長文集  8月4週  ○何について、責任が  wapi-08-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/06/09 09:54:28
 何について、責任が問題となるのか? ま
ず何よりも、行為にかんして、である。しか
も、みずから何かを行うという行為だけでな
く、何事かをしないという無為も、また他人
が何かをするのを助ける・やめさせる行為を
もふくめ、まずは行為にかんしてこそ、責任
が問題となる。
 もちろん、行為・無為にかんして「他のよ
うにはできなかっ  た?」と問われるとき
、その問は、その人の心理的・人格的な特性
や、そのときの思考・感情にまで及ぶ。しか
し、繰り返せば、そうした事柄にまで責任の
問題が及ぶのは、行為のありようが問われる
からである。そのかぎりで、まずもって行為
に焦点を合わせるのは不当なことではない。
 では、誰が責任を負うのか?「行為した個
人が」という答は、自明のようにも思える。
しかし事態は、つねにそう単純であるとはか
ぎらない。なるほど、行為するのは、個人で
ある。少なくとも行為は、意味を帯びた身体
のふるまいにおいて遂行されるかぎり、身体
なき存在は、行為できない。しかし、だから
と言って、行為の責任を負うのは、当の個人
にかぎられる、ということにはならない。
 このことが如実に問題となるのは、会社や
国家といった組織が「集合的な行為」を遂行
するばあいである。しかし、会社や国家は、
個人が行為するのと同じ仕方で、行為するの
ではない。ここでは、もっぱら個人に焦点を
合わせて、行為の責任を考えてみたい。
 個人が行為するときには、何の前提もなし
に、本人にもわけ(理由)も分からぬまま、
体が動くのではない。その人は、その人なり
に状況を認知し、自分の欲求や、まわりから
の期待や、自分の願望にもとづいて決断し、
意図的に体を動かして、行為している。何気
ないささいな行為においてさえ、状況の認知
・周囲の人たちの∵抱いている予期・期待、
当人の中長期の計画などなど、多くのことが
前提となっている。
 もし、状況認知・周囲からの期待・本人の
計画といった行為の前提のいっさいが、その
個人に由来し、その人によって自由に制御で
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きるのであれば、そのばあいには、行為にか
かわる責任は、すべてその人にある、という
ことになろう。しかし、実際には、そうでは
ない。状況認知・期待・欲求などなどといっ
た行為の前提の多く は、まわりの人たちと
の関係によって生じている。したがって、誤
った情報を与えられたまま、あるいは過剰な
期待を負わされたま ま、その人が決断した
ときには、「本人がそう選択したのだから、
彼・彼女に全責任がある」とは言えない。そ
う決めつけるのは、実態とずれており、ばあ
いによっては苛酷である。
 もちろん、だからといって、「本人が編み
込まれていた関係が悪かった、環境が悪かっ
た」といった責任転嫁が、つねに正当化され
るわけではない。催眠術にかけられていたと
か、舞踏病で体が勝手に動いたとでもいうの
でないかぎり、私たちは、自分が行為した理
由(わけ)を問われる。思わず、あるいは何
気なく行為してしまって、自分でも理由を説
明できないとしても、舞踏病で体が勝手に動
いてしまったのでもないかぎり、私たちは、
自分の行為に責任を負っている。しかし、も
し誤った情報を与えられて、あるいは過大な
期待を負わされて、あるいは脅迫されて、そ
う行為することを選んだのであれば、誤った
情報を与えた者、過大な期待を負わせたり脅
迫した者にも、その責任があるはずである。

(大庭健『「責任」ってなに?』による。一
部改変)