長文集  8月4週  ○人間と動物との差異について  wapi2-08-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/05/23 18:28:48
 【1】人間と動物との差異について思いを
めぐらしているとき、いつもわたしの脳裡に
こびりついて離れないひとつの情景がある。
【2】それは未開人が狩りにでかけるまえ、
その狩りの実りゆたかさを祈ってか、槍をた
かだかとかざしつつ焚火をかこんで狂気のよ
うに乱舞しているその傍らに、一匹(ぴき)
のイヌが不審そうに首をかしげつつそれを眺
めている――そうした情景、あるいはそれに
類似した情景である。
 【3】ピアジェの理論によれば、模倣と遊
びとの発達は、感覚=運動的次元での調節と
同化との不均衡、環境への不適応にもとづく
ものだとのことだったが、それではなぜ幼児
は、もっと直接的に適応自体のために努力し
ないで、ほとんどすべての時間を模倣や遊び
の非現実的世界の形成に傾注してしまってい
るのだろうか? 【4】これにたいして彼は
、つぎのように答えている――幼児が感覚=
運動的次元の直接性を超え、時間・空間の両
面で拡大された物理的実在に、またますます
複雑化してゆく社会的実在に面接するとき、
もはや同化と調節との直接的な均衡を実現す
ることはできなくな り、【5】あるときは
調節することなく同化に、またあるときは同
化することなく調節に赴いてしまうのであっ
て、操作システムがあらわれてきたとき(七
、八歳ごろ)にのみ、この不均衡は克服され
てはじめて恒久的な均衡が達成されるのであ
る、と。【6】いちおう尤もな理論ではある
が、しかし、これでは遊びが人間では成年に
達してのちも末ながく、牢固として残ってし
まうこと(つまりネオテニー現象)の理由が
、十分に説明されないようにおもわれる。【
7】ほんとうは、人間には「恒久的な均衡」
なぞあり得べくもないのであって、人間は存
在そのものにおいて、ピアジェの楽天的な理
論では押えられないほど、不均衡で不安定な
存在なのではないか。【8】人間は自分では
解決できないような課題をはじめから背負い
こんでしまっていて、大人になっても真に適
応することなぞできはしないのではないか。
【9】「人間は遊ぶときにのみ、完全な人間
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である」というシラー∵の有名な言葉は、ほ
んとうはそのままただちに、「完全な人間と
は、すなわち不完全な生物である」と、読み
なおされねばならぬのではないのか。
 【0】ピアジェの理論成果をわたしたちの
テーマにひきつけて解釈しなおすとき、人間
が人間固有の文化形成をおこなうその根のと
ころには、模倣と遊びとが存在する、より単
純化して言えば――というのは、模倣の真の
完成たる模倣のための模倣、表象的模倣は、
そのまま同時に遊びの一種、象徴的遊びでも
あるのだから――遊びこそが存在する、とい
うことになろう。なぜなら、模倣と遊びこそ
が表象的次元を開くのであり、またその表象
的次元の開幕を待ってはじめて人間文化がそ
の緒につくのであるからだ。その意味では、
まことにJ・ホイジンハが言うとおり、文化
の起源には遊びがあ り、文化はその総体に
おいて遊び的性格をもち、人生とは一場の人
間喜劇だ、とも言えるであろう。だが、ここ
でわたしたちは、ホイジンハのように早まっ
てはならない。ここでいう遊びとは、なにも
経験的な意味での遊びではないはずだからだ
。もしも文化総体、人生総体が経験的意味で
の遊びだということになれば、論理必然的 
に、遊びと真面目仕事との経験的区別さえな
くなってしまうであろう。そうではなくて、
ここで問題になる遊びとは、経験的次元で遊
びと同時に仕事をも可能にするもの、つまり
は人間的経験一般を可能にするものであり、
そういうものとして、いわば超越論的な遊 
び、ここであえてカントの用語を藉(か)り
れば生産的想像力、ないしは先験的想像力と
でも言うべきものである。この生産的想像力
に裏から支えられて、わたしたちははじめて
経験的次元で、人間としての遊びも仕事もと
もに営むことができるようになるのである。

(竹内芳郎()『文化の理論のために』)