長文集  7月3週  ★二〇世紀という時代は(感)  wapi2-07-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】二〇世紀という時代は、言語学と記
号学の隆盛を見た時代として記録されること
だろう。ぼく自身は、どちらの専門家ともい
えないにせよ、今世紀の主だった哲学者たち
をとおして、言語学と記号学にそれなりの関
心を寄せてきたつもりだ。【2】特に、イタ
リアの哲学者で小説家でもあるエーコの著作
には、ずいぶんとお世話になった。このエー
コによる記号の定義は、明快そのものだ。記
号とは、それによって嘘をつけるもののこと
だというのである。
 【3】確かに、ぼくたちがあれこれと指示
できるものの存在に縛られたままだったとす
れば、そもそも記号世界など存在しえないの
かもしれない。鳩がいたら鳩を示し、猿がい
たら猿を示す。それだけのことだったろう。
【4】しかし、言語記号によって、鳩がいな
くても、「鳩がいる」と表現し、猿がいても
、「猿はいない」と表現することができ、そ
ういった表現によって指示対象のあるなしに
かかわらず、しかるべき意味を伝えることが
できるのである。
 【5】エーコの記号学は、指示対象と記号
内容とを峻別するところに立ち、それはそれ
で十分に説得力をもつ。ただ、最近思うの 
は、そもそも嘘をつこうとする意志について
だ。【6】もちろん、記号というものがある
からこそ、誰であれ、嘘をつくことができる
のだろうが、嘘をつこうとする意志について
は、それは、言語学や記号学の手に余るのか
もしれない。【7】しかしその一方で、嘘を
つこうとする意志の存在を考慮しないかぎり
、言語や記号の研究 も、どこか空虚なもの
となりはてるのではないか。そんなことを漠
然とながら考えるようになったのである。
 【8】そうなるに当たっては、グラシアン
を読み直しはじめたのが大きかったろう。グ
ラシアンは、ちょうどデカルトと同時代のス
ペインの著作家だ。【9】実践哲学としては
、見かけや外観の徹底的な活用を説いたこと
で知られる。そのように説いた根底には、こ
の世は敵意に対する戦いからなるという世界
観があった。見かけや外観の効用とは、他面
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では隠蔽や偽装の効用でもある。【0】顔つ
きや言葉から手の内を見透かされないように
、とでもいえばよいだろうか。これ∵は、今
日でも十分に通用する処世術だろう。グラシ
アンの本が欧米のビジネスマンに重宝されて
いるというのもうなずけないことではない。
 グラシアンの恐るべきところは、神につい
ても、見かけの術を適用してみせたことだ。
この世のあれこれの外観だけで神の力が尽き
ているとは、誰も思うまい。神は、そういっ
た外観で推しはかれないほどの無限の力をも
つ。人間が自らを偽装しつつ、推しはかれな
いほどの力をもつように見せかけるとしたら
、それは神の手口を模倣していることにもな
るはずだ。だとすれば、神もまた、見かけの
術の行使者ということになりかねまい。外観
の術といおうと、隠蔽の術といおうと、実の
ところ、嘘の技術というのと大差あるまいか
ら、神は、嘘つきの超大家ということになっ
てしまうのだ。
 アルゼンチンの作家、ボルヘスの『虎たち
の黄金』に、「狂態」という意味深長な一篇
がある。衆人環視のもと、狂気の発作におそ
われたふりをして、仇敵を殺してしまう男の
物語だ。男は、人殺しの最中には責任能力が
なかったということで、無罪放免となる。グ
ラシアンの思想と、このボルヘスの短篇とが
結びついたとき、正直いって、頭がくらくら
としたものだ。何か異常な事件が起こるたび
に、被告は責任能力が問える精神状態にあっ
たのかどうかが問題とされる。被告側は、当
然、精神能力を問えない状態にあったふりを
するだろう。こういった事態は、これからも
、あれこれと進行していくに違いない。見か
けの術の行使者を看過しない毅然とした態度
が求められる。しかし、それは、悪意に対す
る戦いという世界観が厳然と露呈されること
でもある。

(篠原資明の文章による)