長文集  9月4週  ○近年の思想界において  wapi2-09-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/05/23 18:04:16
 【1】近年の思想界において著しく目に立
つのは、知識の客観性というものが重んぜら
れなくなったことであると思う。始から或目
的のために、成心を以て組み立てられたよう
な議論が多い。【2】従って他の論説、特に
自己の考に反する論説を十分に理解し、しか
る後これを是非するというのではなくして、
徒(いたず)らに他の論説の一端を捉えてこ
れを非議するに過ぎない、自己批評というも
のは極めて乏しい。【3】単なる独断的信念
とか、他の学説を丸呑みにしたものが多い。
私は或動物学者から聞いたことであるが、ダ
ーウィンの『種の起原』という書物は極めて
読みづらいものであ る。【4】その故はダ
ーウィンという人は、自己の主張に反したよ
うな例を非常に沢山挙げる。読み行く中(う
ち)にダーウィン自身の主張が分らなくなる
位だというのである。私はこういう話を聞い
て、非常にダーウィンという人に敬服した。
【5】苟も学問に従事するものは、こういう
心掛(がけ)がなければならぬ、こういう誠
実さがなければならぬ。知識の客観性といっ
ても、私は或一時代に真理と考えられたもの
が、永遠不変だというのではない。【6】知
識の客観性というのは、そういうことを意味
するのではない。何千年来自明の真理と考え
られたユークリッドの公理すら、自明でなく
なった。しかしそれは単に変ったのではない
。【7】ユークリッド幾何学が一層一般的な
幾何学の一つの場合となったのである。今日
の新物理学に対して、ニュートンの物理学で
もそうである。数学は数学として、物理学は
物理学として、それ自身の客観性を有(も)
っているのである。【8】哲学とか精神科学
とかいうものは、数学とか自然科学という如
(ごと)きものと異って、各時代の社会的構
造に支配せられるということは免れないであ
ろう。しかしそれで も、それらのものも、
単に変ずるものではない。【9】単にその時
代の或目的以外に、何らの意味を有(も)た
ないものではない。それが学問的真理と考え
られるかぎり、それぞれの立場において永遠
なるものに触れるということがなければなら
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ない。【0】如何なる時代に如何なる哲学的
学問が発展したかということは、歴史的・社
会的に説明せられるかも知らない。しかしそ
の内容は単なる物質的存在から説明せられる
∵のではない。すべて歴史的・社会的存在と
考えられるものは、如何に物質的と考えられ
るものであっても、それは精神的内容を有(
も)ったものでなければならない、即ち表現
的でなければならない。かかるものの内容が
永遠化せられるだけ、それだけ文化というも
のが成立するのである。下部構造の変ずるに
従って上部構造が変じ行くとしても、その意
義内容は単に経済的構造の意義内容から説明
することはできない。そしてその意義内容の
独自性というものなくして、文化的存在とい
うものはない。文化内容というものがそれ自
身の独自性を有せないで、単なる階級的イデ
オロギーに過ぎないとするならば、文化的存
在というものはないというと同様でなければ
ならない。意識というものが単に映すもので
あって、それ自身に何らの独自性というもの
がないとすれば、要するに、それは無と択ぶ
所はない、人間は単に身体というものに帰す
るの外はない。これに反し物質的なるものか
ら意識的なるものが出ると考えるならば、物
質と考えられるものは既にそれを生む性質を
有(も)ったものでなければならぬ。単に自
然科学的に考えられる物質というものから意
識が出るとはいわれない。弁証法的物質とい
うなら、弁証法的物質とは如何なるものなる
かが根柢的に究明せられねばならない。脳髄
というものが意識の基と考えられるには、そ
の脳髄というものが単なる物質的実在という
如(ごと)きものではなくして、既に自己自
身を表現的に限定するものでなければならな
い、歴史的事物の性質を有(も)ったもので
なければならない。しかしてそういう意味の
脳髄というものを考えるというのは、既に実
在そのものに意識の起源的なものを認めるこ
とでなければならな い。
 政治上の目的のために学問が作られるので
なく、学問はいつでも批評的指導的立場に立
つものでなければならない。しかして学問が
そういう役目を果すには、学問というものは
何処までも客観的ということを理想とせなけ
ればならない、何処までも深い広い理論的基
礎の上に立てられなければならない。

(西田幾多郎()「知識の客観性」)