ピラカンサ2 の山 7 月 3 週 (5)
★二〇世紀という時代は(感)   池新  
 【1】二〇世紀という時代は、言語学と記号学の隆盛を見た時代として記録されることだろう。ぼく自身は、どちらの専門家ともいえないにせよ、今世紀の主だった哲学者たちをとおして、言語学と記号学にそれなりの関心を寄せてきたつもりだ。【2】特に、イタリアの哲学者で小説家でもあるエーコの著作には、ずいぶんとお世話になった。このエーコによる記号の定義は、明快そのものだ。記号とは、それによって嘘をつけるもののことだというのである。
 【3】確かに、ぼくたちがあれこれと指示できるものの存在に縛られたままだったとすれば、そもそも記号世界など存在しえないのかもしれない。鳩がいたら鳩を示し、猿がいたら猿を示す。それだけのことだったろう。【4】しかし、言語記号によって、鳩がいなくても、「鳩がいる」と表現し、猿がいても、「猿はいない」と表現することができ、そういった表現によって指示対象のあるなしにかかわらず、しかるべき意味を伝えることができるのである。
 【5】エーコの記号学は、指示対象と記号内容とを峻別するところに立ち、それはそれで十分に説得力をもつ。ただ、最近思うのは、そもそも嘘をつこうとする意志についてだ。【6】もちろん、記号というものがあるからこそ、誰であれ、嘘をつくことができるのだろうが、嘘をつこうとする意志については、それは、言語学や記号学の手に余るのかもしれない。【7】しかしその一方で、嘘をつこうとする意志の存在を考慮しないかぎり、言語や記号の研究も、どこか空虚なものとなりはてるのではないか。そんなことを漠然とながら考えるようになったのである。
 【8】そうなるに当たっては、グラシアンを読み直しはじめたのが大きかったろう。グラシアンは、ちょうどデカルトと同時代のスペインの著作家だ。【9】実践哲学としては、見かけや外観の徹底的な活用を説いたことで知られる。そのように説いた根底には、この世は敵意に対する戦いからなるという世界観があった。見かけや外観の効用とは、他面では隠蔽や偽装の効用でもある。【0】顔つきや言葉から手の内を見透かされないように、とでもいえばよいだろうか。これ∵は、今日でも十分に通用する処世術だろう。グラシアンの本が欧米のビジネスマンに重宝されているというのもうなずけないことではない。
 グラシアンの恐るべきところは、神についても、見かけの術を適用してみせたことだ。この世のあれこれの外観だけで神の力が尽きているとは、誰も思うまい。神は、そういった外観で推しはかれないほどの無限の力をもつ。人間が自らを偽装しつつ、推しはかれないほどの力をもつように見せかけるとしたら、それは神の手口を模倣していることにもなるはずだ。だとすれば、神もまた、見かけの術の行使者ということになりかねまい。外観の術といおうと、隠蔽の術といおうと、実のところ、嘘の技術というのと大差あるまいから、神は、嘘つきの超大家ということになってしまうのだ。
 アルゼンチンの作家、ボルヘスの『虎たちの黄金』に、「狂態」という意味深長な一篇がある。衆人環視のもと、狂気の発作におそわれたふりをして、仇敵を殺してしまう男の物語だ。男は、人殺しの最中には責任能力がなかったということで、無罪放免となる。グラシアンの思想と、このボルヘスの短篇とが結びついたとき、正直いって、頭がくらくらとしたものだ。何か異常な事件が起こるたびに、被告は責任能力が問える精神状態にあったのかどうかが問題とされる。被告側は、当然、精神能力を問えない状態にあったふりをするだろう。こういった事態は、これからも、あれこれと進行していくに違いない。見かけの術の行使者を看過しない毅然とした態度が求められる。しかし、それは、悪意に対する戦いという世界観が厳然と露呈されることでもある。

(篠原資明の文章による)