長文 9.2週
1. 【1】知識の生産過程が人間の主観的内面世界での思索しさくにかかわるということは、しかしその産物としての知識が個人の主観を超えこ た客観的存在であることを妨げさまた ませんし、またその形成過程に客観的な要因が作用することを排除はいじょするものではありません。【2】知識のこの二重性は、認識哲学てつがくと経験社会学とをいわば両親とした子供である知識社会学という学問分野を生み出しました。【3】知識社会学の主題は、シェーラーの言い方にしたがえば人間の思考作用における「理念的」要因と「実在的」要因とがどのようにかかわり合っているかという問題であり、またマンハイムの言い方にしたがえば、人間の思考作用が「存在諸要因」によってどのように拘束こうそくされているかという問題です。【4】シェーラーとマンハイムに共通しているのは、一方で認識や思考が精神的・主観的な過程であることを強調しながら、他方でその中に客観的とりわけ社会的過程が入り込んはい こ でくることを同時に強調する、という二重性にあるといえましょう。
2. 【5】さてここで私がいいたいのは、情報にはこのような二重性はないということです。このことを、つぎの三点に分けて考えましょう。
3. 第一に、情報は具体的な事実の生起についての伝達であって、受け手が直接体験し得ない事柄ことがらについて、経験の範囲はんいを拡大してくれる、経験の代用物です。【6】ということは、経験それ自体には主観的内面における加工・解釈かいしゃく・推理などは含まふく れていないのですから、情報もそれらのものを含まふく ない、ということを意味します。情報は知識の素材であり得るけれども、知識そのものではないというべきではないか。
4. 【7】第二に、情報は瞬間しゅんかん的であって反復されず、したがって人の内面的世界において蓄積ちくせきされたり、累積るいせき的に進歩したりすることがありません。情報はルーマンがいうように、意外性を生命とする――意外なニュースほど価値が高い――ものです。【8】いうまでもなく、意外性というのは一回限りのもので、反復され得ず蓄積ちくせきされ得ません。これに対して、知識は反復され、記憶きおくされ、蓄積ちくせきされていくものです。
5. ∵【9】第三に、情報は不確実な事柄ことがらの不確実性を減らすために求められるものであり、いわば意思決定をより確実なものとする手段価値によって求められているのです。つまり情報は道具なのです。【0】これに対して、知識は道具以上のものです。知識は、それ自体のために求められます。なぜなら、他者と知識のストックを共有することは、文化の共有として共通の生活世界を形成するのに役立つからです。情報の共有に、そのようなメリットはあるのでしょうか。(中略)
6. これから、出生いらいパソコンとともに育った「新々人類」がふえていきます。私が心配していることは、彼らかれ がコンピューターには強いが本を読まない、情報には詳しいくわ  がものを考えない人種になっていくことです。彼らかれ が「ポスト工業社会」の制度的担い手たる大学や研究所の主役になったとき、その大学や研究所そのものが知識を生産する能力を失っていくことを心配するのは、私だけの単なる杞憂きゆうでしょうか。

7.(富永健一著『近代化の理論、――近代化における西洋と東洋』より抜粋ばっすい・編集)