とは生活の様式だが、たんに
惰性的な習慣は様式とは呼べない。習慣が形として自覚され、外に向かって表現され、一つの規律として人びとに意識されたときに、文化は誕生する。
2. 【3】ところで何かを意識し表現することの
極致には、それを論じるという
行為がある。
舞踊が高度化すれば
模範が芽生え、
規範を意味づける主張が生まれ、やがてその延長上に
舞踊論が成立する。【4】どんな生活習慣も
掟を生み、
掟は法に高まって法理論を形成する。文化が生活の意識化の過程だとすれば、その最後の
到着点には文化論がなければならない。【5】文化論は文化についての後
知恵ではなく、文化そのものが自己を完成した形態なのである。
3. 古代ギリシャに政治文化が目覚めたとき、プラトンの国家論が世に出た。ギリシャ悲劇が完成したとき、それを評価するアリストテレスの演劇論が生まれた。【6】ルネサンスにも近代工業の
黎明期にも、人間はそれぞれの同時代論を書き、それを書くかたちで自分を文化的存在として完結させてきた。
4. そういう観点から見たとき、二十世紀は
旺盛な時代でもあり不毛な時代でもあった。【7】この百年ほど人間が自意識を強め、同時代論に関心を深めた世紀も
珍しい。シュペングラーからジョージ・オーウェル、リースマンからダニエル・ベルと、世紀の前半にも後半にも優れた現代論が続出した。【8】しかし反面、二十世紀はこの自意識の
鬼子ともいうべき思潮、内容的には正反対の二つの思潮が
猛威をふるい、文化論の深化を
妨げてもいたからである。
5. 【9】一つはもちろんマルクス史観であって、これは経済の立場から歴史の法則なるものを設け、その法則を尺度に文化を善悪二つに分類した。進歩的と反動的に二分された文化は、その本来の多様性を認められる道を失った。【0】もう一つの
弊害はこの一元主義とは逆に、
蛸壺的な専門化の思潮から
襲ってきた。人間の問題を考えるのに総合的な人間像を忘れ、学問の方法ごとに部分だけを見る努力が∵重ねられた。ここでは文化は本来の有機的な
脈絡を失い、生きることの意味づけ、時代批評としての文化論も道を
狭められた。
6. 当然、人間の生きる姿勢、文化活動そのものも二つの方向に
歪められた。生き方は一方で
粗雑な政治主義に
傾き、他方では視野の
狭い「専門ばか」に
堕した。芸術のような意識性の強い文化活動はとくに
象徴的であって、「人民に
奉仕する芸術」と「芸術のための芸術」が対立した。皮肉なことに両者は共通して党派的であって、後者もそれぞれのジャンルの方法論、その
純粋性を守るために
戦闘的になった。非マルクス的な芸術が「前衛」を
自称し、この百年つねに方法論のうえで「進歩的」であったのは、最大の皮肉だろう。
7. だがそれとは別に、この文化的な自意識を根本から
覆し、政治主義も「専門ばか」も無差別に
押し流すような力が、世紀の初めからひそかに用意されていた。従来あまり関連を
指摘されていないが、商業主義と文化相対主義の
暗黙の
連携である。ラジオや映画やテレビの
繁栄、そして文化に無記名の人気投票を行う大衆の台頭が背後にあった。それは自意識と
規範の弱い文化の
興隆であり、いわば文化論
抜きの文化の
圧倒的な
普及であった。
8. 文化相対主義は前世紀の人類学に始まり、民族文化の価値を平等視する思想として誕生した。やがて、これになぞらえて階層文化を平等視する主張が現れ、ハイ、ポピュラー、サブといった文化区分を相対化する思想が広まった。論者の主観的な意図とは別に、これが商業主義の席巻を助けたことは確実だろう。
漫画と文学、ファッションと美術の区別なく、売れるものが文化を支配することになった。同時に、つねに現在を重視する市場原理の結果として、ベストセラーがロングセラーの存在を難しくしてしまった。
9. これに止めを
刺すかたちで、前世紀末に芽生えたのが「デファクト・スタンダード」を容認する気風である。理由もなく、意識することさえなく、流行したものは正しいとする風潮である。国家よりも市場が、文化運動よりグローバルな消費動向が
優越するなかで、明らかに時代を批評する現代論の
傑作も
乏しくなった。しかし機械∵仕様の事実上の標準はやむをえないとしても、本来、意識化の産物である文化がこのままでよいはずはない。党派性や階層差別は
乗り越えながら、個々の文化活動、自分が生きる時代を批評する精神を復活しなければならない。それぞれの「私」が生きるなりふりの表現として、自己の文化的な
規範を論じなければならない。人間にデファクト・スタンダードがあるとすれば、動物的な本能か、文化以前の
惰性的な習慣のほかにはないからである。
10.(
山崎正和「二十一世紀の視点」より)