ピラカンサ の山 9 月 1 週 (5)
★およそ隣人間でもめごとの(感)   池新  
【1】A、 およそ隣人(りんじん)間でもめごとの生じた場合、直ちに裁判に持ち込まれることは少ない。多少なりとも当事者同士で話し合いがなされるものである。しかしいろいろと話し合ってみたが、争いはエスカレートするばかりで、どうしようもなくこじれた末に弁護士事務所に駆け込む場合が多い。【2】多少の痛みは我慢したり薬を飲んだりして抑えてきたが、どうしようもなく痛んだ末に歯科医に駆け込む場合と似ている。そこで歯科医は、「どうしてこれまで放っておいたのですか」と言い、弁護士も「どうしてもっと早く相談してくれなかったのですか」と言う。【3】しかし当事者としては、我慢できれば何もこんな所へ頭を下げて来やしませんよ、と答えたいだろう。
 このような現象は、二つのことを意味している。【4】一つは、隣人(りんじん)間の紛争を話し合いで解決することの困難さであり、もう一つは、弁護士の存在がいかに市民から遠いものかという点である。
 第一の隣人紛争の特殊性について。それは隣人愛が裏目に出た場合の困難さである。【5】……すなわち、日頃絶えず顔をつき合わせ、しかも親しい間柄にあることから、いったん、いさかいが生ずると、あれほどまで親切にしてあげていたのにとか、あれほどまで信頼していたのに、といった気持にかられ、うらみつらみが増幅するのである。【6】それは、人に対する親近性と信頼性が強ければ強いほど、破られた時の怒りが増幅することを物語っている。したがって、当事者同士が話し合いをしても、言葉の端々が、かえって火に油を注ぐ結果になりかねない。
 【7】それでは、弁護士が介入した場合はどうか。この場合とても、かえって「弁護士まで連れてきた」といって怒り出す人もいる。弁護士が入ってきたことで、本格的な戦いをいどんできた、と思う人が今でも多い。
 【8】しかし、隣人(りんじん)間の紛争は、次の二つの理由から、当事者間の話し合いによる解決が望ましい。その一つは、すでに述べた隣人関係∵の特殊性からくるものである。すなわち、隣人関係はどちらか一方が引っ越さないかぎり、一生隣人同士の関係を断ち切れない間柄にあるということである。【9】にらみ合いのまま一生暮らさなければならないとしたら、これほどの悲劇はない。話し合いによる解決は、いつかまた従来の隣人関係を回復させる可能性を与えてくれる。
 【0】(竜嵜喜助「裁判と義理人情」より)
 
B、 現在の日本の社会というのは非常に流動的ですね。……従来のコミュニティー的な人間関係、伝統的に培われてきたような人間関係がかなり大幅に崩れてきまして、社会内のルールとか、社会内のメカニズムでは解決できないような問題がたくさん生じてきている。結局、裁判所とか、あるいは、人間が作った実定法に解決を求めざるをえないような、そういう事態が非常に増えてきているわけです。
 ……隣の人といっても何十年もあるいは何代も前からいっしょに住んでいるわけではありませんから、どこのだれかほんとうにはわからない人なんで、近隣社会とは言っても伝統的なものとは全く異なるだろうと思うのです。そうなりますと、近隣の関係で何年か親しく付き合っていると言っても、お互いに口に出してはっきり確認しなくても了解しあっているような自明のルールというものが、あるとは言えないのではないか。……それは都市だけではなくて、田舎のほうにまでそういう状況はだんだん及んできていると思うんです。(中略)
 そういうときに、これは近隣の問題だから近隣で解決すべきだというふうに言えるのかどうか、私は疑問に思うのです。そうしますと、なにかの公的な解決の場に持って行くことも止むをえないのではないか。ルールがはっきりしていてはじめて信頼関係も成り立ちうるわけですから。

(星野英一編「隣人訴訟と法の役割」より)