長文集  9月4週  ○本当のことを言えば  wapi-09-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/06/09 09:54:40
 本当のことを言えば、客観が主観と独立だ
なんてことはない。もちろん、自然は我々人
間の存在を抜きにしても存在することは間違
いあるまい。だから、自然そのものを客観で
あると考えれば、客観は我々の存在と独立に
存在する。しかし、そんな客観では、いかな
る公共性も持ち得ない。なぜならば、公共性
を持つためには他人に伝達する必要があり、
伝達するためにはとりあえず記述する必要が
あるからだ。記述するのは、個々の主観であ
る。だから、公共性を持った客観が主観から
独立しているということはあり得ないのだ。
 科学論文にはありのままの事実が書いてあ
ると思っている人が多いけれども、実はここ
にあるのは事実ではなく記述である。たとえ
ば、科学者がある実験をしたとする。ありの
ままの事実であるならば、実験をビデオに撮
ってみんなに見せればよい。しかし、そんな
ものは科学者仲間から決して業績とは認めら
れないだろう。科学論文と認められるために
は、実験から有意味であると科学者仲間が認
めるものを選びとって記述しなければならな
いのである。だから科学における客観的記述
と称するものは事実そのものではない。
 客観というのは、ゆえに、事実から記述を
なす時の、科学者仲間の約束ごとに支えられ
て成立しているのであり、この約束ごとは後
にパラダイムという名で呼ばれるようになる
のだが、そういうこととは無関係に、今でも
、ほとんどの科学者は、記述は約束ごとでは
なく、事実であるゆえに客観的だと信じてい
るらしいのだ。
 先に、科学が歴史上初めて、客観というや
り方で公共性を担保した制度だと書いたけれ
ども、この公共性も、実は法律と同じような
単なる約束ごとであったわけだ。(中略)
 さて、このようにして記述する自分を棚あ
げしてしまえば、自然の中にはだれが記述し
ても同一のものがある、とのデカルト的信念
は確固たるものとなる。たとえば、目の前の
物体が、きれいであるか気持ち悪いか、いか
がわしいか、といった記述は、記述する人の
主観によって違う。しかし、重さが何グラム
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であるとか、長さが何メートルであるとかは
、記述する人の主観によって左右されること
はない。これぞ、客観であるというわけだ。

 何でもよいから、測定して数量化すれば科
学的データになるとの信仰はここからくる。
逆に言えば、数量化できにくい現象は、科学
になりにくいのだ。たとえば、明るいとか暗
いとかの記述は、科学的な記述とはみなされ
ないが、照度何ルクスと書けば、たちまち科
学的データになるわけだ。
 物理学が十九世紀から二十世紀の半ばにか
けて、科学の最先端を走っているように見え
たのは、ゆえないことではないのだ。物理学
は最も数量化しやすい分野だからである。
 もう一つ、数値と並んでだれが記述しても
同じものがある。それは、自然の中に存在す
る不変の実体である。もし、そういうものが
あって、それに名前をつけることができれば
、名前(記述)はだれにとっても同じものを
指示するに違いない。数値は不変といっても
抽象的なものであるが、実体は具体的な物で
ある。客観を重視した科学は、自然の中にあ
る不変の実体を探す試みという面を強く持つ
ようになる。これは素粒子論におけるクオー
ク(陽子や中性子の構成要素)や超ひも(す
べての物質の究極の構成要素として仮想され
ている最終実体)に続く道となる。
 さて、以上述べてきたような、客観的なる
ものによって理論を構築すれば、理論そのも
のが客観的になるのは論をまたない。このよ
うにして、科学の理論はその中から「神」や
「霊魂」や「主観」を抜いて公共性を獲得し
たのだ。客観的な理論は、原則的にはだれに
も理解でき、その正否が何らかの実験によっ
て、確かめられるものとなったのである。も
ちろん理論には内部矛盾があってはならず理
論的整合的であることが求められる。

(池田清彦『科学とオカルト』より)