長文集  8月3週  ★もう一つの体験は(感)  wapi-08-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】もう一つの体験は、彼の目の前で起
きたイスラーム教徒の殺人であった。センが
住んでいた地域一帯でヒンドゥー教徒とイス
ラーム教徒の暴力的な抗争が激化している中
、イスラーム教徒の日雇い労働者だったその
男は仕事をなくし、家にあった食べ物も底を
つき、家族は飢えていた。【2】それでやむ
をえず、彼はわずかな報酬と引き替えに薪を
とどけるため、抗争のまっただ中をヒンドゥ
ー教徒の居住する地区に出てきたのだった。
【3】通りでヒンドゥー教の暴徒に背中を刺
されたその男は、センの家に助けを求めて転
がり込んできたのだが、結局病院に運ばれる
途中で死んでしまったという。
 【4】ここでもまた「出来事」はそれだけ
で十分に悲惨だ。しかし単なる悲劇というこ
とをこえて、同じ暴力的抗争という事態の中
で、なぜイスラーム教徒だけが仕事を失うこ
とになったのか、なぜ彼が危険を冒さなけれ
ばならないような状況に陥ったのかというこ
とを考えれば、【5】たとえ暴力的抗争とい
う特別な事態でなくても、日頃からイスラー
ム教徒がヒンドゥー教徒に比べて不安定な職
にしか就いておらず、何かあれば職を失いや
すいような境遇にあったという社会的状況が
見えてきただろう。【6】先の飢饉の場合と
同じように、同じ境遇や条件の中であっても
そこには変化に対して影響を受けやすい「誰
か」がいるのであり、いったん社会的な変動
が起これば、その「誰か」が真っ先に被害を
被ることになる。【7】そしてその「誰か」
は、決してでたらめに出てくるのではない。
特定の地域の人々やなんらかの職業集団とい
ったかたちでまとまって、以前からそこにあ
った社会的条件と関係しながら、そのような
人々が「選びだされて」いってしまう。【8
】飢饉だからといって皆が飢えるわけではな
く、暴動だからといって誰もが殺されるわけ
でもなく、このように同じ状況下にあるから
といって、誰にでも同じように惨禍がふりか
かるわけではないのだ。
 ∵【9】飢饉や飢餓が、直接食糧の不足に
よって引き起こされるのではなく、また暴力
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的抗争の中で殺されたり傷つけられたりする
といったことが、単純に出来事の「暴力性」
からくるのではないというのであれば、そこ
にセンが語るように「社会的なもの」のはた
らきを探ることができる。
 【0】たとえば、身体的なハンディキャッ
プというものを考えてみると分かりやすいか
もしれない。同じものをもっていても、同じ
条件のもとで生活していても、身体的にハン
ディがあれば他の人と「同じように」それを
利用することはできないし、災害などに見舞
われれば、真っ先に不利な状況におかれるの
はこのような人たち だ。しかし、もう少し
見えにくい社会的なハンディキャップといえ
るものもある。イスラーム教徒だというだけ
で職を失ってしまった男などはその例だろう
し、また「外国人出稼ぎ労働者」として異国
で生活しなければならない人たちの多くは、
「権利」や「法」という点で仮に百歩譲って
平等だとしても、普通はその権利を行使でき
たり、法を持ち出してものごとを要求したり
することができるような立場にはいない。ド
イツに出稼ぎに行ったあるトルコ人は、カフ
ェに入って、ようやく覚えた言いかたで「コ
ーヒーを下さい」と言ったけれど、コーヒー
は出てこないで「おまえの来るところではな
い」という視線を向けられただけだったと語
っているが、コーヒーくらいならともかく、
これが食糧不足とでもなろうものなら、真っ
先に食べ物を売ってもらえなくなるのはこの
ような人たちということになるだろう。こう
して彼らは「被害を受けやすく」なってしま
うのだ。そして、このようなハンディは「も
の」の量や、「権利」や「法」の平等だけで
なんとかなるというものではない、きわめて
社会的かつ文化的なものなのである。

(岡本真佐子「開発と文化」より)