長文集  8月2週  ★貧困な層の定義として(感)  wapi-08-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2017/08/28 11:36:20
 【1】貧困な層の定義として世界銀行等で
ふつうに使われるの は、一日あたりの生活
費が一ドルという水準である。一九九〇年に
は、この貧困ライン以下に一二億人が存在し
ていたという。【2】世界銀行はこのほかに
、極貧層として、年間所得二七五ドル(一日
あたり七五セント)以下というカテゴリーを
つくった。このカテゴリーにふくまれる人び
とは、一九九〇年で六億三〇〇〇万人であ 
り、発展途上国の人口の一八%にのぼるとさ
れる。貧困のこのようなコンセプトは正しい
だろうか?
 正確にいえば、現実の構造を的確に認識す
る用具として、適切な定義の仕方といえるだ
ろうか? 同じような資料は多いので、たま
たま最近目にふれたありふれた事例の一つを
とりあげてみよう。【3】中国南部の少数部
族ヤオ族の族支、巴馬瑶族(ばまやおぞく)
の人たちの暮らす村々は、一〇〇歳をこえて
元気な人たちの多い地域として知られるが、
調査の対象となった一〇五歳の男性は、長生
きの原因は「悩みがないこと」だろうと言っ
ている。【4】県の「老齢委員会」は長寿の
原因として「1、温暖な気侯と汚染のない空
気、2、食物が自然のもので、低脂肪、高栄
養価であること、3、長年の畑仕事で体がき
たえられ、飲酒、喫煙率が少ない」ことを挙
げている(朝日新聞一九九五年九月四日記事
)。【5】「高栄養 価」という食物は、「
トウモロコシの粉と米のおかゆ、野草やサツ
マイモ、カボチャの茎、大豆などのスープや
いためもの。肉は三日に一回の割合。」とい
うものである。【6】長寿が幸福とは限らな
いが、九〇歳代くらいまでは元気で「悩みが
ない」ということは、よい人生だろうと想像
する方が素直だろう。【7】この巴馬瑶族(
ばまやおぞく)の地域の一人あたり平均年収
は四八〇〇円(一九九五年)で、一日あたり
〇・一三ドルくらいである。
 アメリカの原住民のいくつかの社会の中に
も、それぞれにちがったかたちの、静かで美
しく豊かな日々があった。【8】彼らが住 
み、あるいは自由に移動していた自然の空間
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から切り離され、共同体を解体された時に、
彼らは新しく不幸となり貧困となった。経済
学の測定する「所得」の量は、このとき以前
よりは多くなったはずである。【9】貧困は
、金銭をもたないことにあるのではない。金
銭を必要とする生活の形式の中で、金銭をも
たないことにある。貨幣から∵の疎外の以前
に、貨幣への疎外がある。この二重の疎外 
が、貧困の概念である。
 【0】貨幣を媒介としてしか豊かさを手に
入れることのできない生活の形式の中に人び
とが投げ込まれる時、つまり人びとの生がそ
の中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同
体を解体し、あるいは自然から引き離され、
共同体から引き離される時、貨幣が人びとと
自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する
唯一の方法となり、「所得」が人びとの豊か
さと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れ
る。(豊かさと貧困の近似的な尺度として存
立し、幸福と不幸の一つの基礎的な次元とし
て成立する、というべきだろう。)(中略)
 一日に一ドル以下しか所得のない人が世界
中に一二億人もいて、七五セント以下の「極
貧層」さえ六億三〇〇〇万人もいるというよ
うな言説は、善い意図からされることが多い
し、当面はよりよい政策の方に力を与えるこ
ともできるが、原理的には誤っているし、長
期的には不幸を増大するような、開発主義的
な政策を基礎づけてしまうことになるだろう
。巴馬瑶族(ばまやおぞく)の人たちもアマ
ゾンの多くの原住民も、今日この「一日一ド
ル以下」の所得しかない一二億人に入ってい
るが、彼らの「所得」を「一ドル以上」とす
るにちがいない政策によって、幸福のいくつ
もの次元を失い、不幸を増大する可能性の方
が、現実にははるかに大きい。(視える幸福
とひきかえに視えない幸福の次元を失い、測
定のできる幸福とひきかえに測定のできない
幸福の諸次元を失う可能性の方が大きい。)
「自分たちの食べるもの」を作ることを禁止
されたあのドミニカの農民たちは、食べるも
のを市場で買うほかに生きられないから、ど
こかの大量消費市場のための商品作物を作っ
て金銭を得るほかはなく、「所得」は増大せ
ざるをえない。この市場から、以前よりも貧
しい食物しか手に入れることができなくなっ
ても、彼らは統計上、所得を向上したことに
なる。一日一ドルという「貧困」のラインか
ら「救い上げられた」人口の統計のうちに入
るかもしれないのである。このような「貧困
」の定義は、まちがっているはずである。

(見田宗介()著『現代社会の理論』より)