長文集  10月2週  ★なりふりかまわず(感)  wapu2-10-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】なりふりかまわず生きているとき、
人間はまだ文化を持っていない。生きるなり
ふりに心を配り、人にも見られることを意識
し始めたとき、生活は文化になる。喫茶のな
りふりを気遣えば茶の湯が生まれ、立ち居ふ
るまいの形を意識すれば舞踊が誕生する。【
2】文化とは生活の様式だが、たんに惰性的
な習慣は様式とは呼べない。習慣が形として
自覚され、外に向かって表現され、一つの規
律として人びとに意識されたときに、文化は
誕生する。
 【3】ところで何かを意識し表現すること
の極致には、それを論じるという行為がある
。舞踊が高度化すれば模範が芽生え、規範を
意味づける主張が生まれ、やがてその延長上
に舞踊論が成立する。【4】どんな生活習慣
も掟を生み、掟は法に高まって法理論を形成
する。文化が生活の意識化の過程だとすれば
、その最後の到着点には文化論がなければな
らない。【5】文化論は文化についての後知
恵ではなく、文化そのものが自己を完成した
形態なのである。
 古代ギリシャに政治文化が目覚めたとき、
プラトンの国家論が世に出た。ギリシャ悲劇
が完成したとき、それを評価するアリストテ
レスの演劇論が生まれた。【6】ルネサンス
にも近代工業の黎明期にも、人間はそれぞれ
の同時代論を書き、それを書くかたちで自分
を文化的存在として完結させてきた。
 そういう観点から見たとき、二十世紀は旺
盛な時代でもあり不毛な時代でもあった。【
7】この百年ほど人間が自意識を強め、同時
代論に関心を深めた世紀も珍しい。シュペン
グラーからジョージ・オーウェル、リースマ
ンからダニエル・ベルと、世紀の前半にも後
半にも優れた現代論が続出した。【8】しか
し反面、二十世紀はこの自意識の鬼子ともい
うべき思潮、内容的には正反対の二つの思潮
が猛威をふるい、文化論の深化を妨げてもい
たからである。
 【9】一つはもちろんマルクス史観であっ
て、これは経済の立場から歴史の法則なるも
のを設け、その法則を尺度に文化を善悪二つ
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に分類した。進歩的と反動的に二分された文
化は、その本来の多様性を認められる道を失
った。【0】もう一つの弊害はこの一元主義
とは逆に、蛸壺的な専門化の思潮から襲って
きた。人間の問題を考えるのに総合的な人間
像を忘れ、学問の方法ごとに部分だけを見る
努力が∵重ねられた。ここでは文化は本来の
有機的な脈絡を失い、生きることの意味づけ
、時代批評としての文化論も道を狭められ 
た。
 当然、人間の生きる姿勢、文化活動そのも
のも二つの方向に歪められた。生き方は一方
で粗雑な政治主義に傾き、他方では視野の狭
い「専門ばか」に堕した。芸術のような意識
性の強い文化活動はとくに象徴的であって、
「人民に奉仕する芸術」と「芸術のための芸
術」が対立した。皮肉なことに両者は共通し
て党派的であって、後者もそれぞれのジャン
ルの方法論、その純粋性を守るために戦闘的
になった。非マルクス的な芸術が「前衛」を
自称し、この百年つねに方法論のうえで「進
歩的」であったのは、最大の皮肉だろう。
 だがそれとは別に、この文化的な自意識を
根本から覆し、政治主義も「専門ばか」も無
差別に押し流すような力が、世紀の初めから
ひそかに用意されていた。従来あまり関連を
指摘されていないが、商業主義と文化相対主
義の暗黙の連携である。ラジオや映画やテレ
ビの繁栄、そして文化に無記名の人気投票を
行う大衆の台頭が背後にあった。それは自意
識と規範の弱い文化の興隆であり、いわば文
化論抜きの文化の圧倒的な普及であった。
 文化相対主義は前世紀の人類学に始まり、
民族文化の価値を平等視する思想として誕生
した。やがて、これになぞらえて階層文化を
平等視する主張が現れ、ハイ、ポピュラー、
サブといった文化区分を相対化する思想が広
まった。論者の主観的な意図とは別に、これ
が商業主義の席巻を助けたことは確実だろう
。漫画と文学、ファッションと美術の区別な
く、売れるものが文化を支配することになっ
た。同時に、つねに現在を重視する市場原理
の結果として、ベストセラーがロングセラー
の存在を難しくしてしまった。
 これに止めを刺すかたちで、前世紀末に芽
生えたのが「デファクト・スタンダード」を
容認する気風である。理由もなく、意識する
ことさえなく、流行したものは正しいとする
風潮である。国家よりも市場が、文化運動よ
りグローバルな消費動向が優越するなかで、
明らかに時代を批評する現代論の傑作も乏し
くなった。しかし機械∵仕様の事実上の標準
はやむをえないとしても、本来、意識化の産
物である文化がこのままでよいはずはない。
党派性や階層差別は乗り越えながら、個々の
文化活動、自分が生きる時代を批評する精神
を復活しなければならない。それぞれの「私
」が生きるなりふりの表現として、自己の文
化的な規範を論じなければならない。人間に
デファクト・スタンダードがあるとすれば、
動物的な本能か、文化以前の惰性的な習慣の
ほかにはないからである。

(山崎正和「二十一世紀の視点」より)