a 長文 7.1週 wapi
 顔パスという言葉がある。「おれだ」「よし」という阿吽あうんの呼吸で、本来は規則として処理するところを当人どうしの個人的な関係で処理する方法である。なれ合いというと聞こえは悪いが、人間どうしの信頼しんらい関係を基礎きそにしている点で最も確実な方法とも言える。現代の法律や規則万能の社会では、このような人間の信頼しんらい関係に基づいた対応の仕方がもっと見直されてもよいのではないだろうか。
 そのための第一の方法は、相手を信じるだけの心の広さを持つことだ。信頼しんらいするということは、相手に自分をゆだねることである。場合によっては、自分が大きな損失を被るこうむ こともある。それにもかかわらず、相手にすべてを任せて信頼しんらいする。そういう決意があるからこそ、相手も自分を信頼しんらいしてくれる。ジャン・バルジャンは、自分を信じてくれた老司教を裏切った。しかし、翌朝憲兵に連れられてきたジャンに、司教は、「その銀の食器は私が与えあた たものだ」と告げる。このように、相手の善なる心に対する絶対の信頼しんらいが、人間らしい心をもとにした社会の基礎きそとなる。
 また、第二には、そのような人間どうしの信頼しんらいを支えるだけの社会の一体性を作ることだ。日本の社会の治安のよさは、世界の中でも際立っている。タクシーの中へ置き忘れた財布は、ほぼ確実に戻っもど てくる。日本人にとっては当たり前のように見えるこのようなことが、世界ではきわめてまれなことなのである。そういう社会が築かれたのは、日本が一つの民族、一つの言語、一つの文化を持った社会だったからである。異なる民族や文化と共存することはもちろん大切だが、それは日本の社会の中に異なる民族や文化が異質なまま広がっていいということではない。
 法と正義に基づいて判断するという考えは、確かに人類が長い歴史の中で勝ち取ってきた権利だ。だからこそ、この考えは世界のどこでも通用するグローバルな思想となっている。しかし、そのグローバリズムは、日本のように互いたが 信頼しんらい関係をもとに成り立ってき
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た社会では、人間の心を持たない冷たい機械のような対応に見える。大岡越前守おおおかえちぜんのかみが日本人に人気があるのも、人間の心の温もりを裁き方の中に生かしたからだ。顔パスで交わされるものは、単なる顔ではなく、互いたが の善意への信頼しんらいなのである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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a 長文 7.2週 wapi
 最近のいじめの例では、先輩せんぱい後輩こうはい関係の中ではいじめが発生していないという点が特徴とくちょう的であるように思われる。上級生が下級生をいじめるというケースがほとんどない。実際に子どもの付き合いの範囲はんいが、兄弟姉妹という世代間関係ではなくて同一の学年に集中してきている。子どもの大半が「ひとりっこ」で、世代間関係の付き合いのしかたが子どもの文化のなかで育っていないように見える。
 私がいじめられたときには先輩せんぱいが守ってくれた。先輩せんぱいからいじめられることもあったが、さすがに手加減してくる。つまり、先輩せんぱい後輩こうはい関係は、それもいじめの発生原因ではあるが、「管理されたいじめ」という特徴とくちょうをもちやすい。兄姉は家庭のなかでも、弟妹に対して保護しながら利用するという関係をつくる。この世代間関係が、「管理されたいじめ」という関係を生み出していた。それが現在、ひとりっこ化で失われてしまった。
 いじめに対する対策として、子どものなかに世代間関係を育てることは試みられてよいと思う。年長者が、年少者を保護したり指導したりするというタイプの経験が、今の子どもにはなさすぎる。具体的な役割の決まった行動が不足しているので、子どもはいじめる人、いじめられる人という役割をつくり出してしまう。
 学校では、先生という頂点をもとに各人が機械的に平均的な態度をとるようにつねに圧力が働いている。成績の良い子、身体の強い子などの差異は、極力、控えめひか  にしか表現されないように仕向けられている。子どもには、自分が何であるのかの確認ができないという漠然とばくぜん した不安がある。自分というものを発揮しようとすれば、成績を上げるよりほかにはない。学校のなかでの評価価値基準が、あまりにも単純化してしまっている。
 差異を示すこと、攻撃こうげき性を示すことは、学校のなかではなるべく回避かいひされる傾向けいこうにある。たとえば運動会では、昔は花形だった騎馬きば戦がなくなった。1、馬になる生徒と乗り手になる生徒が差別される。2、危険があって事故の場合の責任がとれない。3、子どもに攻撃こうげき性を身に付けさせる必要はない。このような現代の学校を支配する差別排除はいじょの文化の中で失われたのは、次のような要素で
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ある。1、上下、強弱、男女、大小、長幼などの違いちが に応じた役割分担で共同の目的を達成する。2、危険について自己責任の範囲はんいを明確にする。3、攻撃こうげき性の管理された発揮の方法を教える。
 現在、学校で教えていることは、攻撃こうげき性を発揮してはいけないという口先だけのタテマエである。競争心を煽るあお こともいけないとされている。しかし、実際には、できる子どもとできない子どもがいる。この違いちが を学校は隠そかく うとするが、隠しかく きれない。(中略)
 子どもに競争に勝つことによる優越ゆうえつ感を経験させるほうがいじめ減らしになる。ただし、その競争の種目が一つではいけない。一つしか種目がないとビリの子どもは永遠にビリである。複数の種目があって、数学でトップでもカラオケでビリ、短距離たんきょり走でトップでも習字でビリというような複合的な組み合わせで競争すべきである。子どもは自分が勝てる種目を選んで自分の優越ゆうえつ感を満たそうとするだろう。これが個性の発揮である。
 現在の学校は受験競争という種目しか提供していないし、それもタテマエ上、子どもの競争心を煽っあお てはいけないという欺瞞ぎまん的な平等主義が支配している。
 他者危害の原則は、「競争に勝ってよい」ということを含んふく でいる。自由競争の禁止ではなくて、自由競争の条件の公平を保証することが倫理りんり的な条件である。競争するということは、心理的には攻撃こうげき性の発揮であるが、相手にチャンスの平等を保証する限りで、倫理りんり的な他者危害ではない。フェアプレーの精神を高めて、競争させることは、いじめ対策の大事な点であるが、現在の教育者の多くは「競争をさせないこと」がいじめ対策だと誤解している。基本は「他者危害の原則」である。この原則を学校で教えられる体制になっていないということが、最大の問題点である。

加藤かとう尚武なおたけ「現代を読み解く倫理りんり学――応用倫理りんり学のすすめ2」より)
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a 長文 7.3週 wapi
 「フランダースの犬」は、私に多くのことを感じさせたが、自身でこしをすえて見た最後のアニメになった。やがて、子どもを持つようになり、「子育て補助材」として「アニメ」との付き合いが再開した。そのようななか、子どもがもの心つきだすと「それいけアンパンマン」(日本テレビ系列)をよろこんで見るようになった。
 アニメ化される前から絵本で「アンパンマン」を知っていたが、困った人を助けるほのぼのした話が多く好印象を持っていた。主人公は地味で体裁悪いが、懸命けんめいに人助けをしていた。それだけに、アニメに対しても、もの心つきだした子どもに、多くの教訓をあたえてくれるものと期待していた。絵本では体裁の悪かった主人公もアニメでは洗練され、ヨーロッパ風の街並みや雪をいただいた山々など背景も美しく、見た感じも良くなっている。わが家でも、ビデオに録画した「それいけアンパンマン」を、親の手を解放して欲しい時などなん度も見せていた。
 しかし、いく度か見せているうちに、原作者やなせたかし氏がテレビアニメ化を意識せずに絵本にえがいていたころの「アンパンマン」と、テレビアニメ「それいけアンパンマン」が別物に思えてきた。最初のころの絵本は、悪者バイキンマンが登場することも少なかったが、アニメでは、若干の例外をのぞいてバイキンマンが必ず登場し、悪さのかぎりをつくし、説得もさとしも通じず、最後はアンパンマンが「もう許さないぞバイキンマン! アーンパンチ!」でやっつけるという、まるで水戸黄門のようなワンパターンをくり返している。
 さすがに、「殺す」とか「死ね」といった言葉はふせられているが、「とどめだ」「やっつけてやる」という言葉で悪者がなにをしようとしているか、幼児たちにも十分わかる仕かけになっている。
 一九八八年の放映開始から十年近くたつが、バイキンマンと主人公たちの心の距離きょりはちぢまらない。相手になにが不足で、どうすれば歩みよれて争わずに済むのか、問題を根っこから解決しようとする場面がこのアニメでは登場しない。残念ながら、テレビアニメの「それいけアンパンマン」は、悪者はどこまでも悪いやつで、たたきのめすしかない」という考えを、幼い子どもたちにインプットしてしまいそうだ。子どもにこのアニメを見せた後、「お友だちとケンカにならへんためには、どうしたらいいやろね」「ケンカしても、なんでケンカになったか、後で考えようね」など、いつもなにかフォローを付けなければならなかった。
 
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もう少し子どもが成長すると、テレビ朝日系列の「ドラえもん」をよろこんで見るようになった。これも原作コミックでは、ほのぼのとした話が多いのに、テレビアニメになると、ずいぶんとエゲツないシーンがある。
 たとえば、テレビアニメでは毎回のように、ジャイアンやすね夫はのび太をなぐるシーンがあるが、なかには「今日はむしゃくしゃするから、のび太でもぶんなぐろう」「のび太のくせに生意気いうな」といったセリフまである。
 のび太は、この「いじめ」に、いつも、ドラえもんの「道具」をかりて抵抗ていこうしている。ところが、立場が変わると、今度はいじめる側にまわろうとする。けっきょく、調子に乗りすぎて、もとの木阿弥あみになるというパターンが、放映開始からずっとつづいている。年に一回、春休みに上映される映画の「ドラえもん」では、のび太も少しは根性があり、ジャイアンやすね夫も一方的ないじめっ子でないことが多い。主人公たちがいっしょに困難にぶつかりながら助けあう場面もえがかれている。ところが、テレビアニメののび太は、一九七九年に放映がはじまってから二十年ちかく、ドラえもんの道具がなければなにもできない、無気力な「劣等れっとう生」のままで、まったく成長していない。当然、毎週放映されるテレビアニメの方が、子どもたちの目にふれる機会は、はるかに多い。せっかく原作コミックや劇場用長編アニメで子どもたちに教訓をあたえているのに、よりポピュラーなメディアであるテレビアニメの短絡たんらくさが気になってしかたない。もちろん、「それいけアンパンマン」や「ドラえもん」だけに問題があるのではない。もっとエグいものはいくらでもある。しかし、この二つのだれもが知っているアニメ番組ですら人と人がじっくり向き合い、どうすれば問題が解決するのか、掘り下げほ さ て考える場面が出てこない。少なくなっていく子どもたちの体験の場をおぎなうのではなく、短絡たんらく的なワンパターンをくり返すことで、長寿ちょうじゅ番組になっている。
 日本では、もめごとを「相手よりも強い力」や「他人の力」で、解決してすますアニメが多いが、もし、だれかにひどい目にあわせられている子どもがいるとして、かれのもとに「アンパンマン」は助けにきてくれないし、「ドラえもん」も近くにいない、となればいったい、どうすればいいのだろう。
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a 長文 7.4週 wapi
 一般いっぱんに「現代の精神的状況じょうきょうにおける自我の問題」云々うんぬんという場合、そこにはあるべき「自我」についての了解りょうかいがすでにあり、それが歪めゆが られ、しかも今日では失われているという見地が前提に含まふく れている。しかしそうして歪みゆが 喪失そうしつを、かりにわれわれが日本人とその社会について倫理りんり的に糾弾きゅうだんしてもあまり有意味ではないだろう。なぜならもともと「自我」概念がいねんそのものが、すぐれて近代哲学てつがくの産物であり、その哲学てつがくとはソクラテスや、ルターや、フランス革命などを経てきた西洋の伝統だからである。
 またそれだけに、「自我の形骸けいがい化」は西洋人にとっては深刻に受けとめられた。「大衆」をキーワードとしたヤスパースの状況じょうきょう判断なども、単に冷徹れいてつな時代分析ぶんせきというようなものではなく、あるべき「自我」の喪失そうしつへの危機感に裏打ちされた切実なものであった。だとすれば、そうした思想伝統を持たない日本人の場合に、「自我」の「喪失そうしつ云々うんぬんを言うことは本来できないはずであろう。
 ただ、「自我」概念がいねんが輸入された明治期には、本来のあるべき自己に目覚めた理想的な自我という観念は、単なる浪漫ろうまん主義に尽きるつ  ものではなく、それにはそれなりのリアリティーがあった。旧来の封建ほうけん制度や、その因習から生じるさまざまな抑圧よくあつに対する反抗はんこうを通じて「自我」が強調されたからである。すなわち、克服こくふくされるべき過去の遺物への「反」として強調された。だが、今日のわれわれの社会ではそうした抑圧よくあつも因習も多くは姿を消し、形だけが受容された「自我」概念がいねんも、それに伴いともな 中身は急速に曖昧あいまいかつ稀薄きはくになってきている。そう感じるのは私だけであろうか。
 西洋近代の啓蒙けいもう思想、科学、民主主義等を受容した後の、とくに戦後の日本で教育されたわれわれは、「自我」を確立すべきだとか、他人も自分と同じようにそれぞれの自我を持っているに違いちが ないと容易に信じてしまう。学校教育の場でも「主体性のある人間」が目標に掲げかか られる。「自らの意志で考え、行動を選択せんたくし、決定す
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る」生き方こそ、あるべき「自我」の姿だとされる。そこから自由と責任の表裏一体化が強く示唆しさされる。
 だがそうしようとすると、われわれは現実の社会や人間関係のなかでそのつど挫折ざせつし、当惑とうわくしてしまう。連続的でもなく主体的でもなく合理的でもないような自我たちが一般いっぱん的なのであり、そしてまた自分もその一人だからである。
 そもそも通常の生活では、「自らの意志で考え、行動を選択せんたくし、決定する」ような場面は実際のところかなりまれではないだろうか。多くの選択せんたくや決定は周囲の個々の状況じょうきょうのなかで、異なった要因の複雑なからみあいの結果として生じるからだ。
 しかしわれわれは他方では、自我の同一性や主体性を自分にも他人にも要求してやまない。信頼しんらいしていた人がもし従来の言動を急に変えると、われわれは多少とも当惑とうわくする。喜ぶ人はまずいない。あげくは裏切られたと憤慨ふんがいするかもしれない。それは、自我は西洋の「実体」概念がいねんのように、持続的、同一的なものであるという、ほとんど信仰しんこうにも近い前提が、われわれの日常の意識にすでに染み込んし こ でいるからだ。かりに環境かんきょうや性質がある程度変化しても、人格はいちいち変わらないだろうと予想する。こうして人格の不変は倫理りんり的に賞賛されるべき事柄ことがらであるのに対し、人格の変化は倫理りんり的に悪であるかのように非難される。(中略)
 そこで、いっそ前提を転換てんかんして、むしろ、西洋でいわれるような意味での不変の「自我」など、少なくとも日本人の社会ではだれも始めから持っていなかったし、持つと期待してもならない、と考えることはできないだろうか。「主体」的自我という啓蒙けいもう信仰しんこうを止めたほうが、われわれは誤解や絶望に陥らおちい ず、したがって無用の摩擦まさつ疲労ひろうを起こさずに済むのではないだろうか。

酒井さかい潔『自我の哲学てつがく史』による)
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a 長文 8.1週 wapi
 バルカンの歴史は宿命であるのだと、かの地のナショナリストは言う。たとえば、クロアチア人ならこう説明するだろう。バルカンで流血が繰り返さく かえ れるそもそもの原因は、自分たちクロアチア人が本質的にカトリックで、もとはといえばオーストリア=ハンガリー帝国ていこくの統治を受けたヨーロッパ人であるのに対し、セルビア人は本質的に東方正教徒であって、もとをただせばビザンチンのスラヴ人しかもトルコ人の残虐ざんぎゃく性と怠惰たいだをも少しく受け継ぐう つ 連中であるからだと。クロアチアとセルビアの国境をなすサヴァ川とドナウ川は、オーストリア=ハンガリー帝国ていこくとオスマン帝国ていこくのかつての境界線である。
 この歴史における断層があまりに強調されすぎると、セルビア対クロアチアの抗争こうそうは必然の運命として片づけられることにもなる。だがバルカン地域の問題は、過去が現在を決定するというよりは、現在が過去を操っていることにあると言えよう。
 かつてフロイトは、二人種間の違いちが が実際には小さければ小さいほど、その差は想像のなかで不気味に増幅ぞうふくされていくと主張して、この現象を「差のナルシシズム」と呼んだ。だとすれば、その当然の結果として、彼らかれ は相手との比較ひかくにおいてしか自己確認できなくなるはずである。自分はクロアチア人だ、セルビア人とは違うちが 。自分はセルビア人だ、クロアチア人とは違うちが 、といった具合に。憎悪ぞうおする敵なしには、信仰しんこうにも似た鮮明せんめいな民族意識は芽生えようがないのである。
 クロアチアでは、フラニョ・トゥジマン率いるHDZ(クロアチア民主共同派)がみずからを、バイエルン・キリスト教民主党を手本とした西欧せいおう型政治団体と名乗っているが、現実には、トゥジマン政権はセルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ政権と似通っており、両者とも、西欧せいおう型議会政治とは似ても似つかぬものである。いずれも、つい先頃さきごろまで共産党一党支配の国だった。現在、民主的であるというなら、それは、リーダーたちが庶民しょみん感情を操るすべに長けているという意味においてでしかない。部外者はみな、セルビア人とクロアチア人の違いちが にではなく、ほとんど見分けのつかな
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いことに驚かさおどろ  れる。どちらも何百語かの違いちが はあれ同じ言語を話し、何世紀にもわたって同じような村落生活を営んできた。片やカトリック、片や正教だが、都市化工業化によって宗教上の特徴とくちょうは目立たなくなってきた。そこで、双方そうほうの民族主義派の政治家たちは、「差のナルシシズム」を利用し、とんでもない作り話をこしらえた。自分たちはなんの非もない犠牲ぎせい者であり、相手側は民族虐殺ぎゃくさつの殺人だというのである。クロアチア人はひとり残らず暗殺者ウスタシャに、セルビア人はみな、けだものチェトニクにされてしまった。こうした、言葉による事前の煽りあお 立てが、共生関係を切り崩しき くず 、やがて現出する殺戮さつりく世界の下地となっていったのだ。
 それにしても不可解なのは、このような民族主義者のこしらえ話がなぜ根づいたか、なぜ悲劇にまで発展したかという点だ。でっちあげだと、民衆はちゃんと知っているのだから。クロアチア人がみなウスタシャというわけではない、セルビア人がみなチェトニクというわけではない、と承知しているのである。たとえ、やつらはみんなウスタシャさ、チェトニクさ、と口にするときですら、真実ではないとわかって言っている。紛争ふんそう勃発ぼっぱつ直前まで、両者は、隣人りんじん同士、友人同士、そして伴侶はんりょであったのだ。べつべつの惑星わくせいに住み分けていたわけではない。この点は、何度繰り返しく かえ ても強調しすぎることはない。(中略)現在の紛争ふんそうが一九四一年から四五年の内戦を引きずるものであることはたしかだが、それだけではすべてを説明しきれない。先の内戦から今度の紛争ふんそう勃発ぼっぱつまで五十年近く続いた穏やかおだ  な民族共生時代、あれはなんであったのかの事訳が定かでない。単なる休戦ではなかったはずだ。民族共生の平和はなぜ崩れくず たか――不倶戴天ふぐたいてんの敵同士ですら、この問いには、いまもなお、満足には答えられずにいるのである。
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a 長文 8.2週 wapi
 貧困な層の定義として世界銀行等でふつうに使われるのは、一日あたりの生活費が一ドルという水準である。一九九〇年には、この貧困ライン以下に一二億人が存在していたという。世界銀行はこのほかに、極貧層として、年間所得二七五ドル(一日あたり七五セント)以下というカテゴリーをつくった。このカテゴリーにふくまれる人びとは、一九九〇年で六億三〇〇〇万人であり、発展途上とじょう国の人口の一八%にのぼるとされる。貧困のこのようなコンセプトは正しいだろうか?
 正確にいえば、現実の構造を的確に認識する用具として、適切な定義の仕方といえるだろうか? 同じような資料は多いので、たまたま最近目にふれたありふれた事例の一つをとりあげてみよう。中国南部の少数部族ヤオ族の族支、巴馬瑶族ばまやおぞくの人たちの暮らす村々は、一〇〇さいをこえて元気な人たちの多い地域として知られるが、調査の対象となった一〇五さいの男性は、長生きの原因は「悩みなや がないこと」だろうと言っている。県の「老齢ろうれい委員会」は長寿ちょうじゅの原因として「1、温暖な気こう汚染おせんのない空気、2、食物が自然のもので、低脂肪しぼう、高栄養価であること、3、長年の畑仕事で体がきたえられ、飲酒、喫煙きつえん率が少ない」ことを挙げている(朝日新聞一九九五年九月四日記事)。「高栄養価」という食物は、「トウモロコシの粉と米のおかゆ、野草やサツマイモ、カボチャのくき、大豆などのスープやいためもの。肉は三日に一回の割合。」というものである。長寿ちょうじゅが幸福とは限らないが、九〇さい代くらいまでは元気で「悩みなや がない」ということは、よい人生だろうと想像する方が素直だろう。この巴馬瑶族ばまやおぞくの地域の一人あたり平均年収は四八〇〇円(一九九五年)で、一日あたり〇・一三ドルくらいである。
 アメリカの原住民のいくつかの社会の中にも、それぞれにちがったかたちの、静かで美しく豊かな日々があった。彼らかれ が住み、あるいは自由に移動していた自然の空間から切り離さき はな れ、共同体を解体された時に、彼らかれ は新しく不幸となり貧困となった。経済学の測定する「所得」の量は、このとき以前よりは多くなったはずである。貧困は、金銭をもたないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭をもたないことにある。貨幣かへいから
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疎外そがいの以前に、貨幣かへいへの疎外そがいがある。この二重の疎外そがいが、貧困の概念がいねんである。
 貨幣かへい媒介ばいかいとしてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人びとが投げ込まな こ れる時、つまり人びとの生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離さひ はな れ、共同体から引き離さひ はな れる時、貨幣かへいが人びとと自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介ばいかいする唯一ゆいいつの方法となり、「所得」が人びとの豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。(豊かさと貧困の近似的な尺度として存立し、幸福と不幸の一つの基礎きそ的な次元として成立する、というべきだろう。)(中略)
 一日に一ドル以下しか所得のない人が世界中に一二億人もいて、七五セント以下の「極貧層」さえ六億三〇〇〇万人もいるというような言説は、善い意図からされることが多いし、当面はよりよい政策の方に力を与えるあた  こともできるが、原理的には誤っているし、長期的には不幸を増大するような、開発主義的な政策を基礎きそづけてしまうことになるだろう。巴馬瑶族ばまやおぞくの人たちもアマゾンの多くの原住民も、今日この「一日一ドル以下」の所得しかない一二億人に入っているが、彼らかれ の「所得」を「一ドル以上」とするにちがいない政策によって、幸福のいくつもの次元を失い、不幸を増大する可能性の方が、現実にははるかに大きい。(視える幸福とひきかえに視えない幸福の次元を失い、測定のできる幸福とひきかえに測定のできない幸福の諸次元を失う可能性の方が大きい。)「自分たちの食べるもの」を作ることを禁止されたあのドミニカの農民たちは、食べるものを市場で買うほかに生きられないから、どこかの大量消費市場のための商品作物を作って金銭を得るほかはなく、「所得」は増大せざるをえない。この市場から、以前よりも貧しい食物しか手に入れることができなくなっても、彼らかれ は統計上、所得を向上したことになる。一日一ドルという「貧困」のラインから「救い上げられた」人口の統計のうちに入るかもしれないのである。このような「貧困」の定義は、まちがっているはずである。

(見田宗著『現代社会の理論』より)
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a 長文 8.3週 wapi
 もう一つの体験は、かれの目の前で起きたイスラーム教徒の殺人であった。センが住んでいた地域一帯でヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の暴力的な抗争こうそうが激化している中、イスラーム教徒の日雇いひやと 労働者だったその男は仕事をなくし、家にあった食べ物も底をつき、家族は飢えう ていた。それでやむをえず、かれはわずかな報酬ほうしゅう引き替えひ か たきぎをとどけるため、抗争こうそうのまっただ中をヒンドゥー教徒の居住する地区に出てきたのだった。通りでヒンドゥー教の暴徒に背中を刺ささ れたその男は、センの家に助けを求めて転がり込んころ  こ できたのだが、結局病院に運ばれる途中とちゅうで死んでしまったという。
 ここでもまた「出来事」はそれだけで十分に悲惨ひさんだ。しかし単なる悲劇ということをこえて、同じ暴力的抗争こうそうという事態の中で、なぜイスラーム教徒だけが仕事を失うことになったのか、なぜかれが危険を冒さおか なければならないような状況じょうきょう陥っおちい たのかということを考えれば、たとえ暴力的抗争こうそうという特別な事態でなくても、日頃ひごろからイスラーム教徒がヒンドゥー教徒に比べて不安定な職にしか就いておらず、何かあれば職を失いやすいような境遇きょうぐうにあったという社会的状況じょうきょうが見えてきただろう。先の飢饉ききんの場合と同じように、同じ境遇きょうぐうや条件の中であってもそこには変化に対して影響えいきょうを受けやすい「だれか」がいるのであり、いったん社会的な変動が起これば、その「だれか」が真っ先に被害ひがい被るこうむ ことになる。そしてその「だれか」は、決してでたらめに出てくるのではない。特定の地域の人々やなんらかの職業集団といったかたちでまとまって、以前からそこにあった社会的条件と関係しながら、そのような人々が「選びだされて」いってしまう。飢饉ききんだからといってみな飢えるう  わけではなく、暴動だからといってだれもが殺されるわけでもなく、このように同じ状況じょうきょう下にあるからといって、だれにでも同じように惨禍さんかがふりかかるわけではないのだ。
 
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飢饉ききん飢餓きがが、直接食糧しょくりょうの不足によって引き起こされるのではなく、また暴力的抗争こうそうの中で殺されたり傷つけられたりするといったことが、単純に出来事の「暴力性」からくるのではないというのであれば、そこにセンが語るように「社会的なもの」のはたらきを探ることができる。
 たとえば、身体的なハンディキャップというものを考えてみると分かりやすいかもしれない。同じものをもっていても、同じ条件のもとで生活していても、身体的にハンディがあれば他の人と「同じように」それを利用することはできないし、災害などに見舞わみま れれば、真っ先に不利な状況じょうきょうにおかれるのはこのような人たちだ。しかし、もう少し見えにくい社会的なハンディキャップといえるものもある。イスラーム教徒だというだけで職を失ってしまった男などはその例だろうし、また「外国人出稼ぎでかせ 労働者」として異国で生活しなければならない人たちの多くは、「権利」や「法」という点で仮に百歩譲っゆず て平等だとしても、普通ふつうはその権利を行使できたり、法を持ち出してものごとを要求したりすることができるような立場にはいない。ドイツに出稼ぎでかせ に行ったあるトルコ人は、カフェに入って、ようやく覚えた言いかたで「コーヒーを下さい」と言ったけれど、コーヒーは出てこないで「おまえの来るところではない」という視線を向けられただけだったと語っているが、コーヒーくらいならともかく、これが食糧しょくりょう不足とでもなろうものなら、真っ先に食べ物を売ってもらえなくなるのはこのような人たちということになるだろう。こうして彼らかれ は「被害ひがいを受けやすく」なってしまうのだ。そして、このようなハンディは「もの」の量や、「権利」や「法」の平等だけでなんとかなるというものではない、きわめて社会的かつ文化的なものなのである。

岡本おかもと真佐子まさこ「開発と文化」より)
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a 長文 8.4週 wapi
 何について、責任が問題となるのか? まず何よりも、行為こういにかんして、である。しかも、みずから何かを行うという行為こういだけでなく、何事かをしないという無為むいも、また他人が何かをするのを助ける・やめさせる行為こういをもふくめ、まずは行為こういにかんしてこそ、責任が問題となる。
 もちろん、行為こうい無為むいにかんして「他のようにはできなかった?」と問われるとき、その問は、その人の心理的・人格的な特性や、そのときの思考・感情にまで及ぶおよ 。しかし、繰り返せく かえ ば、そうした事柄ことがらにまで責任の問題が及ぶおよ のは、行為こういのありようが問われるからである。そのかぎりで、まずもって行為こうい焦点しょうてんを合わせるのは不当なことではない。
 では、だれが責任を負うのか?「行為こういした個人が」という答は、自明のようにも思える。しかし事態は、つねにそう単純であるとはかぎらない。なるほど、行為こういするのは、個人である。少なくとも行為こういは、意味を帯びた身体のふるまいにおいて遂行すいこうされるかぎり、身体なき存在は、行為こういできない。しかし、だからと言って、行為こういの責任を負うのは、当の個人にかぎられる、ということにはならない。
 このことが如実にょじつに問題となるのは、会社や国家といった組織が「集合的な行為こうい」を遂行すいこうするばあいである。しかし、会社や国家は、個人が行為こういするのと同じ仕方で、行為こういするのではない。ここでは、もっぱら個人に焦点しょうてんを合わせて、行為こういの責任を考えてみたい。
 個人が行為こういするときには、何の前提もなしに、本人にもわけ(理由)も分からぬまま、体が動くのではない。その人は、その人なりに状況じょうきょうを認知し、自分の欲求や、まわりからの期待や、自分の願望にもとづいて決断し、意図的に体を動かして、行為こういしている。何気ないささいな行為こういにおいてさえ、状況じょうきょうの認知・周囲の人たちの
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抱いいだ ている予期・期待、当人の中長期の計画などなど、多くのことが前提となっている。
 もし、状況じょうきょう認知・周囲からの期待・本人の計画といった行為こういの前提のいっさいが、その個人に由来し、その人によって自由に制御せいぎょできるのであれば、そのばあいには、行為こういにかかわる責任は、すべてその人にある、ということになろう。しかし、実際には、そうではない。状況じょうきょう認知・期待・欲求などなどといった行為こういの前提の多くは、まわりの人たちとの関係によって生じている。したがって、誤った情報を与えあた られたまま、あるいは過剰かじょうな期待を負わされたまま、その人が決断したときには、「本人がそう選択せんたくしたのだから、かれ彼女かのじょに全責任がある」とは言えない。そう決めつけるのは、実態とずれており、ばあいによっては苛酷かこくである。
 もちろん、だからといって、「本人が編み込まあ こ れていた関係が悪かった、環境かんきょうが悪かった」といった責任転嫁てんかが、つねに正当化されるわけではない。催眠さいみん術にかけられていたとか、舞踏ぶとう病で体が勝手に動いたとでもいうのでないかぎり、私たちは、自分が行為こういした理由(わけ)を問われる。思わず、あるいは何気なく行為こういしてしまって、自分でも理由を説明できないとしても、舞踏ぶとう病で体が勝手に動いてしまったのでもないかぎり、私たちは、自分の行為こういに責任を負っている。しかし、もし誤った情報を与えあた られて、あるいは過大な期待を負わされて、あるいは脅迫きょうはくされて、そう行為こういすることを選んだのであれば、誤った情報を与えあた た者、過大な期待を負わせたり脅迫きょうはくした者にも、その責任があるはずである。

(大庭健『「責任」ってなに?』による。一部改変)
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a 長文 9.1週 wapi
A、 およそ隣人りんじん間でもめごとの生じた場合、直ちに裁判に持ち込まも こ れることは少ない。多少なりとも当事者同士で話し合いがなされるものである。しかしいろいろと話し合ってみたが、争いはエスカレートするばかりで、どうしようもなくこじれた末に弁護士事務所に駆け込むか こ 場合が多い。多少の痛みは我慢がまんしたり薬を飲んだりして抑えおさ てきたが、どうしようもなく痛んだ末に歯科医に駆け込むか こ 場合と似ている。そこで歯科医は、「どうしてこれまで放っておいたのですか」と言い、弁護士も「どうしてもっと早く相談してくれなかったのですか」と言う。しかし当事者としては、我慢がまんできれば何もこんな所へ頭を下げて来やしませんよ、と答えたいだろう。
 このような現象は、二つのことを意味している。一つは、隣人りんじん間の紛争ふんそうを話し合いで解決することの困難さであり、もう一つは、弁護士の存在がいかに市民から遠いものかという点である。
 第一の隣人りんじん紛争ふんそう特殊とくしゅ性について。それは隣人りんじん愛が裏目に出た場合の困難さである。……すなわち、日頃ひごろ絶えず顔をつき合わせ、しかも親しい間柄あいだがらにあることから、いったん、いさかいが生ずると、あれほどまで親切にしてあげていたのにとか、あれほどまで信頼しんらいしていたのに、といった気持にかられ、うらみつらみが増幅ぞうふくするのである。それは、人に対する親近性と信頼しんらい性が強ければ強いほど、破られた時の怒りいか 増幅ぞうふくすることを物語っている。したがって、当事者同士が話し合いをしても、言葉の端々はしばしが、かえって火に油を注ぐ結果になりかねない。
 それでは、弁護士が介入かいにゅうした場合はどうか。この場合とても、かえって「弁護士まで連れてきた」といって怒りおこ 出す人もいる。弁護士が入ってきたことで、本格的な戦いをいどんできた、と思う人が今でも多い。
 しかし、隣人りんじん間の紛争ふんそうは、次の二つの理由から、当事者間の話し合いによる解決が望ましい。その一つは、すでに述べた隣人りんじん関係
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特殊とくしゅ性からくるものである。すなわち、隣人りんじん関係はどちらか一方が引っ越さひ こ ないかぎり、一生隣人りんじん同士の関係を断ち切れない間柄あいだがらにあるということである。にらみ合いのまま一生暮らさなければならないとしたら、これほどの悲劇はない。話し合いによる解決は、いつかまた従来の隣人りんじん関係を回復させる可能性を与えあた てくれる。
 りゅう喜助「裁判と義理人情」より)
 
B、 現在の日本の社会というのは非常に流動的ですね。……従来のコミュニティー的な人間関係、伝統的に培わつちか れてきたような人間関係がかなり大幅おおはば崩れくず てきまして、社会内のルールとか、社会内のメカニズムでは解決できないような問題がたくさん生じてきている。結局、裁判所とか、あるいは、人間が作った実定法に解決を求めざるをえないような、そういう事態が非常に増えてきているわけです。
 ……となりの人といっても何十年もあるいは何代も前からいっしょに住んでいるわけではありませんから、どこのだれかほんとうにはわからない人なんで、近隣きんりん社会とは言っても伝統的なものとは全く異なるだろうと思うのです。そうなりますと、近隣きんりんの関係で何年か親しく付き合っていると言っても、お互いに たが  口に出してはっきり確認しなくても了解りょうかいしあっているような自明のルールというものが、あるとは言えないのではないか。……それは都市だけではなくて、田舎のほうにまでそういう状況じょうきょうはだんだん及んおよ できていると思うんです。(中略)
 そういうときに、これは近隣きんりんの問題だから近隣きんりんで解決すべきだというふうに言えるのかどうか、私は疑問に思うのです。そうしますと、なにかの公的な解決の場に持って行くことも止むをえないのではないか。ルールがはっきりしていてはじめて信頼しんらい関係も成り立ちうるわけですから。

(星野英一編「隣人りんじん訴訟そしょうと法の役割」より)
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a 長文 9.2週 wapi
 知識の生産過程が人間の主観的内面世界での思索しさくにかかわるということは、しかしその産物としての知識が個人の主観を超えこ た客観的存在であることを妨げさまた ませんし、またその形成過程に客観的な要因が作用することを排除はいじょするものではありません。知識のこの二重性は、認識哲学てつがくと経験社会学とをいわば両親とした子供である知識社会学という学問分野を生み出しました。知識社会学の主題は、シェーラーの言い方にしたがえば人間の思考作用における「理念的」要因と「実在的」要因とがどのようにかかわり合っているかという問題であり、またマンハイムの言い方にしたがえば、人間の思考作用が「存在諸要因」によってどのように拘束こうそくされているかという問題です。シェーラーとマンハイムに共通しているのは、一方で認識や思考が精神的・主観的な過程であることを強調しながら、他方でその中に客観的とりわけ社会的過程が入り込んはい こ でくることを同時に強調する、という二重性にあるといえましょう。
 さてここで私がいいたいのは、情報にはこのような二重性はないということです。このことを、つぎの三点に分けて考えましょう。
 第一に、情報は具体的な事実の生起についての伝達であって、受け手が直接体験し得ない事柄ことがらについて、経験の範囲はんいを拡大してくれる、経験の代用物です。ということは、経験それ自体には主観的内面における加工・解釈かいしゃく・推理などは含まふく れていないのですから、情報もそれらのものを含まふく ない、ということを意味します。情報は知識の素材であり得るけれども、知識そのものではないというべきではないか。
 第二に、情報は瞬間しゅんかん的であって反復されず、したがって人の内面的世界において蓄積ちくせきされたり、累積るいせき的に進歩したりすることがありません。情報はルーマンがいうように、意外性を生命とする――意外なニュースほど価値が高い――ものです。いうまでもなく、意外性というのは一回限りのもので、反復され得ず蓄積ちくせきされ得ません。これに対して、知識は反復され、記憶きおくされ、蓄積ちくせきされていくものです。
 
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第三に、情報は不確実な事柄ことがらの不確実性を減らすために求められるものであり、いわば意思決定をより確実なものとする手段価値によって求められているのです。つまり情報は道具なのです。これに対して、知識は道具以上のものです。知識は、それ自体のために求められます。なぜなら、他者と知識のストックを共有することは、文化の共有として共通の生活世界を形成するのに役立つからです。情報の共有に、そのようなメリットはあるのでしょうか。(中略)
 これから、出生いらいパソコンとともに育った「新々人類」がふえていきます。私が心配していることは、彼らかれ がコンピューターには強いが本を読まない、情報には詳しいくわ  がものを考えない人種になっていくことです。彼らかれ が「ポスト工業社会」の制度的担い手たる大学や研究所の主役になったとき、その大学や研究所そのものが知識を生産する能力を失っていくことを心配するのは、私だけの単なる杞憂きゆうでしょうか。

(富永健一著『近代化の理論、――近代化における西洋と東洋』より抜粋ばっすい・編集)
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a 長文 9.3週 wapi
 ――高齢こうれい化社会には暗いイメージがつきまとっていますが。

 まず、高齢こうれい化現象というのは日本社会が成し遂げな と た素晴らしい大成果だということを強調したい。寿命じゅみょうが世界一、乳幼児死亡率が非常に低い、お年寄りがたくさんいて飢えう もせずに生活できるということは文句なしに日本の経済、社会が成し遂げな と た大成果です。海外で生活した人ならばみなさん同意されると思いますが、どんな外国にいっても手放しで自慢じまんできるのが日本の平均寿命じゅみょうが世界で一番だということ。日本製の自動車が世界で一番売れているといったことを自慢じまんしても、それがどうしたと反感を買いかねない。しかし平均寿命じゅみょうが世界で一番長いというと無条件でそれはすごいと言ってもらえます。
 詳しくくわ  言うと、人口の高齢こうれい化には平均寿命じゅみょうが延びたことと、出生率が低下したという二つの要因がありますが、この二つはともに経済成長の成果です。現在でも、発展途上とじょう国では人口爆発ばくはつが問題になっているように、子供をたくさんつくって労働力のあてにするという経済構造が戦前までの日本にもあった。乳児死亡率の高かった昔は子供をたくさん産んだという背景もあります。しかし、日本も豊かになるにつれ、人々は子供の数を少なくし一人ひとりの教育におカネをかけ、質の高い子供を育てようとするようになった。そういう意味で、出生率の低下は経済成長の結果といえます。
 いうまでもなく、寿命じゅみょうが大きく延びたことは生活水準の向上を物語っています。一般いっぱん的な健康水準が上がったのはもちろん、高度な医療いりょうに資源を注ぎ込むそそ こ ことができるようになった。これは、経済成長があったからにほかなりません。このように高齢こうれい化そのものは日本が世界に無条件で誇れるほこ  成果だということを忘れてはいけない。
 もっとも、高齢こうれい化が進むにつれ経済、社会面でいろいろな問題は起きるでしょう。高齢こうれい化社会が無条件ではうまくいかないこともまた事実です。重要なのは、高齢こうれい化に合ったように社会・経済の仕組みを素早くつくりかえていくことができるかどうかです。
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 私は高齢こうれい化に伴うともな さまざまな問題を調整問題だと捉えとら ています。高齢こうれい化というのは年寄りがたくさんいる状態。その状態に行き着いてしまえば、雇用こようでも社会保障でもそれに合うような合理的なシステムがつくりだされるはずです。問題は高齢こうれい者の比率がどんどんと増えていくプロセスにあります。高齢こうれい化が進む過程では高齢こうれい者が少なかった時代に効率的だった仕組みがまだ残っているので、古い仕組みと新しい人口構造の間の摩擦まさつが起こりやすい。古い仕組みをいかにすばやく新しい人口構造に合わせていくかが問題なのです。

 ――高齢こうれい化に伴うともな 成長減速を生産性向上である程度カバーできるにしても、やはり高齢こうれい者の扶養ふよう医療いりょう・年金など社会保障負担が若年世代の重荷となるという声が多いですが。

 たしかに、負担のあり方をめぐる世代間の対立などの問題も高齢こうれい化のプロセスのなかでは出てくるでしょう。ただ、それも高齢こうれい化に伴うともな 調整問題の一部です。つまり、高齢こうれい化が進むところまで進んで人口構造が安定してしまえば、負担をめぐる不公正というのは「個人が人生のいつの時期にいい思いをするか」というだけの問題になり、世代間の対立にはなりません。若い人が年寄りのために重い負担を強いられたとしても、その人が年寄りになったときに同じ数の人口の若い人たちが負担してくれることがルールとして決まっていれば納得を得ることもできるでしょう。そうなれば、個人が若いうちいい思いをしたいのか、年をとってからいい思いをしたいのかという時間選択せんたくだけの問題になります。(中略)
 だから、いまの高齢こうれい者世代というのは、自分たちの貢献こうけんによってつくりあげた高い生産性の成果を後の世代を通じて受け取っていると考えることもできます。単に「われわれ現役の賃金から多額の社会保障費用がとられていてそれが高齢こうれい者にいってるのはおかしいんじゃないか」とする議論は言い過ぎだと思います。われわれのもらっている高い賃金はいまの高齢こうれい者の貢献こうけんによって可能になった部分も少なくないのですから。
(清家あつし高齢こうれい化社会陰鬱いんうつ論を排すはい 」より)
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a 長文 9.4週 wapi
 本当のことを言えば、客観が主観と独立だなんてことはない。もちろん、自然は我々人間の存在を抜きぬ にしても存在することは間違いまちが あるまい。だから、自然そのものを客観であると考えれば、客観は我々の存在と独立に存在する。しかし、そんな客観では、いかなる公共性も持ち得ない。なぜならば、公共性を持つためには他人に伝達する必要があり、伝達するためにはとりあえず記述する必要があるからだ。記述するのは、個々の主観である。だから、公共性を持った客観が主観から独立しているということはあり得ないのだ。
 科学論文にはありのままの事実が書いてあると思っている人が多いけれども、実はここにあるのは事実ではなく記述である。たとえば、科学者がある実験をしたとする。ありのままの事実であるならば、実験をビデオに撮っと てみんなに見せればよい。しかし、そんなものは科学者仲間から決して業績とは認められないだろう。科学論文と認められるためには、実験から有意味であると科学者仲間が認めるものを選びとって記述しなければならないのである。だから科学における客観的記述と称するしょう  ものは事実そのものではない。
 客観というのは、ゆえに、事実から記述をなす時の、科学者仲間の約束ごとに支えられて成立しているのであり、この約束ごとは後にパラダイムという名で呼ばれるようになるのだが、そういうこととは無関係に、今でも、ほとんどの科学者は、記述は約束ごとではなく、事実であるゆえに客観的だと信じているらしいのだ。
 先に、科学が歴史上初めて、客観というやり方で公共性を担保した制度だと書いたけれども、この公共性も、実は法律と同じような単なる約束ごとであったわけだ。(中略)
 さて、このようにして記述する自分をたなあげしてしまえば、自然の中にはだれが記述しても同一のものがある、とのデカルト的信念は確固たるものとなる。たとえば、目の前の物体が、きれいであるか気持ち悪いか、いかがわしいか、といった記述は、記述する人の主観によって違うちが 。しかし、重さが何グラムであるとか、長さが何メートルであるとかは、記述する人の主観によって左右されることはない。これぞ、客観であるというわけだ。
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 何でもよいから、測定して数量化すれば科学的データになるとの信仰しんこうはここからくる。逆に言えば、数量化できにくい現象は、科学になりにくいのだ。たとえば、明るいとか暗いとかの記述は、科学的な記述とはみなされないが、照度何ルクスと書けば、たちまち科学的データになるわけだ。
 物理学が十九世紀から二十世紀の半ばにかけて、科学の最先端さいせんたんを走っているように見えたのは、ゆえないことではないのだ。物理学は最も数量化しやすい分野だからである。
 もう一つ、数値と並んでだれが記述しても同じものがある。それは、自然の中に存在する不変の実体である。もし、そういうものがあって、それに名前をつけることができれば、名前(記述)はだれにとっても同じものを指示するに違いちが ない。数値は不変といっても抽象ちゅうしょう的なものであるが、実体は具体的な物である。客観を重視した科学は、自然の中にある不変の実体を探す試みという面を強く持つようになる。これは素粒子そりゅうし論におけるクオーク(陽子や中性子の構成要素)やちょうひも(すべての物質の究極の構成要素として仮想されている最終実体)に続く道となる。
 さて、以上述べてきたような、客観的なるものによって理論を構築すれば、理論そのものが客観的になるのは論をまたない。このようにして、科学の理論はその中から「神」や「霊魂れいこん」や「主観」を抜いぬ て公共性を獲得かくとくしたのだ。客観的な理論は、原則的にはだれにも理解でき、その正否が何らかの実験によって、確かめられるものとなったのである。もちろん理論には内部矛盾むじゅんがあってはならず理論的整合的であることが求められる。

(池田清彦きよひこ『科学とオカルト』より)
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