長文集  9月1週  ★自己の存在(感)  wapi2-09-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】自己の存在、この私が存在している
ということは、あらゆる存在の可能性とまっ
たく等価な事態である。それゆえまた、この
私が存在していなければ、あらゆる事物のあ
らゆる存在者の存在ということがありえない
だろう。【2】いま、可能的・現実的な存在
の全体を「宇宙」と呼ぶことにしよう。自己
の存在は宇宙の存在と同値なのだ。このこと
は、過激な独我論を導くことになる。自己と
いうものが有するある種の優越性、自己の自
己牲ということの究極の根拠も、この独我論
と同じところに由来する。
 【3】あらゆる事態(事物の特定の結びつ
き)は、知覚された り、感覚されたり、予
期されたり、想起されたり、判断されたり等
々において存在している。知覚、感覚、予期
、想起、判断等々のあらゆる心の働きを、こ
こでは志向作用と呼ぶ。【4】任意の志向作
用は、何ものかに帰属するものとして、何も
のかに担われたものとして発現する。志向作
用が帰属する存在者が、身体である。したが
って、可能的・現実的なあらゆる事態と事物
が、身体に対して存在していることになる。
ある事物や事態は、この私(と指示された身
体)に直接に現前しているだろう。【5】し
かし、ある事物、ある事態は、他者(他の身
体)の志向作用の内に捉えられているに違い
ない。ところで、こういった他者を知覚した
り、想像したりするのも再びこの私である。
【6】つまり、他者は、この私に帰属する志
向作用の内部にあるのだ。そうであるとすれ
ば、あらゆる事物、あらゆる事態は、究極的
には、この私に対するものとして、この私に
帰属するものとして存在するほかない。【7
】私の存在と宇宙の存在が等価であるのは、
このような連関を認めることができるからで
ある。自己とは、可能的・現実的な事態を捉
える志向作用の究極の帰属によって定義され
る身体のことである。【8】だから、自己の
絶対的な特権性は避けがたい結論である。
 自己と宇宙とが等価的な存在であるという
ことは、「原理的にはどのような志向作用に
よっても自己(この私)は積極的に主題化さ
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れることがない」ということを意味している
。【9】たとえばヴィトゲンシュタインは、
「私は歯が痛い(私は歯痛をもっている)I
ch habe Zahnschmerze
n」とか「私は考えている I think
」と言うべきではなく、非人称の主語を使っ
て「歯痛がある Es gibtZahns
chmerzen」とか「考えが生じている
(それが考えている)It thinks」
と言うべきだ、と主張している。【0】歯痛
や思考が生起しているとき、直接には、歯痛
や思考を所有する私自身という観念はど∵こ
にも現れてはいない。われわれは生において
事態を捉える心的印象(歯痛や思考)の継起
を体験するが、そのどこにもそれらの印象を
所有する「私自身」は立ち現れることはない
。事態を捉える任意の志向作用が究極的には
自己に帰属しているとするならば、痛みや思
考が「私」(自己)に所有されている、と主
張することは、過剰な(不必要な)規定なの
である。「痛み」は、「自己に帰属してい 
る」ということ、「この私に持たれている」
ということをはじめから含んでおり、まさに
それゆえに「私が痛みを所有している」と言
うべきではないのである。そのような言明は
、私が所有しないことも可能な「痛み」の存
在を含意してしまうからだ。
 ここから、「心を所有する、この私ではな
い身体」の存在、すなわち他者の存在は、否
定されるように思われる。他者が存在すると
いうことは、たとえば、他者が、私と同様に
「痛み」を所有するということである。「他
者の痛み」とは、通常、「私のとほぼ同じだ
が、私ではなく他者に所有されている痛み」
であると考えられている。つまり、「他者の
痛み」は、「私が所有する痛み」をモデルに
した類推によって得られるとされているのだ
。しかし、ヴィトゲンシュタインによれば、
このような類推は不可能である。私に所有さ
れない(私に帰属しない)痛みはもはや「痛
み」ではありえないからだ。こうして、われ
われは一種の独我論に到達せざるをえない。
 しかし、このような独我論は、自らをまさ
に独我論として主張することを原理的に封じ
られている。すでに述べたように、志向作用
が帰属する「この私」(自己)の存在を、積
極的に主題化することはできないからだ。さ
らに言えば、そもそも、この独我論に立脚す
るならば、ちょうど私が他者の痛みを類推す
ることが不可能であるように、原理的に、他
者は私の志向内容を理解することができない
のだ。それは沈黙におして示されるしかない
ような独我論である。

(大澤真幸「他者・関係・コミュニケーショ
ン」)