長文 8.2週
1. 【1】美しい日本語が音を立てて崩壊ほうかいしつつある、元凶げんきょう近頃ちかごろの若者たちだと確信して、日本語の将来を、そして、日本の将来を、真剣しんけん憂慮ゆうりょしている人たちが少なくない。【2】個性的な地方文化の象徴しょうちょうともいうべき温かい方言が、共通語に圧迫あっぱくされて絶滅ぜつめつの危機にあるというのも、それと同じ感覚に基づいている。
2. 【3】伝統に培わつちか れた、美しく豊かなことばを崩壊ほうかいから守ろうという立場を純粋じゅんすい主義と言い、そういう立場をとる人たちを純粋じゅんすい主義者と言う。純粋じゅんすい主義者は高い年齢ねんれい層に多く、また、知識人/文化人などとよばれる言論の指導者や教育者にも密度が高い。【4】純粋じゅんすい主義者にとって、新しく生じた言いかたは、無条件に汚いきたな ことばである。
3. 【5】純粋じゅんすい主義/純粋じゅんすい主義者というよびかたには多分に皮肉な含みふく がある。融通ゆうずうのきかないガリガリのクソマジメということである。
4. 有限の語句で無限の事態を表現するのが言語であるから、場面/文脈/用法によって一つの語句も変幻へんげん自在に使用される。【6】言語現象について考える場合、その基本原理を忘れて正しさだけにこだわると硬直こうちょくした議論になりやすい。
5. 純粋じゅんすい主義/純粋じゅんすい主義者という用語は、それぞれpurism/puristの訳語である。【7】もとが外国語にあることは、「ことばの乱れ」が日本語に特有の問題ではないことを意味している。純粋じゅんすい主義を支えているのは、民族固有の、あるいは、地方固有の伝統文化についての誇りほこ である。【8】その根底には、共通の言語をもつことによって社会の秩序ちつじょ維持いじされているという認識がある。言語の乱れは社会秩序ちつじょ/社会倫理りんりの乱れに連動しているというのが、純粋じゅんすい主義者たちの確信である。
6. 【9】純粋じゅんすい主義者からみれば、現在の日本語は、彼等かれら自身がこれまでに体験したことのない混乱状態にある。しかも、混乱は急速に進行している。【0】そういう個人的経験に基づく印象が意識下で一般いっぱん化され、日本語史上、かつて生じたことのない危機的混乱が目前に生∵じているという思い込みおも こ にすり変わっている。長い歴史をつうじて、大きな変化がたくさん生じたが、日本語は無傷のままであったという知識が彼等かれらには欠けている。彼等かれらにとっての日本語の起点は、自分たちがモノゴコロついた時期である。
7. 思い込みおも こ とは、客観的証拠しょうこに基づかない確信である。メディアをつうじて報道される若いむすめたちの破廉恥はれんちな行状とか、若者達の傍若無人ぼうじゃくぶじんの行動とか、彼等かれらの乱発する符丁ふちょうめいた半端はんぱな縮約語なとが、そういう確信を増幅ぞうふくしている。
8. 若い世代の人たちのことばづかいについて、年長の人たちが、なかでも教養階級の人たちが批判的であることは、いつの時期にも恒常こうじょう的にみられる現象である。たとえば、『徒然草』に、つぎの一節がある。
9. 何事も、古き世のみぞはしき。今様はむげに卑しくいや  こそなりゆくめれ。(略)文のことばなどぞ、昔の反古どもはいみじき。ただ言ふことばも、くちをしうこそなりもてゆくなれ。いにしへは、車もたげよ、火かかげよ、とこそ言ひしを、今様の人はもてあげよ、かきあげよ、と言ふ。(類例略)くちをしとぞ、古き人はおほせられし。
10. 「いにしへ」には、そういう卑しいいや  言いかたをしなかったものだと「古き人」が慨嘆がいたんしておっしゃった、ということである。現今の老人たちと同じように、14世紀の老人たちもまた、イマドキの若い者は、と慨嘆がいたんしている。懐古かいこ主義者は必ず純粋じゅんすい主義者である。

11.(小松英雄ひでおの文章による)