a 長文 7.1週 wapi2
 現代文明が、石油、石炭、天然ガスなどの化石燃料に依存いぞんし、化石燃料を利用して成り立っているのに対して、江戸えど文化は、太陽エネルギーだけを使って成り立っていた。具体的にいうなら、徹底的てっていてきに植物に依存いぞんし、植物を利用した時代だった。
 もちろん、植物以外の資源を利用する漁業や、鉱物を加工して金属や陶磁器とうじきを作る産業も発達したが、中心になるのはさまざまな形での植物の利用だった。植物を育てる重要な作業にも、人力とわずかな家畜かちくの力しか使わなかったが、考えてみると、人間は去年の太陽で育った穀物などを食べて動いているし、馬や牛も去年か今年の太陽で育った穀物やわら、草などで生きているから、結局は、産業も過去一、二年の太陽エネルギーだけを利用して成り立っていたことになる。
 今のように石油で暖めるハウス栽培さいばいをすれば、真冬でも胡瓜きゅうりやトマトを出荷できるし、大きな船で遠洋漁業に出れば、日本ではれない魚をって来ることもできる。ところが、太陽エネルギーだけを利用して植物栽培さいばいや漁業をやっていた当時は、それぞれの土地がらに合った作物を育て、季節の海産物を利用するほかなかった。
 江戸えど時代の産業が今の工業と根本的に違うちが のは、さまざまな物産の生産から加工まで、すべて人手によっていた点である。つまり、原料を育てるのも太陽エネルギーだけなら、それを加工して製品化するのも、太陽エネルギーの範囲はんいだけで行っていたのだ。力仕事や面倒めんどうなことはほとんど機械が肩代わりかたが  してくれる現代の作業に比べると、人力だけが動力の産業は、能率が悪く生産力も低い。
 しかし、手仕事による産業が、何でも機械で処理する近代産業に比べて、けっして劣っおと ているわけではない。手仕事は、不便なのではなく「小さな便利さ」の上に成り立っている別の種類の産業であり、生産量だけで近代産業と比べるのは間違っまちが ている。
 もちろん、手仕事では大量生産ができないから利益も少なくて、大企業きぎょうにはなり得ないが、手仕事では需要じゅようぎりぎりの量しか作れないため、生産過剰かじょうになる心配がない。ところが、大量生産を
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目的としている近代産業では、需要じゅように合わせて生産するというより、生産しただけ売るのが基本だから、大量生産にともなう大量の廃棄はいき物が出るという宿命を抱えかか ている。大勢の福の神の後には、必ず大勢の災いの神がついて来るのだ。
 手仕事の大きな長所は、製造の能率はきわめて悪いが、エネルギー効率がすぐれている点である。基本的には人間の労力だけでできるから、現在のエネルギー統計と同じように人間の労力を計算に入れなければ、エネルギー消費ゼロでできることになる。
 但しただ 、太陽エネルギーだけを利用して自分たちの土地がらに合った物産を作るのは、機械を使って工場生産するよりはるかにむずかしい。機械による生産は、大きなエネルギーが必要だが、どこに工場を設けても同じ製品を作れる。正確にいうなら、エネルギー効率がすぐれているというのを通り越しとお こ て、仙台平せんだいひらのような高級な布だろうが、美濃紙みのがみだろうが、会津あいづ蝋燭ろうそくだろうが、練馬大根だろうが、太陽エネルギー以外には何も使わず、エネルギーゼロでできるのだ。ところが、手作業では、その土地の気候風土に合った原料しかできないし、運送能力が低かった時代は、原料生産地からあまり遠くない場所で製造しないと値段が高くなってしまう。
 要するに、生産できるものがその土地の自然環境かんきょう影響えいきょうを強く受けるのだが、江戸えど時代の人々は、このことも前向きに利用した。つまり、各地の人々が自分なりに工夫して自分たちの土地がらに合った特産品を作り、こんな番付にまで出るような全国ブランドとして育て上げたのである。各地の気候風土という自然の力が育てた名産品を見ると、日本の国がいかに多様性に富んでいたかよくわかるが、これらの特産品を生み出した人々も、今の日本人よりはるかに多様性に富んでいた。

(石川英輔えいすけ氏の文章に基づく)
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a 長文 7.2週 wapi2
 人間が自分の行っている活動から充実じゅうじつ感を得たいと考えること、あるいは自分が生きていることに「張り合い」を感じたいと思うことは、きわめて自然で普遍ふへん的なことだと言って良いだろう。親が子どもの順調な成長ぶりを見て、自分の養育活動に充実じゅうじつ感を持つことも、会社員が自分の仕事の結果によって会社の業績が上がったことを喜ぶことも、ともにいつの時代にも見られる「生きがいの探究」と考えて良いはずだ。だが、にもかかわらず、「生きがい」という言葉の意味合いは時代によって微妙びみょうに変化してきたし、その微妙びみょう違いちが こそが重要なのではないか。
 たとえば、現代においてボランティア活動を行っている人々と、かつて学生運動を行っていた人々とでは、同じように「生きがい」を感じていたとしても、その「生きがい」を求める姿勢それ自体が違っちが ているように私には思われる。だから私は現代の「生きがいの探究」の意味について、こうした時代による意味の違いちが にこだわって考えることにしたい。
 いま例に出したような、学生運動をしていたような戦後日本社会の青年たちは、「生きがい」を自分の衣食住に関わる私生活や、それを維持いじするための稼ぎかせ 仕事ではなく、今よりももっと理想的な社会を作りだすための公共的な活動に求めていた。そうした活動に自己犠牲ぎせい的に没入ぼつにゅうすることによって、自分自身の社会的・実存的な存在意義を高めること。そうした理想主義的で前向きな行動が、彼らかれ の感じていた「生きがい」だったと思われる。
 そして実は、そうした理想を志向する「生きがい」感は、彼らかれ 軽蔑けいべつしていたような、同時代のごく平凡へいぼんな日本人にも共有されていた感覚だったと言える。なぜなら彼らかれ もまた、自分の生活状態に満足することなく、今よりももっと豊かな生活を「理想」として目指すことに「生きがい」を感じていたからだ。だからこそ、彼らかれ はあくせくと働いてお金を稼ぎかせ 黙々ともくもく 辛いつら 家事労働をこなすことができたのだ。つまりいずれにせよ、理想実現のために行動することが一九六〇年代までの日本社会の「生きがい」だったと思われる。
 しかし、一九七〇年代から八〇年代にかけて、このような「生き
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がい」感は大きな変貌へんぼう遂げと た。もはや人々は、未来の理想的状況じょうきょうのために現在を犠牲ぎせいにして活動することには「生きがい」を感じなくなったのである。今ここで得られる快楽を犠牲ぎせいにして、やってこない理想の未来のために馬車馬のように走り続けることの一体どこに充実じゅうじつ感があるのだろう。それよりも、欲望のままにブランド物の洋服を着て、豪華ごうかなレストランでの食事を楽しんだ方が、よほど自分の人生をその瞬間しゅんかんにおいて充実じゅうじつさせることになるのではないか。そう人々は考えはじめた。つまり彼らかれ は、その時その時の「現在」における即時そくじ的な快楽の充足じゅうそくに「生きがい」を感じ出したと言えよう。(中略)
 そして、一九九〇年代以降、不況ふきょうとなって消費生活が縮減され、阪神はんしん大震災だいしんさいによって豊かな消費生活の底の浅さが露呈ろていされてしまうと、人々は再び「生きがいの探究」に向かい始めたように見える。たとえばボランティア活動の普及ふきゅうは、人々が単なる私的欲望の充足じゅうそくだけでなく、自己犠牲ぎせい的な公共的活動に「生きがい」を見いだしている証拠しょうこだと言えよう。
 しかしやはり、そこにはかつての「生きがいの探究」とは微妙びみょう違いちが があるように私には思える。つまり現在の人々は、他者のために行動することに喜びを見いだしているというよりも、他者のためのボランティアをまるで「自分のため」に行っているように見えてしまうのだ(その真面目さを疑うわけではないが)。(中略)
 つまり「生きがいの探究」はいまや、未来の自分や社会を作りだすような理想志向的な活動ではなく、現在の日本社会の奇妙きみょう閉塞へいそく感を反映した、後ろ向きの活動になってしまっている。だから私たちは、「生きがいの探究」という美化された物語に簡単に乗るよりも、それを疑うところから「自分探し」の自閉空間を切り裂くき さ 可能性を見つけるべきだろう。

(長谷正人「生きがいの探究」から)
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a 長文 7.3週 wapi2
 二〇世紀という時代は、言語学と記号学の隆盛りゅうせいを見た時代として記録されることだろう。ぼく自身は、どちらの専門家ともいえないにせよ、今世紀の主だった哲学てつがく者たちをとおして、言語学と記号学にそれなりの関心を寄せてきたつもりだ。特に、イタリアの哲学てつがく者で小説家でもあるエーコの著作には、ずいぶんとお世話になった。このエーコによる記号の定義は、明快そのものだ。記号とは、それによってうそをつけるもののことだというのである。
 確かに、ぼくたちがあれこれと指示できるものの存在に縛らしば れたままだったとすれば、そもそも記号世界など存在しえないのかもしれない。はとがいたらはとを示し、さるがいたらさるを示す。それだけのことだったろう。しかし、言語記号によって、はとがいなくても、「はとがいる」と表現し、さるがいても、「さるはいない」と表現することができ、そういった表現によって指示対象のあるなしにかかわらず、しかるべき意味を伝えることができるのである。
 エーコの記号学は、指示対象と記号内容とを峻別しゅんべつするところに立ち、それはそれで十分に説得力をもつ。ただ、最近思うのは、そもそもうそをつこうとする意志についてだ。もちろん、記号というものがあるからこそ、だれであれ、うそをつくことができるのだろうが、うそをつこうとする意志については、それは、言語学や記号学の手に余るのかもしれない。しかしその一方で、うそをつこうとする意志の存在を考慮こうりょしないかぎり、言語や記号の研究も、どこか空虚くうきょなものとなりはてるのではないか。そんなことを漠然とばくぜん ながら考えるようになったのである。
 そうなるに当たっては、グラシアンを読み直しはじめたのが大きかったろう。グラシアンは、ちょうどデカルトと同時代のスペインの著作家だ。実践じっせん哲学てつがくとしては、見かけや外観の徹底的てっていてきな活用を説いたことで知られる。そのように説いた根底には、この世は敵意に対する戦いからなるという世界観があった。見かけや外観の効用とは、他面では隠蔽いんぺい偽装ぎそうの効用でもある。顔つきや言葉から手の内を見透かさみす  れないように、とでもいえばよいだろうか。これ
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は、今日でも十分に通用する処世術だろう。グラシアンの本が欧米おうべいのビジネスマンに重宝されているというのもうなずけないことではない。
 グラシアンの恐るべきおそ   ところは、神についても、見かけの術を適用してみせたことだ。この世のあれこれの外観だけで神の力が尽きつ ているとは、だれも思うまい。神は、そういった外観で推しはかれないほどの無限の力をもつ。人間が自らを偽装ぎそうしつつ、推しはかれないほどの力をもつように見せかけるとしたら、それは神の手口を模倣もほうしていることにもなるはずだ。だとすれば、神もまた、見かけの術の行使者ということになりかねまい。外観の術といおうと、隠蔽いんぺいの術といおうと、実のところ、うその技術というのと大差あるまいから、神は、嘘つきうそ  ちょう大家ということになってしまうのだ。
 アルゼンチンの作家、ボルヘスの『とらたちの黄金』に、「狂態きょうたい」という意味深長な一へんがある。衆人環視かんしのもと、狂気きょうきの発作におそわれたふりをして、仇敵きゅうてきを殺してしまう男の物語だ。男は、人殺しの最中には責任能力がなかったということで、無罪放免ほうめんとなる。グラシアンの思想と、このボルヘスの短篇たんぺんとが結びついたとき、正直いって、頭がくらくらとしたものだ。何か異常な事件が起こるたびに、被告ひこくは責任能力が問える精神状態にあったのかどうかが問題とされる。被告ひこく側は、当然、精神能力を問えない状態にあったふりをするだろう。こういった事態は、これからも、あれこれと進行していくに違いちが ない。見かけの術の行使者を看過しない毅然きぜんとした態度が求められる。しかし、それは、悪意に対する戦いという世界観が厳然と露呈ろていされることでもある。

しの原資明の文章による)
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a 長文 7.4週 wapi2
 数年前、F・フクヤマによる「歴史の終焉しゅうえん」をテーマとする論文が発表され、日本の言論界に、大きな反響はんきょうを引き起こしたことは、なお記憶きおくに新たなところであろう(「歴史は終わったのか」、月刊Asahi)。フクヤマはその後、この論文を、さらに大部の著書へと発展させ、それも様々な議論を呼んだ。フクヤマの論文は、十九世紀後半以降、世界の言論や思想と現実政治とをリードしてきたマルクス主義の歴史観の無効を公然と宣するものであり、とりわけ、冷戦の終了しゅうりょうが語られ始めた時期に発表されたこともあって、多大な関心が寄せられることになったのである。フクヤマによれば、冷戦が西側社会の勝利によって終結しつつあることは、資本主義社会の後に社会主義社会が到来とうらいするとしたマルクスの予言が誤っていたことを意味している。すなわち、西側において、今日、既にすで 成立しているか、あるいは成立しつつある自由民主主義的な統治と自由主義的な市場経済によって営まれるような社会こそが、歴史の進歩の最終段階に位置するものであり、そうだとすれば、マルクスよりも、むしろ、かれ影響えいきょう及ぼしおよ  たヘーゲルによる世界史の構想の方が、現実の歴史の進行により、適合的であるということになる。
 実際、明治期以来、「文明」であれ、「社会主義」であれ、そして、「近代社会」であれ、こうした観念は、いずれも、特定の理想の社会についての理念を表現するものであり、かつ、そうした理想に向けての進歩の過程に関しても、具体的な発展の段階や経過を示す図式が与えあた られていた。しかも、こうした発展の図式は、その到達とうたつ目標が欧米おうべいその他の社会で既にすで 実現されているものとされることで、より一層のリアリティを保っていた。そして、日本の現状が問題になる際、こうした図式に照らしてそれを批判したり、あるいは将来に向けての行動を考慮こうりょするということが、いわば自明の前提になっていたのである。しかるに、「歴史の終焉しゅうえん」という事態は、そうした発展の図式を提供してくれるものは、もはやないということを公然と告知するものであった。すなわち、遠い将来を展望した大いなる時間についての見取図を、われわれは、見失うことになったのである。F・フクヤマの言う「たいへん悲しい時期」、また「長く退屈たいくつな時代」は、そうである以上に、われわれ日
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本人にとっては、戸惑いとまど と混乱を感じさせる時期なのかもしれない。
 しかしながら、他方で、進歩の内実を規定するそれぞれの歴史の発展の図式は、明治以降の日本人の精神生活に一定の秩序ちつじょと方向を与えるあた  ものでありながら、まさに、それゆえに、そこに特有の緊張きんちょう感をもたらすものでもあった。その緊張きんちょう感とは、進歩の目標に向けて、ある種の切迫せっぱく感を伴っともな て時間の経過を体験することに他ならない。すなわち、日本が文明化しなければ世界列強にしていくことはできない、あるいは、社会主義の到来とうらいが必然であるとすれば、唯今ただいま現在如何なるいか  行動に出なければならないのか、さらには、早急に前近代的な状態を脱しだっ 欧米おうべいなみの社会を建設しなければ、日本は再び破局への道を歩むことになるといった焦燥しょうそう感が、近代日本人の精神生活に様々なかげを投じてきたのである。そうだとすれば、そうした観念が、もはや現実的な意味を持たないとされることは、われわれ日本人の従来の精神の構えに弛緩しかんをもたらすものであるとも言えよう。先に、「歴史の終焉しゅうえん」ということが、日本人に感慨かんがいをもたらすものだとしたのは、こうした、戸惑いとまど 弛緩しかんの入り交じった状態を指している。(中略)
 改めて振り返っふ かえ てみると、近代の日本において、「進歩」という観念が日本人の精神生活を大きく規定するなかで、実際の日本人の生活を特徴とくちょうづけたものは、必ずしも、そうした進歩に向けての特定の時間図式のみではなく、むしろ、それを意識しながらも、様々な陰影いんえいをもってあらわれる多様な時間体験であった。そして、そこには、日本が欧米おうべい近代社会に接する以前の伝統的な時間体験のあり方が、様々な形でかげを投じていた。そうだとすれば、われわれは、こうした近代の日本人の多様な時間体験のあり方のなかに、「歴史の終焉しゅうえん」の後の「たいへん悲しい時期」、あるいは「長く退屈たいくつな時代」において生を営んでいくうえでの何らかの示唆しさを見出せるかもしれないのである。 (坂本多加雄『近代日本精神史論』より)
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a 長文 8.1週 wapi2
 ウォン・カーウァイ監督かんとくの新作「花様年」の終わりにアンコール・ワットの遺跡いせきかべに開いた小さな穴に向かって、主人公は何事かをささやく。昔、大きな秘密を抱くいだ 者は山で大木を見つけ、幹に掘っほ た穴に秘密をささやくんだ。穴は土で埋めう て秘密が漏れも ないように永遠に封じこめるふう    映画の中でトニー・レオンの主人公が友人にこのように語ることばそのまま、六〇年代香港ほんこん片隅かたすみで秘やかに咲いさ こいはアンコールのかべの中に永遠に封じ込めふう こ られる。カメラが引いてゆくと、古代遺跡いせき回廊かいろうが、その神々の像が見下ろす高い天井てんじょうが、圧倒的あっとうてきな美しさで迫っせま てくる。全身がしびれるような感動を覚えながら、突如とつじょとして、沈黙ちんもくの中にある古代の遺跡いせきがいまなお現代の私たちにとって深い意味を有することを感じる。いく千年に亘っわた て人々の幸せと不幸、喜びと苦しみ、その秘密をいだいて沈黙ちんもくの中に存在してきたものの尊さ、これこそ古い文化遺産の限りのない価値なのだ、と。
 アフガニスタンでタリバーンがバーミヤンの大仏を破壊はかいしたことを暴挙と感じるのは、何よりも古代の大きな仏像の足もとにひざまずいて、いつの日か自分も祈念きねんしたいという深い思いがかなわなくなったからだ。この騒がしいさわ   世の中にあって、たとえ一時なりと、遺跡いせきが秘めてきたものを沈黙ちんもくの中に聞きとろうとする。それほどの慰めなぐさ が他にあるだろうか。
 人類の育んだ文化には、どのように些細ささいなものであれ、人間の心の叫びさけ 封じ込めふう こ られている。「文化の多様性」をいま尊重せよ、と願うのはそのためだ。
 すでに大方の記憶きおくからは失われたことかと思うが、昨年の七月に開かれた沖縄おきなわのサミット会議で、初めて文化が討議の対象となり、「文化の多様性」の擁護ようごが決議文に盛り込まも こ れた。これは注目に値する画期的な出来事であった。国連の教育・科学・文化機関
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であるユネスコも新世紀に向けて「文化の多様性」をその最大目標の一つに掲げかか ている。当事者の思惑おもわくはどうあれ、これらを空文にしてはならないと思う。
 今日、「文化の多様性」への脅威きょういは二つの方向から来る。一つはタリバーンの古代大仏破壊はかいのような宗教的過激主義による脅威きょういである。これには世界各地にみられる異文化拒否きょひと他者排斥はいせきを声高に主張する自文化・自民族中心主義や全体主義的イデオロギーの激しい動きなどが含まふく れる。こうした文化と人間の破壊はかいは、それが地球のどこで行われようと、真のグローバルな問題として受けとめる必要がある。仏像破壊はかいは日本の近代史とも無縁むえんではない。中国の文化大革命のような例もある。
 いま一つの脅威きょういは、グローバリゼーションのかけ声の下に急速に世界を席巻しつつある「ファストフード化」の波である。これは単に食品のことだけでなく、文化の簡易化・単純化と画一化のことを指す。グローバル文化なるいい方で世界に広がってきた文化現象はコカ・コーラ     化、ディズニー現象、マクドナルド化などと称さしょう れながら、Tシャツ、ジーンズ、スニーカーに多機能携帯けいたい電話にTVゲームとアニメといったポピュラー文化複合としてアメリカを発信源としている。しかるに、こうした生活文化は世界各地でローカルなものに溶け込みと こ ローカル文化を触発しょくはつし、日本発のファストフードの世界への広がりを生じさせた。回転寿司ずし、ラーメン、牛丼ぎゅうどんにポケモンはグローバルなファストフード文化の一部となった。(中略)
 二一世紀というのに、一方で偏狭へんきょうな過激主義、他方に非人間的な文化画一主義。その先にあるのは限りなく深い虚無きょむの世界である。

(青木 保の文による)
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a 長文 8.2週 wapi2
 美しい日本語が音を立てて崩壊ほうかいしつつある、元凶げんきょう近頃ちかごろの若者たちだと確信して、日本語の将来を、そして、日本の将来を、真剣しんけん憂慮ゆうりょしている人たちが少なくない。個性的な地方文化の象徴しょうちょうともいうべき温かい方言が、共通語に圧迫あっぱくされて絶滅ぜつめつの危機にあるというのも、それと同じ感覚に基づいている。
 伝統に培わつちか れた、美しく豊かなことばを崩壊ほうかいから守ろうという立場を純粋じゅんすい主義と言い、そういう立場をとる人たちを純粋じゅんすい主義者と言う。純粋じゅんすい主義者は高い年齢ねんれい層に多く、また、知識人/文化人などとよばれる言論の指導者や教育者にも密度が高い。純粋じゅんすい主義者にとって、新しく生じた言いかたは、無条件に汚いきたな ことばである。
 純粋じゅんすい主義/純粋じゅんすい主義者というよびかたには多分に皮肉な含みふく がある。融通ゆうずうのきかないガリガリのクソマジメということである。
 有限の語句で無限の事態を表現するのが言語であるから、場面/文脈/用法によって一つの語句も変幻へんげん自在に使用される。言語現象について考える場合、その基本原理を忘れて正しさだけにこだわると硬直こうちょくした議論になりやすい。
 純粋じゅんすい主義/純粋じゅんすい主義者という用語は、それぞれpurism/puristの訳語である。もとが外国語にあることは、「ことばの乱れ」が日本語に特有の問題ではないことを意味している。純粋じゅんすい主義を支えているのは、民族固有の、あるいは、地方固有の伝統文化についての誇りほこ である。その根底には、共通の言語をもつことによって社会の秩序ちつじょ維持いじされているという認識がある。言語の乱れは社会秩序ちつじょ/社会倫理りんりの乱れに連動しているというのが、純粋じゅんすい主義者たちの確信である。
 純粋じゅんすい主義者からみれば、現在の日本語は、彼等かれら自身がこれまでに体験したことのない混乱状態にある。しかも、混乱は急速に進行している。そういう個人的経験に基づく印象が意識下で一般いっぱん化され、日本語史上、かつて生じたことのない危機的混乱が目前に生
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じているという思い込みおも こ にすり変わっている。長い歴史をつうじて、大きな変化がたくさん生じたが、日本語は無傷のままであったという知識が彼等かれらには欠けている。彼等かれらにとっての日本語の起点は、自分たちがモノゴコロついた時期である。
 思い込みおも こ とは、客観的証拠しょうこに基づかない確信である。メディアをつうじて報道される若いむすめたちの破廉恥はれんちな行状とか、若者達の傍若無人ぼうじゃくぶじんの行動とか、彼等かれらの乱発する符丁ふちょうめいた半端はんぱな縮約語なとが、そういう確信を増幅ぞうふくしている。
 若い世代の人たちのことばづかいについて、年長の人たちが、なかでも教養階級の人たちが批判的であることは、いつの時期にも恒常こうじょう的にみられる現象である。たとえば、『徒然草』に、つぎの一節がある。
 何事も、古き世のみぞはしき。今様はむげに卑しくいや  こそなりゆくめれ。(略)文のことばなどぞ、昔の反古どもはいみじき。ただ言ふことばも、くちをしうこそなりもてゆくなれ。いにしへは、車もたげよ、火かかげよ、とこそ言ひしを、今様の人はもてあげよ、かきあげよ、と言ふ。(類例略)くちをしとぞ、古き人はおほせられし。
 「いにしへ」には、そういう卑しいいや  言いかたをしなかったものだと「古き人」が慨嘆がいたんしておっしゃった、ということである。現今の老人たちと同じように、14世紀の老人たちもまた、イマドキの若い者は、と慨嘆がいたんしている。懐古かいこ主義者は必ず純粋じゅんすい主義者である。

(小松英雄ひでおの文章による)
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a 長文 8.3週 wapi2
 「世界の最新ニュースがリアルタイムであなたのパソコンのデスクトップに」という広告を見た。もう時代はそんなところまできたのか、と感心すると同時に、世界中の情報がリアルタイムで流れこんできたら、私の神経は、あっという間に限界を超えこ 発狂はっきょう状態に入るのでは、と考えてしまった。
 現代のデジタルネットワーク社会は、光速の伝達速度をめざして同時性を世界全体に押しお 広げようとしている。情報が、即時そくじ的に遅延ちえんなく伝達されることこそ、電脳社会の見えざる目標なのかもしれない。私たちの心性も知らず知らずのうちに、速度礼賛者に変容していく。
 時間のかかる手紙に代わって、瞬時しゅんじに反応する電子メールを使うこと。書店に足を運ぶ代わりに、インターネット上の電子書店で、検索けんさくと注文を瞬時しゅんじ完了かんりょうさせてしまうこと。分厚い研究書や古典をじっくり読む代わりに、電子テキストでキーワード検索けんさくしながら、必要な個所を瞬時しゅんじに表示させること。思いついたとたんに、相手の携帯けいたい電話に気軽に接続して話してしまうこと……。つまり総じて、私たちは、欲した時に瞬時しゅんじに世界とコンタクトをとり、行動していることになる。
 ところで、情報といっても、その速度が情報の価値に大きくかかわるものと、そうではないものの二種類があることを忘れてはならない。
 例えば、台風やそれに伴うともな 交通の混乱の情報は、タイムラグがなければないほど価値が高く、速度はこの種の情報にとっては本質的である。そして、昨日出された台風情報は、今日の我々には何の価値もない。
 これに対して、文学や思想の古典的資料などは、伝達速度や時間的経過で価値が大きく変化することはない。
 この両者はもちろん、従来は情報と知識という形で明確に区別されてきたものである。しかし、あらゆるものが情報化され、ネットワーク上に蓄積ちくせき・開示されてしまう今日にあっては、すべて情報として処理され、この区別は忘却ぼうきゃくのかなたに追いやられてしまったようだ。
 私の個人的な体験にすぎないかもしれないが、自分との対話をじっくりと重ねながら学び味わったものは、いわば体得されたもの
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として、私に染み着いているが、早わかり方式で仕入れた情報は、私になんの痕跡こんせきも残さず、あっという間に消え去ってしまう。三日で覚えた情報は、三日で消え去ってしまうのである。
 情報の速度こそが絶対の価値となっている現代においては私たちは成熟していく存在であるよりは、瞬間しゅんかん的な反応マシン、つまり、情報が入りこんでは流れ出ていく一結節点にすぎない存在になっていくように感じられる。
 ハイデガー(ドイツの哲学てつがく者)は時間の本質を「時熟」、つまり「今」の連続としてではなく、時間性の成熟としてとらえた(『存在と時間』)。逡巡しゅんじゅんすること、反省すること、あるいは、熟考、熟練などは、情報のインプットに対して、きわめて膨大ぼうだい無駄むだに思われるタイムラグののちに、はじめてアウトプットが生じるたぐいの営みである。これらは瞬間しゅんかん的で切れ切れの今の積み重ねではなく、むしろ時間の成熟によるものだ。
 時間がかかる、時間の遅延ちえんがあることを、すべてタイムラグとして否定的にとらえたり、スピーディーであることが、私たちの豊かさを保証すると考えるならば、それは根本的な錯誤さくごであるように思われる。無駄むだな時間を省いて、残った時間で豊かな生活を、と喧伝けんでんされながら、その残った時間もすべて無駄むだな時間を省くという心性に汚染おせんされ、「時熟」を味わえないからだ。結局、私たちの生活はテンポ全体があわただしく加速しているだけなのである。
 私たちが便利さや速度の幻惑げんわくには徹底的てっていてきに弱い存在であること、しかし、それにもかかわらず、それに身をゆだねることは、私たちを徹底的てっていてきにやせ細った刹那せつな的存在にしてしまうこと。このことへの自覚は、今日においては決定的に重要であろう。
 現代の情報・消費・社会システム全体が、便利さと速さを「豊かさ」と称ししょう 、それに向けて邁進まいしんせざるをえない以上、私たちは、常に情報反応マシン、消費マシンに変形されつつある存在である。だとすれば、「時熟」や成熟の契機けいきは、外から与えあた られることを求めるのではなく、私たち自身の内側に自覚的に求めていくほかはないのかもしれない。
黒崎くろさき政男「電脳社会で自己を保つ」による)
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 人間と動物との差異について思いをめぐらしているとき、いつもわたしの脳裡のうりにこびりついて離れはな ないひとつの情景がある。それは未開人が狩りか にでかけるまえ、その狩りか の実りゆたかさを祈っいの てか、やりをたかだかとかざしつつ焚火たきびをかこんで狂気きょうきのように乱舞らんぶしているその傍らかたわ に、一ぴきのイヌが不審ふしんそうに首をかしげつつそれを眺めなが ている――そうした情景、あるいはそれに類似した情景である。
 ピアジェの理論によれば、模倣もほうと遊びとの発達は、感覚=運動的次元での調節と同化との不均衡ふきんこう環境かんきょうへの不適応にもとづくものだとのことだったが、それではなぜ幼児は、もっと直接的に適応自体のために努力しないで、ほとんどすべての時間を模倣もほうや遊びの非現実的世界の形成に傾注けいちゅうしてしまっているのだろうか? これにたいしてかれは、つぎのように答えている――幼児が感覚=運動的次元の直接性を超えこ 、時間・空間の両面で拡大された物理的実在に、またますます複雑化してゆく社会的実在に面接するとき、もはや同化と調節との直接的な均衡きんこうを実現することはできなくなり、あるときは調節することなく同化に、またあるときは同化することなく調節に赴いおもむ てしまうのであって、操作システムがあらわれてきたとき(七、八さいごろ)にのみ、この不均衡ふきんこう克服こくふくされてはじめて恒久こうきゅう的な均衡きんこうが達成されるのである、と。いちおう尤ももっと な理論ではあるが、しかし、これでは遊びが人間では成年に達してのちも末ながく、牢固ろうことして残ってしまうこと(つまりネオテニー現象)の理由が、十分に説明されないようにおもわれる。ほんとうは、人間には「恒久こうきゅう的な均衡きんこう」なぞあり得べくもないのであって、人間は存在そのものにおいて、ピアジェの楽天的な理論では押えおさ られないほど、不均衡ふきんこうで不安定な存在なのではないか。人間は自分では解決できないような課題をはじめから背負いこんでしまっていて、大人になっても真に適応することなぞできはしないのではないか。「人間は遊ぶときにのみ、完全な人間である」というシラー
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の有名な言葉は、ほんとうはそのままただちに、「完全な人間とは、すなわち不完全な生物である」と、読みなおされねばならぬのではないのか。
 ピアジェの理論成果をわたしたちのテーマにひきつけて解釈かいしゃくしなおすとき、人間が人間固有の文化形成をおこなうその根のところには、模倣もほうと遊びとが存在する、より単純化して言えば――というのは、模倣もほうの真の完成たる模倣もほうのための模倣もほう、表象的模倣もほうは、そのまま同時に遊びの一種、象徴しょうちょう的遊びでもあるのだから――遊びこそが存在する、ということになろう。なぜなら、模倣もほうと遊びこそが表象的次元を開くのであり、またその表象的次元の開幕を待ってはじめて人間文化がそのいとぐちにつくのであるからだ。その意味では、まことにJ・ホイジンハが言うとおり、文化の起源には遊びがあり、文化はその総体において遊び的性格をもち、人生とは一場の人間喜劇だ、とも言えるであろう。だが、ここでわたしたちは、ホイジンハのように早まってはならない。ここでいう遊びとは、なにも経験的な意味での遊びではないはずだからだ。もしも文化総体、人生総体が経験的意味での遊びだということになれば、論理必然的に、遊びと真面目仕事との経験的区別さえなくなってしまうであろう。そうではなくて、ここで問題になる遊びとは、経験的次元で遊びと同時に仕事をも可能にするもの、つまりは人間的経験一般いっぱんを可能にするものであり、そういうものとして、いわば超越ちょうえつ論的な遊び、ここであえてカントの用語をりれば生産的想像力、ないしは先験的想像力とでも言うべきものである。この生産的想像力に裏から支えられて、わたしたちははじめて経験的次元で、人間としての遊びも仕事もともに営むことができるようになるのである。

(竹内芳郎『文化の理論のために』)
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 自己の存在、この私が存在しているということは、あらゆる存在の可能性とまったく等価な事態である。それゆえまた、この私が存在していなければ、あらゆる事物のあらゆる存在者の存在ということがありえないだろう。いま、可能的・現実的な存在の全体を「宇宙」と呼ぶことにしよう。自己の存在は宇宙の存在と同値なのだ。このことは、過激な独我論を導くことになる。自己というものが有するある種の優越ゆうえつ性、自己の自己ということの究極の根拠こんきょも、この独我論と同じところに由来する。
 あらゆる事態(事物の特定の結びつき)は、知覚されたり、感覚されたり、予期されたり、想起されたり、判断されたり等々において存在している。知覚、感覚、予期、想起、判断等々のあらゆる心の働きを、ここでは志向作用と呼ぶ。任意の志向作用は、何ものかに帰属するものとして、何ものかに担われたものとして発現する。志向作用が帰属する存在者が、身体である。したがって、可能的・現実的なあらゆる事態と事物が、身体に対して存在していることになる。ある事物や事態は、この私(と指示された身体)に直接に現前しているだろう。しかし、ある事物、ある事態は、他者(他の身体)の志向作用の内に捉えとら られているに違いちが ない。ところで、こういった他者を知覚したり、想像したりするのも再びこの私である。つまり、他者は、この私に帰属する志向作用の内部にあるのだ。そうであるとすれば、あらゆる事物、あらゆる事態は、究極的には、この私に対するものとして、この私に帰属するものとして存在するほかない。私の存在と宇宙の存在が等価であるのは、このような連関を認めることができるからである。自己とは、可能的・現実的な事態を捉えるとら  志向作用の究極の帰属によって定義される身体のことである。だから、自己の絶対的な特権性は避けさ がたい結論である。
 自己と宇宙とが等価的な存在であるということは、「原理的にはどのような志向作用によっても自己(この私)は積極的に主題化されることがない」ということを意味している。たとえばヴィトゲンシュタインは、「私は歯が痛い(私は歯痛をもっている)Ich habe Zahnschmerzen」とか「私は考えている I think」と言うべきではなく、非人称にんしょうの主語を使って「歯痛がある Es gibtZahnschmerzen」とか「考えが生じている(それが考えている)It thinks」と言うべきだ、と主張している。歯痛や思考が生起しているとき、直接には、歯痛や思考を所有する私自身という観念はど
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こにも現れてはいない。われわれは生において事態を捉えるとら  心的印象(歯痛や思考)の継起けいきを体験するが、そのどこにもそれらの印象を所有する「私自身」は立ち現れることはない。事態を捉えるとら  任意の志向作用が究極的には自己に帰属しているとするならば、痛みや思考が「私」(自己)に所有されている、と主張することは、過剰かじょうな(不必要な)規定なのである。「痛み」は、「自己に帰属している」ということ、「この私に持たれている」ということをはじめから含んふく でおり、まさにそれゆえに「私が痛みを所有している」と言うべきではないのである。そのような言明は、私が所有しないことも可能な「痛み」の存在を含意がんいしてしまうからだ。
 ここから、「心を所有する、この私ではない身体」の存在、すなわち他者の存在は、否定されるように思われる。他者が存在するということは、たとえば、他者が、私と同様に「痛み」を所有するということである。「他者の痛み」とは、通常、「私のとほぼ同じだが、私ではなく他者に所有されている痛み」であると考えられている。つまり、「他者の痛み」は、「私が所有する痛み」をモデルにした類推によって得られるとされているのだ。しかし、ヴィトゲンシュタインによれば、このような類推は不可能である。私に所有されない(私に帰属しない)痛みはもはや「痛み」ではありえないからだ。こうして、われわれは一種の独我論に到達とうたつせざるをえない。
 しかし、このような独我論は、自らをまさに独我論として主張することを原理的に封じふう られている。すでに述べたように、志向作用が帰属する「この私」(自己)の存在を、積極的に主題化することはできないからだ。さらに言えば、そもそも、この独我論に立脚りっきゃくするならば、ちょうど私が他者の痛みを類推することが不可能であるように、原理的に、他者は私の志向内容を理解することができないのだ。それは沈黙ちんもくにおして示されるしかないような独我論である。

大澤おおさわ真幸「他者・関係・コミュニケーション」)
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 日本の伝統的な身体文化を一言でいうならば、「こしはら文化」ということになるのではないかと私は考える。現在の八〇代九〇代の人たちと話していると、こしはらを使った表現が数多く出てくる。
 こし据えるす  」「はらを決める」などは基本語彙ごいである。「昔ははらのできている人が仕事を任せられる人だった」という言葉も九〇代の男性から聞いた。ここで言われているこしはらは、精神的なこともふくんではいるが、その基盤きばんにはこしはらの身体感覚が実際にある。こし据えるす  」や「はらを決める」は、人間ならば生まれつきだれでもがもっているという感覚ではなく、文化によって身につけられる身体感覚である。こしはらの身体感覚が、数ある身体感覚の中でもとりわけ強調されることによって、からだの「中心感覚」が明確にされるのである。
 「現在の日本で、カラダに何が起こっているか」という問いに一言で答えるならば、「中心感覚」が失われているということになるのではないだろうか。自分の中にしっかりとした中心を感じることのできる人の割合は、かつてよりも相当減っている。この感覚は、「しんが通っている」「しんが強い」という表現のニュアンスを活かすならは、「しん感覚」と呼ぶこともできよう。
 こしはらを強調していた時代には、身体の中心感覚を常に意識することをもとめられていた。子どものころからこしが入っていなければ馬鹿ばかにされるという慣習があり、しっかりした中心感覚をつくりあげることが明確な課題となっていた。腰抜けこしぬ 」「へっぴり腰    ごし」「こしくだけ」「およびごし」「逃げ腰に ごし」「弱腰よわごし」「はらがない」「はらが決まらない」「腑抜けふぬ 」などは、身体に中心感覚あるいは中心じくの感覚ができていないことに関する厳しい批判の言葉である。こうした表現は、日常的に頻繁ひんぱんに用いられ、中心感覚を鍛えるきた  役割を果たしていた。
 こしはらができているかどうかは、たんに身体の中心感覚だけではなく、心の揺るがゆ  なさをも含んふく でいる。当時の人びとにとって
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は、心とからだは切り離すき はな ことのできないものであった。へっぴり腰    ごしでありながらも、揺るがゆ  ないしっかりとした心をもっているというようには考えられなかった。現実には、身心はそのように単純に重ね合わせて考えることはできないものかもしれないが、あえてそのように重ね合わせることによって、身心の教育、文化の伝承が同時になされる効率のよさがあった。
 こしはらが決まっていれば背骨はその上に正しく据えす られることになり、背筋は自然と伸びるの  こしの構えが崩れくず ているときに無理に背骨を垂直にしようとしても湾曲わんきょくしてしまう。背骨が中心じくの感覚の基本であるとすれば、中心じくの感覚はこしの構えのつくり方に大きくかかっている。
 「明治の人は一本筋が通っていた」ということがしばしば言われる。これは精神的な意味では善悪の基準がはっきりとしていたということや強い意志の力を意味すると同時に、からだの側面で言えば「こしを立てる」ことができていたことを意味する。「こしを立てる」感覚は現在あまり強調されることがないが、幕末・明治期の写真を見るとわかるように、当時は基本的な技であった。
 ここで重要なのは、「身体感覚の技化」ということである。身体感覚は、通常は何かの刺激しげきに対して反応する一回性のものだと考えられがちである。しかし、身体感覚も文化的なものであり、習慣によって形成されるものである。こしはらに関する感覚はその典型であり、生活の中で何度も訓練され、身につけられた一つの技である。(中略)
 身体感覚は、気持ちよさを感じる方向へ身体を解放するという文脈で語られることが多い。この文脈では、身体感覚は訓練されたり技にされるものではない。しかし、「身体感覚を技化する」という考え方をすることによって一回一回の身体感覚に流れていくのではない方向性が見えてくる。身体感覚が技となって身につくことで、よりたしかな充実じゅうじつ感が得られる可能性が生まれるのである。

(「身体感覚を取り戻すと もど 」(斎藤さいとう孝)より)
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 地球規模で自然環境かんきょうが危機にひんしている現代にあって、地球環境かんきょう問題は、国境を超えこ 広範こうはんな地域で考えられねばならない問題である。その原因は個人や企業きぎょう、街や地域などの環境かんきょう負荷の総和から成り立っている。つまりすべての自然環境かんきょう問題には人間が関与かんよしているのであって、その背景には環境かんきょうの保全と育成を怠っおこた た人間優先の姿勢がうかがわれる。この反省のもとに、近年とくに地球の生態系に目を向けた取り組みが急速な勢いで高まりをみせている。
 人間中心主義による環境かんきょう破壊はかいを反省し、「他者」としての自然を修復し育てるための活動が、現在のエコ活動の本論となっている。そしてここでもまた人類総体として、グローバルな見地から巨大きょだい貢献こうけん心が発動され、地球規模での自然環境かんきょうを「他者」とする種々な取り組みが進められている。ところが現実に進行しているエコ活動のなかには、本来の貢献こうけん活動から考えると意味を異にする内容があるような気がしてならない。貢献こうけん心の視点からこれらの問題点を考えてみよう。
 たとえば有限な資源である化石資源(石油や石炭)を守ることは持続的な経済にとって大切なことである。他方、代替だいたいエネルギーとして開発が進められている原子力発電には、環境かんきょう上の深刻な問題が取り沙汰と ざたされている。またオゾン層を破壊はかいする原因として、フロンガスの影響えいきょうがクローズアップされ、さらに新たに開発された物質については、もっと強い温室効果が囁かささや れている。
 それだけではない。人口爆発ばくはつ指摘してきされるアフリカや東南アジア地域の食糧しょくりょう確保の問題は深刻だ。最大の食糧しょくりょう輸出国である米国では世界の食糧しょくりょう事情を改善させるという名目で、無制限な大規模農法を行った結果、地下水脈を枯渇こかつさせて、土壌どじょうの悪化に拍車はくしゃをかけてしまった。たとえば米国中部にある広大なプレイリー地域の生態系に起きた異変は、大規模農法による弊害へいがいとされ、枯渇こかつしてしまった水脈を修復するには何万年という自然放置期間が必要とさ
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れるといわれている。
 これらの例に見るように、人間が自然を利用して何らかの問題に取り組もうとして開発した方法が、次々と新たな自然破壊はかいをもたらすといった悪循環あくじゅんかん指摘してきされているのである。
 そこには人間中心の開発主義があった。つまり人間が必要とする活動によって自然環境かんきょうがダメージを受け、その結果、不都合なことが起きたから、今度はエコ活動を進めて、人間にとって都合のよいものに開発していこうとする考え方である。
 さて、ここで見えてくるエコ活動には、私が言う貢献こうけん心はまったく示されていない。なぜなら人間が「自然」のためにとの名目で、実は「自分」のために行う行為こういに、他者である自然に向けての「貢献こうけん」の意識は欠落しているからだ。その実態はむしろ「エコ」ではなく「エゴ」である。
 たとえ手前勝手でも、自然環境かんきょうについて考えたり、またみずみずしい自然を回復したいと願う自然な動機は間違っまちが てはいない。ただしそんな純粋じゅんすいな動機でさえ、あまりにも特定の自然に集中していると、ふと気がつくと自分勝手なものに陥っおちい て、自然を破壊はかいしてしまう方向に向かってしまう。このような動きに私たちは監視かんしの目を怠っおこた てはならない。そのため現在のエコ活動にある発想をもう一度検証してみる必要性はないだろうか。
 現在、G7や環境かんきょうサミットなど、世界のトップが集まって提起されるグローバルな宣言についても、やはり「これからは人間中心の発想で問題を解決する」といった方向性が示されているが、私にはそう簡単には受け止めがたい。なぜなら、そこには依然としていぜん   「人間中心」といった発想に含まふく れる「開発至上主義」的なニュアンスに歯止めがかけられてはいないように思われるからだ。実は、この「人間中心主義」こそ、人類を「開発至上主義」に向かわせたそのものの原因となったからである。

たき久雄ひさお貢献こうけんする気持ち」による)
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 近年の思想界において著しく目に立つのは、知識の客観性というものが重んぜられなくなったことであると思う。始からある目的のために、成心を以て組み立てられたような議論が多い。従って他の論説、特に自己の考に反する論説を十分に理解し、しかる後これを是非ぜひするというのではなくして、いたずらに他の論説の一端いったん捉えとら てこれを非議するに過ぎない、自己批評というものは極めて乏しいとぼ  単なる独断的信念とか、他の学説を丸呑みまるの にしたものが多い。私はある動物学者から聞いたことであるが、ダーウィンの『種の起原』という書物は極めて読みづらいものである。その故はダーウィンという人は、自己の主張に反したような例を非常に沢山たくさん挙げる。読み行くうちにダーウィン自身の主張が分らなくなる位だというのである。私はこういう話を聞いて、非常にダーウィンという人に敬服した。苟もいやしく 学問に従事するものは、こういう心がけがなければならぬ、こういう誠実さがなければならぬ。知識の客観性といっても、私はある一時代に真理と考えられたものが、永遠不変だというのではない。知識の客観性というのは、そういうことを意味するのではない。何千年来自明の真理と考えられたユークリッドの公理すら、自明でなくなった。しかしそれは単に変ったのではない。ユークリッド幾何きか学が一層一般いっぱん的な幾何きか学の一つの場合となったのである。今日の新物理学に対して、ニュートンの物理学でもそうである。数学は数学として、物理学は物理学として、それ自身の客観性をっているのである。哲学てつがくとか精神科学とかいうものは、数学とか自然科学というごときものと異って、各時代の社会的構造に支配せられるということは免れまぬか ないであろう。しかしそれでも、それらのものも、単に変ずるものではない。単にその時代のある目的以外に、何らの意味をたないものではない。それが学問的真理と考えられるかぎり、それぞれの立場において永遠なるものに触れるふ  ということがなければならない。如何なるいか  時代に如何なるいか  哲学てつがく的学問が発展したかということは、歴史的・社会的に説明せられるかも知らない。しかしその内容は単なる物質的存在から説明せられる
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のではない。すべて歴史的・社会的存在と考えられるものは、如何にいか 物質的と考えられるものであっても、それは精神的内容をったものでなければならない、即ちすなわ 表現的でなければならない。かかるものの内容が永遠化せられるだけ、それだけ文化というものが成立するのである。下部構造の変ずるに従って上部構造が変じ行くとしても、その意義内容は単に経済的構造の意義内容から説明することはできない。そしてその意義内容の独自性というものなくして、文化的存在というものはない。文化内容というものがそれ自身の独自性を有せないで、単なる階級的イデオロギーに過ぎないとするならば、文化的存在というものはないというと同様でなければならない。意識というものが単に映すものであって、それ自身に何らの独自性というものがないとすれば、要するに、それは無と択ぶえら 所はない、人間は単に身体というものに帰するの外はない。これに反し物質的なるものから意識的なるものが出ると考えるならば、物質と考えられるものは既にすで それを生む性質をったものでなければならぬ。単に自然科学的に考えられる物質というものから意識が出るとはいわれない。弁証法的物質というなら、弁証法的物質とは如何なるいか  ものなるかが根柢こんてい的に究明せられねばならない。脳髄のうずいというものが意識の基と考えられるには、その脳髄のうずいというものが単なる物質的実在というごときものではなくして、既にすで 自己自身を表現的に限定するものでなければならない、歴史的事物の性質をったものでなければならない。しかしてそういう意味の脳髄のうずいというものを考えるというのは、既にすで 実在そのものに意識の起源的なものを認めることでなければならない。
 政治上の目的のために学問が作られるのでなく、学問はいつでも批評的指導的立場に立つものでなければならない。しかして学問がそういう役目を果すには、学問というものは何処までも客観的ということを理想とせなければならない、何処までも深い広い理論的基礎きその上に立てられなければならない。

(西田幾多郎「知識の客観性」)
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